ヨガ実践における「苦しみ」のパラドックス
あえて、こんなことを言ってみたい。
ヨガは、苦しみ(ドゥッカ)の解決ではない。
苦しみのある世界から、ない世界への移行ではない。
ヨガは、部屋の中で行う、気持ちよくなるための儀式のようなものではない。
端的に、生の全体を知覚し、それと親しむことであり、その際に、生の内容がどうこう問題になるわけではない。
だから、生の全体と親しんだ時の感触が、
解放感ややすらぎを与えてくれることもあれば(僕の場合はこれが多いのだが)、
「まだ生きなきゃならないのか」という倦怠感や、
「こんな醜さもあったのか」という嫌悪感を与えることもあり得る。
それでも、生全体に親しむことが、結果的に、自然な癒しをもたらす。
この癒しは、生の一部を切り取って、ネガティブなものをポジティブなものに置き換えようとする努力からではなく、
端的に生全体の抱きしめから生じる。
そこに、問題を解決しようという努力感はない。
だが、生きていることへの全体的な参与こそが、もっとも強力な問題解決だったりする。
だから、(すでに実践を始めている)実践者にとって、「苦しみ」は別に知覚しなければならないものでさえなく、この特性が、
ヨガ実践者を楽観的(悪く言えばお花畑的)にしたりする。
サーダナ、あなたが今ここで行えること。
これに徹している限り、苦しみを捉えることさえしなくてもよく、ただ生を生として生きればよくなる。
では、人がヨガの実践を始める際に、何が起きているか。
人それぞれ、きっかけがある。
まとめると、「苦しみの知覚」と、「それを改善することの予期」といえるのではないか。
僕らは、苦しみ(苦痛ばかりだけでなく、渇望感や憧れなども含む)を感じ、
それを直視するからこそ、現実的な実践に手を伸ばすことができる。
何となくごまかしたり、苦しみを見ないようにしながら生きている限り、生を直視してみようという気にはなれないだろう。
(だからといってこのような人に、「生を直視せよ!」と命ずることが適切かどうかは、僕にはよくわからない。)
さて、苦しみを直視すれば、当然それを経過し、改善したいとの欲が生じる。
その欲は、抑えたり受け流したりするべきものではなく、まさに僕らを実践に向かわせてくれる原動力だ。
この実践を始めようとする一時において、二元性が生じる。
「まだしていない私」と、「これからする私」あるいは「もうしているあの人」との間で。
この二元性を調停するのが、先生(アチャーリア)の役割だ。
私が、何か恩恵を求めて何かをする時、その恩恵と現在の私は、どうしても離れたところにいる。
例えば、
①ほうびをもらえるから(恩恵)、掃除をする(実践)
②きれいになると気持ちよいから(恩恵)、掃除をする(実践)
③ほうきを持って掃除すること自体が楽しいから(恩恵)、掃除をする(実践)
このように、恩恵と実践の関係を記述すると、恩恵はどうしても、「現在(実践する前)の私」からは離れたところにあるようにみえる。
③くらいになると、恩恵は極めて近くにあるように見えるが、それでも「実践前の私」と離れたところにあることには変わりない。
実践前の私にとって、恩恵は、ここにないし、得られるかどうかも分からない、不安をはらんだ代物として映る。
そこにおいて、「親密さ」によって恩恵を分からせてくれるのが、先生(アチャーリア)だ。
クリシュナマチャリア訳では、アチャーリアとは「自分の困難を乗り越えた人」。
その人と、きわめて個人的に、愛、信頼、友情によって結ばれる。
この親密さにおいてアチャーリアは、「この実践は私にとってよかったよ。あなたもどう?」という勧め方ができる。
その時、未実践の人にとっても、恩恵は目に見える、生き生きとしたものとして浮かび上がる。
親密さにおける伝承とは、言語での記述を超えた、恩恵の溶け込ませである。
アチャーリアは、生徒の健康状態、年齢、文化的背景などを考慮し、
今ここから始めることができるもの(サーダナ)を提案する。
この親密さによって、
生徒は「問題解決のための二元的な努力」ではなく、
「生全体を楽しむもの」として実践を始めることができる。
まとめると、
ヨガは、苦しみの解決ではないが、
ヨガを始める際に、苦しみの知覚と改善への欲を必要とする。
その際に不可避的に生じてしまう二元性を調停するのが、
「親密さ」という機能(=アチャーリア)である。
フィジーで出会った中国系ツバル人の19歳、Sioniと。
ヨガ実践者の生きた証を見るという意味で、先月のフィジー滞在は僕にとって大きな出来事だった。「ハートオブヨガ」の提唱者マーク先生だけでなく、各国から集まった「本物の実践者」たちと一緒に生活できたからだ。
とはいえ、個人的に「僕に適した先生」という意味では、むしろ日本人で、日本の文化や生活を理解している先生の方がよいのかもしれない、とも思った。
そういう意味で、小野洋輔先生に出会えたことは、僕にとって大きな財産だ。
僕自身も、できるだけ全人的に思索しつつも、僕と似た境遇にある人の力になりたいと思う。
(9月のレッスン日程はこちら)
輝き
何かひとつ、突出した武器を持て、とか言われたりする。
あなたの魅力に、みんなが気づくためにね。
しょうがないんだ。
あなたそのものの輝きは、悲しいかな、
ほとんどの人には見えないようになっている。
だから、きっかけが必要なんだ。
みんなに気づいてもらうために。
でも、気づいていないのは、あなたの周りの人だけじゃないだろう?
あなた自身も、ちゃんと気づいていないんじゃないか?
忘れてしまっているんじゃないか?
嫌々何かをこなしているうちに、「そこ」で光り輝いているものを、
見失ってしまっているんじゃないか?
そうだ、好きなことをしてみよう。
ワクワクすることをしてみよう。
見てごらん、こんな贈り物(ギフト)が!
あれ?これは前からあったんだっけ?
色覚補正メガネの検査・試着をしたが、購入はしなかった話
以前、色覚についてを連続で書いたけれど、今回はその続編。
最近、あるメガネ店に行ってきた。
目的は、「色覚補正メガネ」というものの検査と試着。
色覚特性(一般的な人と、色の見え方がズレてること、以前は「色盲」とか「色覚異常」と呼ばれていたが、最近はこのように呼んでくれるみたい)。
僕は両祖父からの遺伝により、生まれつきこの特性をもっている。
日常生活に大きな支障はないが、たまに困ることがある。
詳しくはこちら。
父方の祖父は、すでにこのメガネを購入していて、「自分の車を見間違える」ほど変化を感じられたらしい。
というわけで、祖父、父の勧めで僕は横浜のメガネ店に行った。せっかくの親子三代終結ということで姉も合流し、店内をマトバ家が独占した。
メガネの検査の付き添いに家族3人って、めちゃめちゃ過保護な息子みたいで、ちょっと恥ずかしかった。
それはともかく、メガネ検査。
絵とか数字を見せられて、「見えます」「見えません」と答える形式のもの、
違う色のタイルを、「似た色の順に並べる」という形式のものがあった。
色覚特性と言っても、たくさんに分類されるらしい。
検査の結果、僕はどうやら赤系が見えにくいということがわかった。
そこで、赤系を見やすくするレンズを試着した。原理としては、赤以外の光を相対的に弱めることによって、赤を見やすくするということだった。
掛けてみると、確かに世界が赤っぽくみえた。
自分が想定していた「鮮やかな赤」という色が、こんなに世界の中に多いとは思わなかった。例えば、マクドナルドの看板、パプリカ、紅葉(の写真)など。
また、ほとんど白に見えていた「うすピンク」が、しっかりピンクとして認識できた。桜の花、花模様のティッシュケース、もしかしたら、僕が持っている何枚かのシャツもそうかもしれない。
しかし問題は、赤を見やすくすると、他の色が見えにくくなることだった。
僕の場合は、緑系がいつにも増して見えにくくなった。
父や姉が来ていた緑系の服が、ますます何色とも言えない混迷として映った。
僕は二人の祖父から遺伝を受けているので、特性もハイブリッドなのかもしれない。
結果、赤系を補正してくれるメガネをかけても、僕らが世界にある色を見たときに抱く、「○○色とはっきり言えないモヤモヤ感」が解消されることはなかった。
色覚を補正するメガネがあると知った時、一番に期待したのが、この「モヤモヤ感」の解消だったので、それが得られなかったのは残念だった。
それが、今回は購入を断念した最大の理由。
それでも、この体験ができてよかったと思う。もし購入すれば、すべての色がスッキリとは見えなくても、新しい世界の景色を楽しむことができる。
この技術を開発してくれた人にも感謝したい。
色覚特性で悩んでいる人は、一度試してみるとよいかもしれない。
参考:「メガネスーパー:色覚補正メガネとは」
ハートオブヨガ 僕らに接続されるヨガ
どんなに素晴らしい、洗練された文化でも、この世に素晴らしいものとして表れてくるには、ひとつのハードルを超えなければならない。
それは、「あなたが実際にやる」ということだ。
(別にあなたじゃなくてもいいのだが、実際に生きている人によって為される必要がある、ということ。)
文化は、人々の生活に実際に寄与してこそ素晴らしいといえるだろう。
ある文化があなたにとって素晴らしいものとなるには、何らかの仕方で、あなたにとっての(切実な)要求に接続する必要がある・・
という文脈で、ハートオブヨガを捉えてみたい。
ハートオブヨガは、その哲学的背景を、「急進的非二元論 radical non-dual」と評されたりする。
というとなんだか難しそうだが、「何か他のものになろうとせず、ただの自分であることにやすらぎを見出す」ということだ。
二元的思想ーすぐに自分とは他の「理想的境地」を打ち立てて、それを目指そうとするおなじみの思考様式ーをとことん遠ざけていることから「急進的」と付いている(ここには、U.G.クリシュナムルティという人物の思想的影響がある)。
というわけで、先生-生徒、知っている人-知らない人、できる人-できない人といった分離、権力構造をできるだけ生まないような仕方でハートオブヨガは伝えられている。
だから、すごくやさしい印象があるし、実際にものすごくやさしい。
でも、僕らが生きている実際の生は、そんなに平坦でもないし、平等でもない。
端から生の全体を均一的に、非二元的に見渡せるほど、僕らの視点は安全のところにはいない。むしろ、「ああなりたい、こうなりたい」という欲が蔓延する、流動的な世界の中にいる。
学びが起こるときは、先生に頭の中を「乗っ取られる」ような気になるし、そうすることで既存の考えを刷新し、全面的な学びが可能になったりする。
肉体を持った僕らにとっては、やはり体調が悪いよりはよい方が好ましいし、もし悪ければ「よくなるように」努力するだろう。
そのような時、ハートオブヨガが避けようとしている、二元性が生じてしまうのではないか?
「今現にあること」と、「将来なりゆくもの」の間に二分化が生じてしまうのではないか?
ハートオブヨガは、実践的な手段を提供することによって、その二元性を乗り越えているようにみえる。
何かになろうとするその欲動、動き、不安定さが、まさ人々を実践に向かわせる動機になる。
人々は、痛みや苦しみ、あるいは欲望を感じるからこそ何らかの行動に駆り立てられる。
実践を始めるときには、それなりに決意が必要かもしれない。
「この人に教えてもらったことなら、やってみようかな」という信頼と共に、新しい習慣を取り入れるわけだから。
この時一瞬、二元性が生じるようにみえる。
ヨガをやっていなかった今までの自分と、これから始める新しい自分との間で。
しかし、一旦始まってしまえば、ヨガは間違いなく、歓びとして機能してくれる(そうでなければ、それはヨガではないだろう)。
そうなった時、ヨガは、やらなければならない課題ではなく、自分にとって好ましいから自然と行っている、他の普通の生活習慣と変わらなくなる。
生きていることと別にある特別なものではなく、ただ生きることに組み込まれるのだ。
(自らのニーズに適切に合わせられた)ヨガは、努力感なく実際に行うことができる、現実的な手段だ。それを実際に行う、自分をケアする貴重な時間を確保する、と決心したまさにその時、すでに癒しが起きている、ともいえるだろう。
その時生は、心地よい方に向かって進む運動でありながら、同時にすでに完全に機能している完成品である。
新しいことを身につけたり、今までの自分ではない何かになろうとする時のような、大袈裟な努力感は消えていく。
問題になっている苦痛や欲望は、自分とは別のところに存立している、乗り越えるべき大きな山ではなく、今実際に自分が歩いているところのものになる。
こうして、流動的な生の中で、二元性は克服されつつあるものになる。
山道(登りでも下りでも、どっちでもいい)を歩く僕らにとって、山は僕らに課されてくる課題ではなく、実際に僕らが生き、楽しみ、それ自体が僕らの生の完全性をつくる一部となってくれる。
僕らは、苦しみを含めて、含むからこそ、完全な存在なのだ!
そう言えるのは、ある程度苦しみが少ない時だけかもしれないが。
別に、言えなくてもいい。
言わなくてもいいから、歓びとして、自分の生への課題ではなくまさに生きることそのものとして、自分を癒す実際的な実践がはじまるのだ。
その時、僕らは「ヨギ」になる。
存在肯定について
電車の中に赤ん坊がいると、周りの大人たちが、全くの他人にも関わらず、赤ん坊に笑いかけることがある。赤ん坊たちは、存在しているだけで、絶大なる肯定のまなざしを向けられているようにみえる。
自己が存在していることに対する肯定感。僕自身がそれを育む過程は、主に「できること」を通じてであった。今までできなかったことができるようになった時、たまたま人よりも得意でうまくできることがあった時、僕は自分の存在価値を感じ、嬉しい気持ちになっていた。「できること」とは、結果として目に見えるようなものだけでなく、「自分で決めた目標に向かって努力することができた」などの「頑張り」も含んでいる。いずれにせよ、何かが「できる」ことに依拠して、自己への肯定感を育んでいったわけだ。その意欲は、さまざまなことに挑戦し、また習得していく際の原動力になってくれる。
しかし、自己肯定感が、「できる」ということに依拠している限り、一方で「できなければ自分はダメな人間だ」という反転がつきまとっている。条件付きの肯定は、条件が失われればなくなるのだ。実際、中学に入った時の僕はそうだった。今まで当たり前にできたことができなくなり(例えば短距離走で同級生に負けるようになった)、あるいは自分のできること(例えば真面目に勉強すること)が周囲から価値として認めてもらえなくなり、徐々に自己肯定感を失った。それまでに培った自己肯定感が、「できること」に依拠していたため、その支えを失った瞬間一気に崩れ落ちたのだ。
僕自身が、その後少しずつ自分の尊厳を回復していったのは、武術や禅、ヨガといった身体を使った東洋的実践を通してであった。なぜこれらが機能したかというと、「できない」から「できる」へ、今よりもっと上達しなければ、などの観念から解放されたからだ。そして、自らを注意深く慈しむことによって、元から備えていた力を十全に発揮することの素晴らしさを知ったからだ。「自分には何も不足しておらず、ただあるがままを発揮すればよい」という衝撃の事実を、まさに身体を通して知った。僕の場合ヨガが決定的に作用したのは、先生や教室など特定の人間関係、場所に依存せず、自宅で毎日実践することによって実感を育むことができたからだった。
これらの実践によって見出す自己肯定感とは、何かができるようになることによる肯定感とは少し違った。心地よく呼吸をし、全身がくつろぐという体験は、(僕にとって)ほとんど努力を必要としなかった。つまり、ほとんど無条件の肯定であった。
しかしながら、この「ほとんど」という副詞を外すことはできない。どんなに努力感のない実践であっても、それが「できている」こと、そしてそれによって得られるやすらぎは紛れもなく「できていること」に依拠しているからだ。事実、僕らがくつろいで呼吸できるということは、当たり前のようで奇跡だ。神秘的な話がしたいわけではなく、戦争や災害、病気などに煩わされることなく、快適な部屋の中で、静かに落ち着いて呼吸ができることなんて、奇跡のように貴重なことですよね、という話。現に、今述べただけでもたくさんの条件に支えられており、決して「無条件の肯定」だと胸を張ることはできない。
「存在」それ自体は、何かができたりできなかったりする「能力」とは無関係に存在しているように見える。だから、能力的に何かができる、できないに関わらず、存在していることそのものに、絶大な肯定を与えてやることができてもいいような気がする。
しかし、残念ながら、僕らはそのような見方をしていない。どんな形の存在肯定も、単純に「ただ在る」ということだけに依拠しているわけではない。
赤ん坊に微笑みかける大人たちは、一体何に微笑みかけているというのか。「世界へようこそ!」という歓迎か。世界に降り立ったばかりの新人に、自分たちの世界を少しでもよく見せようとする見栄か。
あるいは、赤ん坊の「若さ」、「可能性」に微笑んでいるのかもしれない。彼らは現在の能力的にはほぼ何もできない。だが、これから世界の中であらゆることを為す可能性を秘めているという点において、大人たちは自然と肯定を向けたくなるのではないか。仮に赤ん坊のように無垢で、思うままに振る舞うような大人がいたとしても、赤ん坊に向けるようなまなざしを同様に向けることはないだろう。ということはこの場合も、「単に存在していること」のみに向けられた肯定感では決してないのだ。残酷ながら、年齢を重ねるごとにこの微笑みは向けてもらえなくなるし、能力の有無で判断される世界に飛び込んでいかざるをなくなる。
ただし、このような非情の中で、存在肯定を見出していく術もある。希望も込めて、3つ挙げたい。
ひとつは、自己に対するきめ細やかな気づきだ。生きている限り、「何もできない」ということは原理的にあり得ない。事情は様々あったにせよ、現に今まで生きてこれたということが、あらゆることを成し遂げてきた証拠だし、今もまさに何かをしつつ(できつつ)あるのだ。呼吸や生命活動はその端的な例だが、それができているという有難みを実感するだけでも、大きな幸福感は得られるものである(ただし、今できていることに気づくことができる、というひとつの能力の要請でもある)。
ふたつめは、愛する人の存在。僕たちは、互いに与えあう愛によって、存在を肯定し合うことができる。理屈を超えて、互いの存在を必要とする人たちの関係。そんな関係を結べる人が数人いるだけで、世界の住み心地は全く異なるだろう。
最後に、何かを美しいと思うこと。世界の中で、何かに美を見出すことは、自らの美しい心を発見することでもある。そして、世界の中でくつろげる場所の発見でもあるだろう。
何者にも依存せず、ただ在るということによってのみ、肯定を見出すことは、自己に対しても他者や世界に対しても、そうできたものではない。しかし、存在の中に備わった美しさを見出させてくれるこれらの経験が、ひいては存在そのものへの肯定をほのめかしてくれることは、ある気がする。
自然との関わり
自然が美しい、と言う時、
自然とのリアルな関わりの中で、辛苦も共にし、その上で美しさを垣間見ることと、
管理された自然を無害な立場から傍観者的に見て「美しい」と言うことは、
全く違う。
文明人は、圧倒的に後者が多くなる(「植物園」なんていうのもそう)。
前者のような生き方をしている場合、自然と触れ合うことが即生きることであるため、わざわざ「自然との触れ合い」などということを想定しない。
生きることに、あえて「自然との触れ合い」を付け加えなければならないほど、自然と隔離された文明の中を僕らは生きている。
でも、あえて「昔だったら」みたいな想定をする必要は必ずしもないと思う。
むしろ、今置かれている環境において、自分を取り巻くものとの関係において、関わり方を磨けばよいのだと思う。
深く関わろうとすればするほど、機械的なパターンの繰り返し、自分を安全圏に置いた傍観者的態度ではいられなくなる。
そこにおいて、自然がある。
そこに、身心の変容の可能性があり、学びがあり、生のイキイキとした感触がある。
観察という言葉について
世界を眺めたとき、そこに美しさが見えるだろうか。
もし見えないのなら、美しいと知覚することを妨げている何かが(自分の中に)あるのだ。
しかし、もっとよく見ると、
その(妨げになっている)「何か」すらも、世界の美しさの一部なのだ。
だから、自分の中にある妨げをきれいに取り除きましょう、ではなく、
その妨げすらも世界内出来事として、親しんであげましょう、と言いたい。
見る者と見られるものはひとつである。
「観察しよう」などという努力感が働いている時は、(←瞑想とかをやっている人に多い)
たいていその「観察しよう」としている自我が問題で、
(なぜならそこには観察から安心などを得ようとする自己愛的な欲があるから、)
その(安住しようとしている)自我こそを見てやるべきなのだ。
勝手に世界外に置いている「自我(仮)」を、世界内に置き直してやること、とも言える。
そうすると、世界から分離してその内容をよいとか悪いとか評価する「外側」なんてなかった、ということがわかる。
僕らがすることといえば、全存在をまっとうし、世界の中に溶け込んで行くこと、だろう。
観察とは、世界から離れて見ることではなく、世界そのものになっていくことなのだろう。