生命と言葉について
意識というのは、システミックな存在である我々のほんの一部でしかない。
他を振り切って自己中心的に閉じていく意識と、より賢明に全体を巻き込んで働く意識には、どのような違いがあるのだろう?
後者のような意識であるためには、意識をどのようにセットしたらよいか?
ヨガにおいては、「呼吸の心地よさ」をひとつの基準として設けると、うまく機能することが多いのだけど、それが機能しない人もどうやらいる。
大事なのは、語られることの内容ではなく、その実践において何が起こるか、である。
「生命に直接ふれる (direct intimacy with Life: マークウィットウェルによるヨガの定義のひとつ)」経験を、各人に提供できる、ということは真であり得ても、
そこから引き出された生命についての言明が真であることはあり得ない。
生命についての記述は、生命そのものではない。当たり前だけど。
生命について引き出されてくる記述は、必ずその発言者の文化、教養、信仰、価値観などが染み込んだものになる。
その発言において、心身関係に関するなんらかの見方を受け入れているという点において、我々は好む好まずに関わらず、「宗教的」であらざるを得なくなる。