カフェインが効きすぎることについて。こころとからだの観察記。
僕のカラダは、カフェインに敏感らしい。
コーヒーや紅茶を飲むと、頻繁にトイレに行かなければならなくなるし、
その晩眠れなくなることもよくある(あった)。
例えば、
・午後3時にカフェでコーヒーを飲む。
→朝5時まで眠れない。
・午前10時に家で紅茶を飲む。
→午前3時まで眠れない。
なんてことがあった。
さすがに効きすぎだろう、と思う。
そもそも、カフェインってそんなに持続するものなのか。
思い込みも多分にあるのだろう。
ただ、眠れなくて困っているかというと、必ずしもそうではない。
眠れないなら眠れないなりに、やることはある。
僕は今休学中で、午前中から予定があることが多くないので、
朝から昼にかけて眠ってしまっても、それほど支障はない。
むしろ、夜中に本を読み進めたり、記事を書いたりすることもできる。
だから、それほど深刻にはとらえていなかったし、眠れないことについてそれほど真剣に考えたこともなかった。こんな経験もアリかな、くらいにしか。
だが、やはり朝日とともに目覚める気持ちよさも捨てがたい。
僕は一日の活動始めにヨガをするのだが、その「朝ヨガ」がもはや「昼ヨガ」になってしまうと、やはり何か損した気分になる。
一日をスッキリと始められなかったり、もうこんな時間だ、と焦りに似た気持ちが生じてくることもある。
だから、やはり僕は夜に眠り、朝に目覚めるという規則正しさを欲しているらしい。
まずは、この気持ちを認めることから始めよう。
そうなると、「眠りたいのに眠れない」ということは、僕にとって一種の「症状」として現れてきていることになる。
ここでいう「症状」とは、自分のカラダが、本来望んでいるように機能していないこと。僕は夜「眠りたい」のだから、「眠れない」のは不機能なのだ。
そして、この「症状」に対処するには、
「マインドボディーヒーリング」という考えを参考にしている。
我らが「身体と心の自然体研究所」所長が命名した、考えの転換だけで症状を治癒する手法だ(結構万能で、腰痛から花粉症まで、いろいろ対処できます。詳しく知りたい方はこちらをご覧いただくか、直接お話しましょう)。
端的に言えば、「僕のカラダ(体質)も、カフェインも悪くない!」ということを認識することから始まる。
もちろん、カフェインとの相性はあるし、作用「しやすい」ということはある。
しかし、それが実際に僕に望まない仕方で作用するか否かは、別の要因が働いている。
その別の要因とは、心の問題だ。
もう少し具体的にいうと、心に蓄積した「イヤ!」が原因だ。
僕らは、無意識のうちに経験しているさまざまな「イヤ!」を、その場で発散させることなくため込んでしまう(2歳児なら「イヤ!」と泣き叫んで発散してしまえるところを、大人だとそうもいかない)。
消化し切れなかった「イヤ!」の残余は、心を崩壊させる代わりに、カラダを標的にする。その人が望まない仕方で「症状」を引き起こし、あたかも「カラダが悪い(もしくはカフェインや花粉など外的要因が悪い)」のだと見せかける。
心が崩壊しないための、巧妙な共犯関係。
というわけで僕は、「眠れない(=カフェインのせいだ!)」ということにして、
心に起きている問題に直面することを恐れていたのかもしれない。
休学して、空白の多い手帳と共に過ごすことに、漠然とした不安を抱えていたのかもしれない。
もっと単純に、あの時会ったあの人の振る舞いがイヤだったのかもしれないし、暑くなったり寒くなったりする気候の変化が(感情的に)イヤだったのかもしれない。
症状を解決するために、「イヤ!」の原因を突き止める必要はない。
それこそ無限にあるし、大抵は無意識だから。
でも、「何かがイヤだった」ということは認めてあげよう。
そして、そこから自由になって、好きなように生きていいのだ、と。
ある時、父の友人宅にお邪魔した際、ご厚意でコーヒーを淹れていただいた。
断るのは失礼だし、そもそも僕はコーヒーの味自体は好きだ。
時刻は15時。僕からすると、十分夜に影響する時間だ。
そんな時、思い出してみた。
「カフェインが悪いわけじゃない、体質が悪いわけじゃない。」
「今日の夜、ぐっすり眠ることを望むなら、そうすることはできる。だって、どこにも問題はないのだから。」
その晩は、問題なく眠ることができた。
カフェインの影響がなかったわけではない。利尿作用はしっかりとくらった。
でも、この利尿作用さえも、「トイレに何回も行くのは苦痛だ」という風に捉え始めたら、また同様に治癒することができるだろう(今のところ気にならないので、そこまではしていない)。
依然として、さまざまな思い込みの威力は強大なのだが、そこから自由になっていける可能性もまた、人は持っている。