的場悠人の体和 Tai-wa 日記

理論と実践を行き来するヨガ研究者。ここではヨガ以外のことも。大学時代から継続のブログ。

技術的知識と心理的知識

 

 書評『時間の終焉』J.クリシュナムルティ/デヴィッド・ボーム①

 

 

 

私たちは、脳に確かさを与えないように、それを確かな状態にさせるような知識を求めることなく生きる方がいいのだと思います。・・

いかなる知識も永久に固定することなしに学んでいけば・・

(第9章「老化と脳細胞」)

 

固定された知識は、生から生き生きとした躍動感を奪い、過去のある地点において養ったパターンを繰り返す機械的なものに変えてしまう。

 

 ただし、生活のために、技能的な知識を積み上げていくことの必要性は、両者ともに認めている。

問題は、固定や蓄積といった知識の属性が、内的(心理的)な知識にも適用されてしまうときだ。

 

人々は、事物を技術的に改良し始めるようになった時、それを内側へと拡張して、「私自身もまた、より良くならなければならない」と思うようになった・・

(第1章「心理的な葛藤の根源」)

 

 技術的な知識と、内的な知識。ここにはっきりと線引きができるかは、定かではない。

 ただ、次のように解釈することは可能である。

 

例えば、職人の修行をしている人にとって、その専門技術を習得することと、自分自身に対する自尊心の高さは、かなりの部分で比例してしまうだろう。

しかし、(僕の読みが正しければ、)ここを切り離せと言っているのである。

 

そうでないと、自分自身の価値を高めるため、(専門技術を身につけるかのように、)「優しさ」を身に着け、「高いコミュニケーション能力」を身に着け、「落ち着き」を身に着け・・さもなければ自分は(技能がない職人は無能であるのと同じように)ダメな人間だ・・・

というような思考パターンに陥りかねない。

 

私自身は、今の自分に以外の何にもなろうとする必要はない。

生活に必要な技術は、そのときに必要なだけ便宜的に身につけるのである。

(やはり、こんなにスパッとは切れないだろう、という気持ち悪さは残ってしまう・・・)

 

が、ひとまずここで線を引いてやることが、「私」についてくよくよ悩むことをやめさせるという効果はある気がする。

 

(後日付けたし)

考えてみれば、世界の側に線など引かれておらず、いつも人間が引いているものなのだ。

だから、「そこに線を引けるのか?」という問いは正当ではなく、むしろ「そこに線を引くことは適切なのか?」と問うべきなのだ。

世界は切れていないからこそ、できるだけ切らずに世界を把握してやることが「ありのまま」に近いのかもしれない。

しかし、ここでは「人」として存立している僕らが実際に生きるための実践的な話をしているのだ。

だから、世界は切れていないからこそ、切ってやることが、(僕らが幸福に生きるために)有用なことがある。

 

有名な神学者の言葉が示しているように、

神よ、願わくば私に、変えることのできない物事を受け入れる冷静さと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける智慧とを授けたまえ

なのだ。