夢みたこと「ひとりでは出られない」
書評 『時間の終焉』 J.クリシュナムルティ/D.ボーム②
この本を読んでいる最中、変な夢を見た。
非常に短く、ストーリーとしても変だけれど、とても示唆に富んだ夢だったので、少し書いてみたい。
友人数人を含め、なぜか僕らは戦場にいた。
そこでは、不毛な争いが続いていて、僕は嫌気がさしていた。しかも、終わらせることだってできる気がする。
簡単なことだ。僕は思い立ったように「外」に向かって走り出した。
戦争が起きるのは、「中」にいるからだ。「外」に出てしまいさえすれば、勝ち負けなんてつけずとも、戦争を終わらせることができる・・・
そんな時、ひとりの友人が僕に叫んだ。
「待て!そんなに記号的に終わらせられるわけじゃない!」
「キゴウテキ?」(なんでそんな言葉が出てきたのか、僕にはわからない)
この言葉を使って示したかったであろうことを、目の覚めた僕が付け加えるとすれば、
あらゆる力のせめぎ合い、葛藤に溢れた生の混沌状態を、「ヨシッ、外に出るぞ!」というような意識的な努力によって抜け出すことはできないし、何より大事であると思えるのは、ひとりだけで「外」に出ることは究極的にはできないということだ。
(夢の続き)
僕は友人に答えた。
「わかってる!外側を一周して戻ってくるだけだ!」
ほんとうは、本当に自分だけ外に出ようとしていたのに、それを見透かされたことが恥ずかしかったのか、僕は嘘をついた・・
(夢、終了)
さて、誤解を恐れず言えば、この対談本でずっとふたりが話しているのは、「どうやったら外に出られるか」ということだ。
何の「外」かって?
僕らが「私」だと思い込んでいるあれやこれの外である。
僕らが「こうならなければならない」と思い込んでいる未来像の外である。
僕らが「生のために不可欠」だとしがみついて捨てない心理的知識の外である。
自分の現在をAだと定義し、Bになりたい(ならねばならぬ)とするそのパターン、そしてそのパターンが不可避的に生んでしまう、(心理的)「時間」概念の外である。
もう少し丁寧に辿ってみたい。
「外に出る」ということは、
① 意識的な努力によってはできない。
②「私」はできていて、「あなた」はできていない、なんてことはあり得ない。
①に関しては明らかだろう。
「何かになる(becoming)」ということ自体から解放されようとするこれを、
「なろう」という努力によってはできないのである。
じゃあ、どうやって? どうやって、とも問えないのである。
空想的になったり、錯覚を抱いたり、欲望や探究心に駆られたりせずに、ごく慎重にしなければなりません。それはおのずから起こらなければならないのです。(第2章「精神から時間の堆積物を拭い去る」)
さて、②に関しては?
「悟った人」と「悟っていない人」などの区別が、果たして可能なのか、という問題。
僕らは、何か悟りのような体験をしたとしても、苦しみを生み出す根本原因に気づき、一時的にそこから離れたとしても、
しゃべり、人と関わり、生活を続ける限り、たえず人間社会に引き戻される。
その際に、言語ゲームのルールに則って会話し、生活ルールに則って生きるうちに、思考までも浸食されていく。
それでも、言語のもつ吸引力にひかれまいとすれば、現象に対して俯瞰的、もっというと離人症的にならざるを得ない。
だからこそ彼らは、人類全体の精神について話している。
しかも、自分こそがこの叡智を伝える担い手、あるいは救世主なのだ、などとの歪んだ自意識に乗せられることなく(この自意識が乗っかるだけで、たちまちカルト的になる)。
もし慈悲心があるとすれば、それは「私は慈悲深い」というように、特定の「私」によって抱かれることはありません。慈悲心はただそこにあり、それは「私」のものではないのです。
(第13章「個人的な問題を解決し、断片化を終わらせることは可能か?」)
「私」だけが完全な自由になることなどあり得ない。これは、個人の問題ではなく、人類全体の問題なのである。
「私」だけが、「いっちょうあがり!」とはなり得ないのだ。
それぞれの国が自分だけ安全であろうとしている限り、けっして安全を確保することはできないのです。(第13章)
たしかに、そうだよな・・・
仏教では、
「無明を突破するのは個人だが、突破した人間は、残りすべてを悟らせなければならない」(訳者あとがき)とされる。
明へと転じるのは極めて個人的な出来事だろうが、しかしその瞬間「悟った個人」などおらず、人類全体としての困難に直面するという事実が、否応なく突き付けられてくる。