的場悠人の体和 Tai-wa 日記

理論と実践を行き来するヨガ研究者。ここではヨガ以外のことも。大学時代から継続のブログ。

変動、交流、非・技法的カラダ

 

身体「技法」、身体「操法」、身体「術」・・・

これらの言葉からイメージされるのは、「いかにカラダを動かすか」に関する探究だということだ。

 

確かに、この視点からもたくさんのことを語ることができる。

ただし、これらの言葉が暗黙のうちに前提していることがある。

 

それは、「カラダがある」ということだ。

 

どういうこと?

 

もう少し言うと、「ここからここまでがカラダ」と言えるカラダがあり、効果的な運用法を「探究できる対象」としてのカラダがあり、技法を試し得る「媒体」としてのカラダがあるということだ。

 

ところが、この前提に立っているかぎり、見えてこない世界があるのではないか。

 

今日、僕が思い立って試したことは、いわば技法を失う技法であり、「カラダが適応するに任せる」ということだ。(僕にこの発想を与えてくれたのは、「アフォーダンス」という理論だ)

 

何かの技法を行使する媒体としての「カラダ」が存在すると見なすことをやめ、ただ、置かれた環境の中に佇んでみた。

言い換えれば、「環境」と「カラダ」の境目で起こる事を、成りゆくままに放っておいた。

 

f:id:yutoj90esp:20170610015238j:plain

 

例えば、慣れない場所に飛び込み、緊張しているという状況。

こんな時「技法」的発想を持っていると、「ドキドキしているから、深呼吸して落ち着こう」などの手法を取りがちだ。(僕もそうだ)

言い換えれば、カラダと環境との間に境目を設け、主体としてのカラダにおいて「何をすべきか」考え始めてしまう。

 

しかし、僕らが何かをしようとしまいと、その場に置かれたその瞬間から、僕らのカラダは適応を始める。

梅干しを口に入れれば唾液が湧きだしてくるように、おのずとカラダは対応を始める。

まさに無常であり、一瞬たりとも同じ瞬間がない。

 

この変化を観察すればするほど、どこまでが自分のカラダか分からなくなる。

吸う空気、触るもの、口に入れるもの。

これらは僕らのカラダの内部に入り込んできて、カラダを変化させる。

というより、一体となってともに変化していく。もはやここに、主体も客体もない。

 

しかし、技法的にカラダを操作しようとすると、「固定化された状態」を想定しなければならなくなる。

「いまドキドキしているから○○しよう」と考えるまさにその時、「ドキドキしている自分」を固定化し、その上で方法論を組み立てようとしている。しかも、カラダを独立して扱おうとするので、カラダと環境の交流が絶たれる。

 

変動するカラダ、交流するカラダにとって、この働きかけは不自然だ。

「ドキドキしているから・・」と必死に考えれば考えるほど、ますます「ドキドキしたカラダ」が固定化し、しかも環境が介入し得ないものとして個別化していく。

 

カラダは、環境と相即なものであり、固定化も個別化もし得ないはずなのに。

 

 

カラダも環境も、ただ変化していくものであり、それらを無理に維持したり、いじったりするものではないのかもしれない。

そう思うと、これまで「わたし」だと思っていたカラダが急に遠くのものに見えた。

 

いや、むしろカラダも環境も、みんなが一体となって変動、交流する「わたしたち」と言ってもいいかもしれない。

そんなにぎやかさで生きるのは、たぶん結構楽しい。