観察という言葉について
世界を眺めたとき、そこに美しさが見えるだろうか。
もし見えないのなら、美しいと知覚することを妨げている何かが(自分の中に)あるのだ。
しかし、もっとよく見ると、
その(妨げになっている)「何か」すらも、世界の美しさの一部なのだ。
だから、自分の中にある妨げをきれいに取り除きましょう、ではなく、
その妨げすらも世界内出来事として、親しんであげましょう、と言いたい。
見る者と見られるものはひとつである。
「観察しよう」などという努力感が働いている時は、(←瞑想とかをやっている人に多い)
たいていその「観察しよう」としている自我が問題で、
(なぜならそこには観察から安心などを得ようとする自己愛的な欲があるから、)
その(安住しようとしている)自我こそを見てやるべきなのだ。
勝手に世界外に置いている「自我(仮)」を、世界内に置き直してやること、とも言える。
そうすると、世界から分離してその内容をよいとか悪いとか評価する「外側」なんてなかった、ということがわかる。
僕らがすることといえば、全存在をまっとうし、世界の中に溶け込んで行くこと、だろう。
観察とは、世界から離れて見ることではなく、世界そのものになっていくことなのだろう。