変動、交流、非・技法的カラダ
身体「技法」、身体「操法」、身体「術」・・・
これらの言葉からイメージされるのは、「いかにカラダを動かすか」に関する探究だということだ。
確かに、この視点からもたくさんのことを語ることができる。
ただし、これらの言葉が暗黙のうちに前提していることがある。
それは、「カラダがある」ということだ。
どういうこと?
もう少し言うと、「ここからここまでがカラダ」と言えるカラダがあり、効果的な運用法を「探究できる対象」としてのカラダがあり、技法を試し得る「媒体」としてのカラダがあるということだ。
ところが、この前提に立っているかぎり、見えてこない世界があるのではないか。
今日、僕が思い立って試したことは、いわば技法を失う技法であり、「カラダが適応するに任せる」ということだ。(僕にこの発想を与えてくれたのは、「アフォーダンス」という理論だ)
何かの技法を行使する媒体としての「カラダ」が存在すると見なすことをやめ、ただ、置かれた環境の中に佇んでみた。
言い換えれば、「環境」と「カラダ」の境目で起こる事を、成りゆくままに放っておいた。
例えば、慣れない場所に飛び込み、緊張しているという状況。
こんな時「技法」的発想を持っていると、「ドキドキしているから、深呼吸して落ち着こう」などの手法を取りがちだ。(僕もそうだ)
言い換えれば、カラダと環境との間に境目を設け、主体としてのカラダにおいて「何をすべきか」考え始めてしまう。
しかし、僕らが何かをしようとしまいと、その場に置かれたその瞬間から、僕らのカラダは適応を始める。
梅干しを口に入れれば唾液が湧きだしてくるように、おのずとカラダは対応を始める。
まさに無常であり、一瞬たりとも同じ瞬間がない。
この変化を観察すればするほど、どこまでが自分のカラダか分からなくなる。
吸う空気、触るもの、口に入れるもの。
これらは僕らのカラダの内部に入り込んできて、カラダを変化させる。
というより、一体となってともに変化していく。もはやここに、主体も客体もない。
しかし、技法的にカラダを操作しようとすると、「固定化された状態」を想定しなければならなくなる。
「いまドキドキしているから○○しよう」と考えるまさにその時、「ドキドキしている自分」を固定化し、その上で方法論を組み立てようとしている。しかも、カラダを独立して扱おうとするので、カラダと環境の交流が絶たれる。
変動するカラダ、交流するカラダにとって、この働きかけは不自然だ。
「ドキドキしているから・・」と必死に考えれば考えるほど、ますます「ドキドキしたカラダ」が固定化し、しかも環境が介入し得ないものとして個別化していく。
カラダは、環境と相即なものであり、固定化も個別化もし得ないはずなのに。
カラダも環境も、ただ変化していくものであり、それらを無理に維持したり、いじったりするものではないのかもしれない。
そう思うと、これまで「わたし」だと思っていたカラダが急に遠くのものに見えた。
いや、むしろカラダも環境も、みんなが一体となって変動、交流する「わたしたち」と言ってもいいかもしれない。
そんなにぎやかさで生きるのは、たぶん結構楽しい。