的場悠人の体和 Tai-wa 日記

理論と実践を行き来するヨガ研究者。ここではヨガ以外のことも。大学時代から継続のブログ。

非-理性ではなく、超-理性を。

 

全てを理性によって検証していこうとする合理性と、宗教、スピリチュアリティって、どうも相性が悪いみたいだ。
スピリチュアリティ=非合理」というイメージを持つ人は多いかもしれない。確かに、そういったコミュニティ(の多く)に立ち入るには、一旦理性による批判能力を放棄しなければならないようなところがある。

けれど、スピリチュアリティは、前-理性的、もしくは反-理性的なのではなく、超-理性的であってほしい。
つまり、理性を「超えて含む」ものであってほしい。

そうであるためには、理性による批判能力を持った人がそのまま立ち入ってきても、それを受け止め、その理性を殺すのではなく、理性をも包み込んで、理性さえ納得するような示し方で、超-理性の地平に連れていってくれるものであってほしい。

僕が、理性を保存したまま超-理性的なものを受け入れられたとしたら、それは徹底的な批判精神の行使の結果、どうやら理性では捉えきれないものがあるらしい、ということに気づいたからであったと思う。

例えば、誰かを信頼するということ。「この人に言われたなら、やってみようかな」と思うようなこと。
それは、理性の放棄、抑圧ではなく、理性では捉えきれないものを知るために、理性の方が喜んで降伏したような経験だった。
「なんでこのポーズが、自分にとって良いものなのか?」そういう種類の問いは、いくら考えても分からず、そこに自分を服従させて、一定期間過ごしてみるということによってしか分からないから。
これは、理性を保存したまま、超-理性的な地表に立ち入るためのひとつのルートだと思っている。

皆さんは、どう思いますか。どういう種類の経験が、理性を捨て去ることなく、理性を超えるところに連れていってくれると思いますか?