置かれた自分、媒体としての自分
「あなたはありのままでいいんだよ」などと言われた時、抱きがちな疑問。
「じゃあ、なんにもしなくていいの?」と。
いやいや。
それは「自分」というものをとらえ違えている。
真空のような場所に、交流も変動もまったくしない、なんにもしないものを「ありのままの自己」として想定していないか?
そうではなく、僕らは世界の中にまず投げ出され、訳も分からず何かをし始め、生き始めてしまっているのである。
まずカラダがあって、それが変動したり世界と交流したりするのではなく、
変動や交流が起こる「場」こそがカラダなのである!
世界あっての自分であり、世界との交流あっての自分であり、変動あっての自分なのである。
だから、「何もしない」「どこにも置かれていない」ような「ありのままの自己」などというのは、単なる想像の産物であり、この世界のどこにも存在しない。
いくら「内なる平和」を目指そうと、外界との交流を絶つことなどできない。
(たとえ出家し、世間とかかわりを絶ったとしても!)
実際、カラダを緻密に見ていけば分かる。完璧な実体としてのカラダがあって、それが世界と交流しているのではない。
食べる物、飲むもの、吸う空気、腸内細菌などとの交流が常に起きており、それらなしでは一瞬たりとも存在できないのである!
人間の細胞の数より、人間の中にいる細菌の数の方が多いらしい。
ということは、「人間の中に細菌たちが住んでいる」のではなく、「細菌たちの上に人間が住み着いている」のである!
(では、「私が考える」というとき、一体「何」が考えているのか?)
今日、ヨガのクラスでマントラ(お経のようなもの)を唱えていたときのこと。
最初の方は、「いかに自分のカラダをうまく使い、声をうまく出すか」ということに苦心していた。
だが、続けていくにつれ、だんだんと「自分が唱えている」という意識が薄らいできた。
世界が何かを表現したがっていて、その媒体としてたまたま僕のカラダが選ばれている、というような感覚だ。
そこにもはや、技法は必要ない。その時僕がやっていたのは、ただ世界に流れているエネルギーを、邪魔しないようにすることだけだ。
それでも、否応なく、僕のカラダを通して「個性」が顕在化する。
いわゆる「自我」がなくなっても、個性が消えてしまうわけではない(ちょっと安心)。
「媒体」に徹することができたとき、何とも言えず心地よかった。
とはいえ、この心地よさを維持しようとするのは、野暮なことだ。
この心地よさを再生可能なものにしようと躍起になるのも、野暮なことだ。
それと同様に、何かうまくいかないことがあったとき、世界が表現したがっていることの媒体でしかない僕らが、何とかしようとあくせくするのも、同じくらい野暮なことなんだろう。
ただ、世界の中に置かれて、自分に起きる交流や変動を楽しめばいい。
では、結局なんにもすることはできないのではないか?
いや、安心しろ、否応なく、何かしてしまっているのだから。
ん?じゃあ「こちらから」何かをする必要はないのかな。
あれれ、わりと考えが深まったと思ったのに、冒頭の問いに戻って来てしまった・・・