誤解への賛歌
これも私じゃない、あれも私じゃない。
今、私だと思っているこれは、じっくりと眺め、循環させ、ちょっと離れてみると、
ただの「私の一部」であって、決して私そのものではない。
より大きな私が流れ込んでくる。
この繰り返しなのか?
どこまでいっても「終わり」はないのか?
でも、「より大きな私」が流れ込んでくるためには、
まずその「より小さな私」と合一し、十分にそれを生き、全うしてやらなきゃならないみたいだ。
その時、「より小さな私」は、私そのものなのだ。
それは誤解に過ぎないのだけど、誤解することができて本当に良かった。
無限なる退屈を味わう代わりに、
日ごとに新しく、大きく、深くなる私の海に、
安らいでいられるのだから。