的場悠人の体和 Tai-wa 日記

理論と実践を行き来するヨガ研究者。ここではヨガ以外のことも。大学時代から継続のブログ。

ヨーガ・スートラ

ヨーガスートラ・Googleマップ説

卒論執筆中に思いついたこと。 ひとつの例えとして有効かな、と思ったので書いてみる。 「ヨーガスートラは、Googleマップのようなもの。」 それ全てを通読し、見通し、理解することを目的に書かれたものではない。 世界地図を隈なく見尽くして、(世界その…

聖なるものに関わる「秘密」について

ベイトソンが挙げている例としては、バレリーナの踊りが白鳥のように見えるという時。 単に「白鳥のようなもの」として、比喩的な役割をする時と、 本当に「白鳥そのもののような感じ」を醸し出し、聖体(サクラメント)として見なされるような時、明らかに…

〈やや力作〉ヨガ・サーダナにおける「自己」認識の変化

ヨガにおけるサーダナ(実践:あなたが実際に行えること)。 アーサナ(呼吸に合わせて動く身体運動)とプラーナーヤーマ(身体の動きを止め、坐って行う呼吸の調整)。 これらによって、「自己」というもののとらえ方が変化することがある。 アーサナとは何…

No Rush!

どんなに畑仕事を頑張っても、たくさん水や栄養を与えても、それで収穫が早くなるわけではない。 生が経験することを早送りで進めることはできない。 どんなに厚い本も、1ページずつ読み進めるしかない。 本の厚さを見て、まだこれしか読んでいないのか、と…

はかない「自分」による「自分」論

前回の記事を読んでくれた人から、質問をもらった。 前回記事「因果の中に位置づけられるヨガ」 問題となった箇所はこちら。 原因と結果の連鎖を見通し、諸々の関係において浮かび上がってくる「自分」というものについて知ること(svadhyaya 自己理解)。 …

因果の中に位置づけられるヨガ

前回から引き続き、「原因と結果の究明に忙しい世」ということについて書いてみる。 この思考パターンに慣れ過ぎると、特定の何かを、すべてを解決するような救世主的存在として置きたくなる。 ヨガを伝える際も、そんな願望を持っていそうな人に出会う。 あ…

Satー在るーの知覚

神秘とは、世界がいかにあるかではなく、あるというそのことである。 (ウィトゲンシュタイン) 「在る」ということが、すでにはらんでいる神秘、美、完全性がある。 これは、(その気になれば、)いつでも味わい得る。 この味をしっかりと覚えておいて、あ…

ハタ・ヨーガの自己愛的な性格と、世界への愛

カラダをえこひいき的に愛することと、 カラダへの愛から世界への愛へと広げていくことの違い。 「私だけは!」「このカラダだけは!」という仕方で現れてくる自己愛的なカラダへの愛は、偏愛だ。 アーサナを中心としたハタ・ヨーガの実践は、一見このような…

いのちという〈コト〉

私のそもそもの原点は、昆虫が大好きな昆虫少年として野原で虫を追いながら、自然の美しさや、例えば蝶の一生での、それが芋虫(幼虫)から蝶(成虫)に変わっていくメタモルフォ―シス(変態)のすばらしさなどに感動したところにあります。(・・) 生命と…

ヨーガ・スートラ超簡約(講座用メモ)

*テキストには書かれていないこと 「真実はテキストの中にではなく、あなたの中にある。あなたが真実である」 したがって、読まなければならないテキストはないし、理解しなければならない哲学もない。だから、もしヨーガ・スートラに書かれていることを理…

注意と散漫 ヨーガ・スートラをめぐって

僕らのマインドは、集中したり、散漫だったりする(集中、としたけれど、中に集めるのではなく、対象に注意を向ける、というイメージ)。 何かに集中しているのであれば、その対象を手掛かりにして、世界との関係を取り結ぶことができる。 この状態は、他の…

ダーラナ、ディヤーナ、サマーディ

前回の考察から引き続き。 ひとまず世界の中で他から隔たれたものとして「個」を想定し、その「個」をより幸せにしようとする努力 =きわめて人間的な、誰もがやっている努力 この努力は、見られるもの(プラクリティ)の内部のことであり、この努力に躍起に…

ヨーガ・スートラ解釈のメモ

【見るものと見られるもの】 見るもの・・実存、プルシャ、単にそこにある、そうであることを成り立たせているもの 見られるもの・・本質、プラクリティ、性質、心、身体、ストーリー、・・・ 弁別知・・見るものと見られるものを明確に区別すること つまり…