的場悠人の体和 Tai-wa 日記

理論と実践を行き来するヨガ研究者。ここではヨガ以外のことも。大学時代から継続のブログ。

ヨガで養われる柔軟さについて

今日、グループでのヨガコースを受けていて思ったこと。

 

通常、グループでヨガをすると、指導者の声に合わせて動いていく。呼吸の吸う、吐くのタイミングも、指導者の「吸って~」「吐いて~」に合わせて行われることが多い。

  

 

しかし、当然一人一人の呼吸の長さは異なり、日によっても異なるかもしれない。

一人一人に合ったヨガを重視するハートオブヨガのレッスンでは、一人一人が自分のペースで呼吸し、それに合わせて動くので、みんな動きがバラバラになる。

 

僕はこのマイペースさが好きだ。だから、みんなが一緒に動くグループクラスでも、勝手に自分のペースで動いていることが多い。

斜に構えているみたいで、これはこれで恥ずかしいんだけど。

 

今日の自分にとって、最も適切なアーサナを見つける。

そのためには、スティラ(安定、頑丈さ)とスッカ(快適さ、柔軟さ)を見つけることが大切だ。

それは、今日の自分に固有のものであり、他人と比べたり、昨日の自分と比べたりするものではない。

 

この考えに基づいていたため、僕は(頑なに)自分のペースを保っていた。

 

だけど、あれ・・・?

この頑なさは、「柔軟さ(スッカ)」に反していないか?

 

ヨガのアーサナの定義にもなっている「スティラとスッカ」は、アナンタヘビ(『ヨーガ・スートラ』の著者パタンジャリが人間に変身する前の姿)から来ているという。アナンタは、ヴィシュヌ神のベッドの役割をしていたため、「非常に頑丈かつ柔らか」でなければならなかった。この性質がイコール、スティラとスッカだ。

 

と、ふと今日の僕は、あえて指導者の声に合わせて呼吸をしてみた。「吸って」というインストラクションに合わせて吸い、「吐いて」に合わせて吐いた。

 

最初の方は、自分に合わない靴を履かされているようで違和感があった。

でも、同時にこんなことも思った。

 

もし「スッカ(柔軟さ)」がそこにあるなら、自分本来のペースから多少外れたところで呼吸しても、余裕を持って対応できるはずだ、と。

ここで言う「柔軟さ」とは、いわゆる開脚や前屈の柔軟性ではなく、ふかふかのベッドのような身心の柔軟さだ。どんな形のものが寝ても、優しく包み込んでしまうベッドのような柔軟さだ。

自分が守りたいペースがあっても、多少変動できる水のような柔軟さだ。 

 

実際、指導に従ってやり続けると、悪くなかった。

最初は違和感がある新品の靴も、履き慣れれば問題ないようなものだ。

 

でも、だからといって、明日も今日と同じようなできるとは限らない。

あくまで、今日の僕にとっては問題なく指導に合わせられた、ということに過ぎない。

 そしてこの記事は、今日という一日の記述にすぎない。

(こうして書いているうちに0時を回ってしまったので、もう昨日のことか)

 

“Set the boundary only right for today.”

「今日だけのために、その都度境界線をひこう。」

 

“Don’t put yourself certain form, find your sthira and sukha.”

「ある型に自分をはめるのではなく、自分のスティラとスッカを見つけよう。」

(J.ブラウン) 

 

 

明日の僕は、明日の僕によって決定されるしかない。

その楽しみは、明日にとっておくか。