残酷な色、もしくは残酷な人間(色覚異常の僕が見る世界)
色覚異常の僕は、見えている世界の色を、○○色という名前に変換する作業が苦手だ。
また、世界の中から○○色を探すのも苦手だ。
仮に、僕がこれらのことにチャレンジすると、何が起きるか。ちょっと劇場的に書いてみる。
やんちゃな色たち
「これ何色?」
この問いが発せられた瞬間、
見えている世界の色たちは、「俺たちは○○色なんていう型にはまらないぞ!」と、猛烈に主張してくる。
結局僕は、彼ら(色たち)を、なんと呼んだらいいのか分からなくなる。
中には、わずかだが、「○○色」という型のど真ん中に、おとなしく、従順に座り込んでくる色もある。
僕はそれを、「典型的な赤」などと呼びたくなる。
だいたいが人工物だ。作られた色。
僕が「典型的な赤」と呼びたくなるのはこんな色だ。
一方、僕にとって、それ以外のほとんどの色は、○○色という型にはめこまれることに反発する。
血気盛んな、反抗期のような色たち。
絶対に手に負えないやんちゃな子どもを相手にしているような気分になる。
特に、木、草などの自然物についている色たちの反発は、とんでもない!
彼らは、一瞬たりとも、落ち着いて「○○色」の中に座り込んでくれない。
ちょっと日が当たったり、風が吹いたりするだけで、すぐにフラーっとどこかに行ってしまう。
落ち着いて、「○○色」という名前を与えてあげようとした瞬間、もう違うような気がしてしまう。
必死になって名前を探す僕に、色たちは全く取り合ってくれない。
こういう花たちも、なかなか分かりにくく、僕を困らせる色をしている。
ちなみに、僕が着ているこのシャツは、「典型的な黄色」と呼びたくなる色だ。
反対に、世界から「○○色」のものを探すという試みをしてみる。
その瞬間、色たちは「見つかるもんか!」と一斉にかくれんぼをし始めてしまう。
「○○色、出てこい!」と呼び掛けてみても、「俺たちはそんな名前じゃない!」と、そっぽを向かれてしまう。
やっぱり、色たちは僕に優しくない。
世界か自分の方か。
こうやってみると、色たちは、僕にとって、ずいぶんと意地悪で、残酷だ。
いや、たぶん、本当は僕たちのほうが残酷なんだ。
各々の色が持つ多彩な個性の数々を捨象し、ある名前の中に押し込もうとすることのほうがきっと、暴力的で、残酷なんだと思う。
ある人が、僕の色覚異常を肯定的に捉えてくれたおかげで、僕も自分の目から見える「やんちゃな色たちの世界」を、幾分か肯定的に見られるようになってきた。
僕が困るのをよそに、好き勝手、個性を発揮しまくっている自由な色たちは、なんだか愛おしい。
逆に、おとなしく「○○色」であることを認めてくる従順な色たちは、なんだか、人間に支配されているみたいで、ちょっとかわいそうだ。
「ごめんね、人間がこんな色を塗っちゃって」と言いたくなる。
世界は、本来人間の手に負えないほど自由で、力強くて、残酷で、優しい。
こんなことを書いていたら、なんだかこんな歌詞を連想した。
汚れちゃったのはどっちだ。世界か自分の方か。いずれにせよ、その瞳は開けるべきなんだよ。それが全て、気が狂うほど、まともな日常。(「ギルド」BUMP OF CHICKEN)