印象的な言葉たち
昨日、私は今日よりも照らされ方が少なかったわけではないし、今日、より多く照らされているわけでもない。なぜなら、もし昨日私が事をこの様に見ることができたなら、私は確かにそう見ただろうからである。(『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』)
なんだこのカッコいい言葉。
これを読んで、パッと連想した言葉がこちら。
わたしたちはいずれにしても悟っているんだけど、必ずしも想定しているような悟り方をしているわけじゃないというだけだ。(J.マシューズ『ただそのままでいるための超簡約指南』)
「わたしたちはいずれにしても悟っている」とは、何とも大胆に聞こえるけれど、
僕にとっては真実に聞こえる。
それともうひとつ、連想した言葉。
神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。
(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』)
「世界があること」そのものが、「照らし」であり、「神秘」である。
まさか、そんなものが「悟り」だなんて思ってもいないかもしれないけれど。
なりゆくこと、流れること、美
数回にわたって書いてきた『時間の終焉』(クリシュナムルティ/ボーム)のまとめ。
「今の自分ではない何かになろうとすることが、人類の苦しみの根源である。」哲人宗教家のJ.クリシュナムルティは、そう言い切る。それを、一般的命題として語ることには、いささか違和感もある。一般論として振りかざすことは、「何にもなろうとしていない状態」という新たな理想状態を作り出し、それができる人、できない人というお決まりの構造を再生産してしまうことにもなりかねない。しかし、実際に起きている現象を基に、そこにおいて「何かになろうとする」という心情が発現してくる端緒を捉えることは可能だろうし、それを避けるための方策を考えることも可能だろう。そのような仕方で、冒頭の命題について考えてみたい。
ある少女の絵日記を見せてもらったことがある。最初の方のページに描かれた絵には、ある特徴があった。彼女の絵は、まず輪郭を描き、それから中を塗りつぶしていくという描き方だった。そのため、空白が多く、輪郭の中もただ色で埋め尽くしている、というような印象を受けた。その描き方は、彼女が自分で見た世界を表象するのに適した方法というよりは、「絵とはこういうもの」といったような先入観によるものだったと思う。
しかし、絵日記の最後の方のページになると、輪郭から描いて中を塗りつぶすような描き方から、躍動感があり、輪郭が区切られておらず、空白の少ない、目に見えないものの躍動も描写したような絵に変わってきていた。物や人の輪郭をまず区切ってしまうのではなく、それらから溢れるエネルギーをそのまま絵にしたような表現の仕方は、以前のものとは明らかに異なっていた。
この間、彼女を変化させたのが何なのかは、正確には分からない。母親の絵を真似したのかもしれないし、輪郭を引く以前の描き方では表現し切れないような体験を彼女自身がしたのかもしれない。いずれにせよ、少なからず「模倣」という要素は入っているだろう。人間に限らず、動物が成長していくときには、身近な大人を模倣することは欠かせない要素だ。この時模倣とは、「なりゆくべきもの」としての型の役割を果たすわけではない。「なりゆくべきもの」、あるいは「ならなければならないもの」としてのモデルが私たちに突き付けられてくるとき、私たちは安易に理想主義に陥る。掲げた理想状態と現実の自分との間に分離が生じ、(クリシュナムルティが主張しているように)苦しみや葛藤となる。だからこそ、模倣の際に用意されるモデルとは、模倣する人をある型にはめ込むのではなく、むしろ彼/彼女がすでに持ってしまっている先入観を解体する、その外に出ることを促すものとして作用すべきなのだ。そのようにモデルが機能するとき、模倣は束縛としてではなく、自由への導きとして作用するのである。
さて、彼女の一連の変化において、「美」はどこにあるのだろうか。端的に言えば、その変化全体が美しいのだと言ってみたい。先入観にとらわれながらもその中で必死に描いていた当初にも、先入観の壊れた変化の刹那にも、そしてその後に行った新しい描き方にも、それらすべてにおいて「美」が存在している。
しかし私たちは、目に見える結果(この場合は変化後に描かれた作品)だけを美しいとしてしまいがちだ。そこには、視覚を重視する私たちの文化の在り様が大きく関わっていると考えられる。
私たちが視覚的に現象をとらえるとき、そこには「像」として世界を固定する作用が少なからず働く。その視覚によって時間の流れを捉えると、(どれだけ細かく刻んだとしても、)時刻A→時刻B→時刻C・・・という点的な捉え方になる。このような仕方で彼女の成長を見たとき、状態A(輪郭を引いて描いていた当初)から状態B(躍動感のある変化後の描き方)への変化と見なし、望ましい変化と見なすからこそそれを称賛する、というような捉え方になる。言い換えれば、彼女への愛が条件付きのものになる。(あくまで評価する側にとって)好ましい変化を見せた限りにおいて、「美しい」などと評価することになる。この発想は、今「A」である人は「B」に向かって成長していくべきだ、「B」こそが目指すべき状態だ、などという理想主義を安易に生んでしまう。
このような時間の把握の仕方から、心理的に解放されることの重要性をクリシュナムルティは主張している。心理的に時間概念から解放されるとは何か。それは、自己や世界の現状を「A」と捉え、定義し、それを保持しようと躍起になったり、もしくはよりよい状態としての「B」を想定し、そこに向かって努力したりするようなあり方から解放されるということだ。時間を「A→B→C・・」と点的に捉えるあり方から、「→」だけになることとも言える。考えてみれば、「変化」や「成長」といった概念は、ある点からある点への移行と捉えるからこそ生じる概念だ。
ベクトル的に時間を捉えると、分割して取り出せるような瞬間が存在しないから、「○○であるもの」としてのAや、「○○になるべきもの」としてのBが存在しないことになる。その時、何かになろうとする心理的葛藤も止まる、とクリシュナムルティは主張しているのである。
瞬間を取り出して定義したりせず、不断の流れ、運動として時間を捉える。そのように捉えたとき、例の少女の成長は、成長の痕跡としての作品だけではなく、そのような変化が生じた彼女の生全体が美しいのだと評価することはできないだろうか。目に見えるものとしての作品は、私たちに「美」を知覚させ、実感できる形で「美」を顕在化させている。しかし、その作品以外の時間、状態、生は「美」でないのか、というと、私は迷いなくNoと言いたい。
「それは美しい」と言った瞬間、即「それ」と「それ以外」の二分化をもたらし、「美」と「美でないもの」の分離も生じさせてしまう。言葉とは本質的に、そういう性質を持っている。世界について語ろうとした時、決して語り切れない歯がゆさの理由のひとつだ。しかし、たえず現象を見つめ直し、語り直すことによって、言語の不完全さを補うことはできる。「美」に対しても、「それ(例えば絵画)が美しい」のだと心理的に限定、固定、定義せずに、あらゆるものに美を見出そうとする感度を持ち続けることは可能だろう。人の成長を見るとき、自らの生を見つめるときも、そのような感度を持っていたいものである。
この時の態度は、「見る」ことよりもむしろ、「聴く」ことに近い。傾聴、真摯に聴くこと、それが起こる時、私たちは現象を固定して名付けたりせず、むしろ現象に寄り添い続ける。瞬間を取り出して定義したりせず、絶え間ない変化に対して耳を開き続けるのである。現象を「聴く」ように、寄り添い続けた時、ある瞬間だけを特権的に評価せずに、その流れ全体を、不断の運動として美しいと知覚することができるのではないか。その時、今の状態から他の何にもなろうとせず、ただあるがままを肯定できるのではないだろうか。
心理的時間と、視覚、聴覚
書評『時間の終焉」(J.クリシュナムルティ/D.ボーム)③
心理的に時間から自由であるとはどういうことか?
それは(一面的には)、「私」をAだと定義し、それを保持しようとしたり、
AではないBになろうとしたりする心理的努力から解放されることである。
それは、時間を「ある時刻」→「ある時刻」と心理的にとらえるあり方から解放され、
「→」だけになると言い換えることもできる。
考えてみれば、「変化」や「成長」とは、ある点から点への移行ととらえるからこそ、生じる概念だ。
しかし時間をベクトル的にとらえた場合、分割して取り出せるような瞬間が存在しないから、「○○であるもの」としてのAや、「○○になるべきもの」としてのBが存在しないことになる(そのとき、心理的葛藤も止まる?)。
ただし、そのような世界把握をしたとき、果たしてしゃべれるのかという問題はある。
名付け、定義し、状態を記述するからこそ言葉は可能になっているだろう。
ここには、視覚が大きく関係していると思われる。
視覚によって世界を把握するとき、「像」として固定したものを知覚するという作用がどうしても働いてしまう。しかも、どんなに努力しても見ているのは「ちょっと過去」である。
一方で、聴覚的に世界を捉えたときには、固定した「像」をわが物にして知覚するというより、むしろ世界に寄り添っていく、自分の方を世界に添わせていくような知覚の仕方になる。
ベクトル的時間把握とは、この時の感覚に近いかもしれない。
世界の知覚像を、わが物として固定することなく、絶えず世界を参照しながら、連続的に把握していく。
子どもにとって親とは、「なりゆくべきもの」としてあるのではなく、自らが立っているベクトルの、数手先を暗示的に示しているにすぎない。
ただ、次のようなことも現実として考えなければならない。
私は時間の中に生きていないが、しかし面会時間は守らなければならないと誰かが言うとしたら、それを聞いた人は当惑してしまうのではないでしょうか?(第9章)
ここでも、技術的な領域と心理的な領域の区分がなされている。
生活に必要なルールは便宜上守るが、心理的領域まで浸食させない。
この区分は、現実がそうであるというより、今の社会において生きやすい区分の仕方を、まさしく便宜的に行うことを二人は提案しているのだろう。
すべての知識は時間である。過去に蓄積され、未来への投影することができるという意味で。
(第1章「心理的な葛藤の根源」)
知識を、必要なときには使うが、それに縛られてはいない状態を、おそらく自由と呼ぶのである。
夢みたこと「ひとりでは出られない」
書評 『時間の終焉』 J.クリシュナムルティ/D.ボーム②
この本を読んでいる最中、変な夢を見た。
非常に短く、ストーリーとしても変だけれど、とても示唆に富んだ夢だったので、少し書いてみたい。
友人数人を含め、なぜか僕らは戦場にいた。
そこでは、不毛な争いが続いていて、僕は嫌気がさしていた。しかも、終わらせることだってできる気がする。
簡単なことだ。僕は思い立ったように「外」に向かって走り出した。
戦争が起きるのは、「中」にいるからだ。「外」に出てしまいさえすれば、勝ち負けなんてつけずとも、戦争を終わらせることができる・・・
そんな時、ひとりの友人が僕に叫んだ。
「待て!そんなに記号的に終わらせられるわけじゃない!」
「キゴウテキ?」(なんでそんな言葉が出てきたのか、僕にはわからない)
この言葉を使って示したかったであろうことを、目の覚めた僕が付け加えるとすれば、
あらゆる力のせめぎ合い、葛藤に溢れた生の混沌状態を、「ヨシッ、外に出るぞ!」というような意識的な努力によって抜け出すことはできないし、何より大事であると思えるのは、ひとりだけで「外」に出ることは究極的にはできないということだ。
(夢の続き)
僕は友人に答えた。
「わかってる!外側を一周して戻ってくるだけだ!」
ほんとうは、本当に自分だけ外に出ようとしていたのに、それを見透かされたことが恥ずかしかったのか、僕は嘘をついた・・
(夢、終了)
さて、誤解を恐れず言えば、この対談本でずっとふたりが話しているのは、「どうやったら外に出られるか」ということだ。
何の「外」かって?
僕らが「私」だと思い込んでいるあれやこれの外である。
僕らが「こうならなければならない」と思い込んでいる未来像の外である。
僕らが「生のために不可欠」だとしがみついて捨てない心理的知識の外である。
自分の現在をAだと定義し、Bになりたい(ならねばならぬ)とするそのパターン、そしてそのパターンが不可避的に生んでしまう、(心理的)「時間」概念の外である。
もう少し丁寧に辿ってみたい。
「外に出る」ということは、
① 意識的な努力によってはできない。
②「私」はできていて、「あなた」はできていない、なんてことはあり得ない。
①に関しては明らかだろう。
「何かになる(becoming)」ということ自体から解放されようとするこれを、
「なろう」という努力によってはできないのである。
じゃあ、どうやって? どうやって、とも問えないのである。
空想的になったり、錯覚を抱いたり、欲望や探究心に駆られたりせずに、ごく慎重にしなければなりません。それはおのずから起こらなければならないのです。(第2章「精神から時間の堆積物を拭い去る」)
さて、②に関しては?
「悟った人」と「悟っていない人」などの区別が、果たして可能なのか、という問題。
僕らは、何か悟りのような体験をしたとしても、苦しみを生み出す根本原因に気づき、一時的にそこから離れたとしても、
しゃべり、人と関わり、生活を続ける限り、たえず人間社会に引き戻される。
その際に、言語ゲームのルールに則って会話し、生活ルールに則って生きるうちに、思考までも浸食されていく。
それでも、言語のもつ吸引力にひかれまいとすれば、現象に対して俯瞰的、もっというと離人症的にならざるを得ない。
だからこそ彼らは、人類全体の精神について話している。
しかも、自分こそがこの叡智を伝える担い手、あるいは救世主なのだ、などとの歪んだ自意識に乗せられることなく(この自意識が乗っかるだけで、たちまちカルト的になる)。
もし慈悲心があるとすれば、それは「私は慈悲深い」というように、特定の「私」によって抱かれることはありません。慈悲心はただそこにあり、それは「私」のものではないのです。
(第13章「個人的な問題を解決し、断片化を終わらせることは可能か?」)
「私」だけが完全な自由になることなどあり得ない。これは、個人の問題ではなく、人類全体の問題なのである。
「私」だけが、「いっちょうあがり!」とはなり得ないのだ。
それぞれの国が自分だけ安全であろうとしている限り、けっして安全を確保することはできないのです。(第13章)
たしかに、そうだよな・・・
仏教では、
「無明を突破するのは個人だが、突破した人間は、残りすべてを悟らせなければならない」(訳者あとがき)とされる。
明へと転じるのは極めて個人的な出来事だろうが、しかしその瞬間「悟った個人」などおらず、人類全体としての困難に直面するという事実が、否応なく突き付けられてくる。
技術的知識と心理的知識
書評『時間の終焉』J.クリシュナムルティ/デヴィッド・ボーム①
私たちは、脳に確かさを与えないように、それを確かな状態にさせるような知識を求めることなく生きる方がいいのだと思います。・・
いかなる知識も永久に固定することなしに学んでいけば・・
(第9章「老化と脳細胞」)
固定された知識は、生から生き生きとした躍動感を奪い、過去のある地点において養ったパターンを繰り返す機械的なものに変えてしまう。
ただし、生活のために、技能的な知識を積み上げていくことの必要性は、両者ともに認めている。
問題は、固定や蓄積といった知識の属性が、内的(心理的)な知識にも適用されてしまうときだ。
人々は、事物を技術的に改良し始めるようになった時、それを内側へと拡張して、「私自身もまた、より良くならなければならない」と思うようになった・・
(第1章「心理的な葛藤の根源」)
技術的な知識と、内的な知識。ここにはっきりと線引きができるかは、定かではない。
ただ、次のように解釈することは可能である。
例えば、職人の修行をしている人にとって、その専門技術を習得することと、自分自身に対する自尊心の高さは、かなりの部分で比例してしまうだろう。
しかし、(僕の読みが正しければ、)ここを切り離せと言っているのである。
そうでないと、自分自身の価値を高めるため、(専門技術を身につけるかのように、)「優しさ」を身に着け、「高いコミュニケーション能力」を身に着け、「落ち着き」を身に着け・・さもなければ自分は(技能がない職人は無能であるのと同じように)ダメな人間だ・・・
というような思考パターンに陥りかねない。
私自身は、今の自分に以外の何にもなろうとする必要はない。
生活に必要な技術は、そのときに必要なだけ便宜的に身につけるのである。
(やはり、こんなにスパッとは切れないだろう、という気持ち悪さは残ってしまう・・・)
が、ひとまずここで線を引いてやることが、「私」についてくよくよ悩むことをやめさせるという効果はある気がする。
(後日付けたし)
考えてみれば、世界の側に線など引かれておらず、いつも人間が引いているものなのだ。
だから、「そこに線を引けるのか?」という問いは正当ではなく、むしろ「そこに線を引くことは適切なのか?」と問うべきなのだ。
世界は切れていないからこそ、できるだけ切らずに世界を把握してやることが「ありのまま」に近いのかもしれない。
しかし、ここでは「人」として存立している僕らが実際に生きるための実践的な話をしているのだ。
だから、世界は切れていないからこそ、切ってやることが、(僕らが幸福に生きるために)有用なことがある。
有名な神学者の言葉が示しているように、
神よ、願わくば私に、変えることのできない物事を受け入れる冷静さと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける智慧とを授けたまえ
なのだ。
「愛」の出所
Body loves its breath. Inhale loves exhale.
(身体は呼吸を愛している。吸う息は吐く息を愛している。)
ハートオブヨガ提唱者、マーク・ウィットウェルの言葉。
この言葉が意味しているのは何か?
端的に言うと、
愛の出所は「私」ではないということ。
「私」が意識しようとしまいと、身体と呼吸の間で起きている愛は、すでに始まっている。
「私」が愛を始めようとしなくてよいのだ。
なぜそこに「愛」があるかというと、世界がそのようになっているからとしか言いようがない(ほんとうに好きなものに対して、なぜ好きなのか理由は問えないはずだ)。
世界のあちこちで、有機的な愛(生物学的に本能づけられたものも含めて)が起きている。
遍在している愛の中で、自分にとって(いつでもどこでも)実感できる形で存在しているのが、呼吸と身体の間に生じている愛だ。
ヨガとは、その愛に参加する(participation)ことに他ならない。
元々世界の中で起きている愛に、乗っかればいい。
愛を作り出そうとする営みではないのだ。
だから、「どうやって愛したらよいか」という問いに、「私」が悩む必要はないということ。
「私」は愛の「創造者」ではなく、「参加者」にすぎないから。
そう考えると、ちょっとラクになるかもしれない。
カフェインが効きすぎることについて。こころとからだの観察記。
僕のカラダは、カフェインに敏感らしい。
コーヒーや紅茶を飲むと、頻繁にトイレに行かなければならなくなるし、
その晩眠れなくなることもよくある(あった)。
例えば、
・午後3時にカフェでコーヒーを飲む。
→朝5時まで眠れない。
・午前10時に家で紅茶を飲む。
→午前3時まで眠れない。
なんてことがあった。
さすがに効きすぎだろう、と思う。
そもそも、カフェインってそんなに持続するものなのか。
思い込みも多分にあるのだろう。
ただ、眠れなくて困っているかというと、必ずしもそうではない。
眠れないなら眠れないなりに、やることはある。
僕は今休学中で、午前中から予定があることが多くないので、
朝から昼にかけて眠ってしまっても、それほど支障はない。
むしろ、夜中に本を読み進めたり、記事を書いたりすることもできる。
だから、それほど深刻にはとらえていなかったし、眠れないことについてそれほど真剣に考えたこともなかった。こんな経験もアリかな、くらいにしか。
だが、やはり朝日とともに目覚める気持ちよさも捨てがたい。
僕は一日の活動始めにヨガをするのだが、その「朝ヨガ」がもはや「昼ヨガ」になってしまうと、やはり何か損した気分になる。
一日をスッキリと始められなかったり、もうこんな時間だ、と焦りに似た気持ちが生じてくることもある。
だから、やはり僕は夜に眠り、朝に目覚めるという規則正しさを欲しているらしい。
まずは、この気持ちを認めることから始めよう。
そうなると、「眠りたいのに眠れない」ということは、僕にとって一種の「症状」として現れてきていることになる。
ここでいう「症状」とは、自分のカラダが、本来望んでいるように機能していないこと。僕は夜「眠りたい」のだから、「眠れない」のは不機能なのだ。
そして、この「症状」に対処するには、
「マインドボディーヒーリング」という考えを参考にしている。
我らが「身体と心の自然体研究所」所長が命名した、考えの転換だけで症状を治癒する手法だ(結構万能で、腰痛から花粉症まで、いろいろ対処できます。詳しく知りたい方はこちらをご覧いただくか、直接お話しましょう)。
端的に言えば、「僕のカラダ(体質)も、カフェインも悪くない!」ということを認識することから始まる。
もちろん、カフェインとの相性はあるし、作用「しやすい」ということはある。
しかし、それが実際に僕に望まない仕方で作用するか否かは、別の要因が働いている。
その別の要因とは、心の問題だ。
もう少し具体的にいうと、心に蓄積した「イヤ!」が原因だ。
僕らは、無意識のうちに経験しているさまざまな「イヤ!」を、その場で発散させることなくため込んでしまう(2歳児なら「イヤ!」と泣き叫んで発散してしまえるところを、大人だとそうもいかない)。
消化し切れなかった「イヤ!」の残余は、心を崩壊させる代わりに、カラダを標的にする。その人が望まない仕方で「症状」を引き起こし、あたかも「カラダが悪い(もしくはカフェインや花粉など外的要因が悪い)」のだと見せかける。
心が崩壊しないための、巧妙な共犯関係。
というわけで僕は、「眠れない(=カフェインのせいだ!)」ということにして、
心に起きている問題に直面することを恐れていたのかもしれない。
休学して、空白の多い手帳と共に過ごすことに、漠然とした不安を抱えていたのかもしれない。
もっと単純に、あの時会ったあの人の振る舞いがイヤだったのかもしれないし、暑くなったり寒くなったりする気候の変化が(感情的に)イヤだったのかもしれない。
症状を解決するために、「イヤ!」の原因を突き止める必要はない。
それこそ無限にあるし、大抵は無意識だから。
でも、「何かがイヤだった」ということは認めてあげよう。
そして、そこから自由になって、好きなように生きていいのだ、と。
ある時、父の友人宅にお邪魔した際、ご厚意でコーヒーを淹れていただいた。
断るのは失礼だし、そもそも僕はコーヒーの味自体は好きだ。
時刻は15時。僕からすると、十分夜に影響する時間だ。
そんな時、思い出してみた。
「カフェインが悪いわけじゃない、体質が悪いわけじゃない。」
「今日の夜、ぐっすり眠ることを望むなら、そうすることはできる。だって、どこにも問題はないのだから。」
その晩は、問題なく眠ることができた。
カフェインの影響がなかったわけではない。利尿作用はしっかりとくらった。
でも、この利尿作用さえも、「トイレに何回も行くのは苦痛だ」という風に捉え始めたら、また同様に治癒することができるだろう(今のところ気にならないので、そこまではしていない)。
依然として、さまざまな思い込みの威力は強大なのだが、そこから自由になっていける可能性もまた、人は持っている。