心理的時間と、視覚、聴覚
書評『時間の終焉」(J.クリシュナムルティ/D.ボーム)③
心理的に時間から自由であるとはどういうことか?
それは(一面的には)、「私」をAだと定義し、それを保持しようとしたり、
AではないBになろうとしたりする心理的努力から解放されることである。
それは、時間を「ある時刻」→「ある時刻」と心理的にとらえるあり方から解放され、
「→」だけになると言い換えることもできる。
考えてみれば、「変化」や「成長」とは、ある点から点への移行ととらえるからこそ、生じる概念だ。
しかし時間をベクトル的にとらえた場合、分割して取り出せるような瞬間が存在しないから、「○○であるもの」としてのAや、「○○になるべきもの」としてのBが存在しないことになる(そのとき、心理的葛藤も止まる?)。
ただし、そのような世界把握をしたとき、果たしてしゃべれるのかという問題はある。
名付け、定義し、状態を記述するからこそ言葉は可能になっているだろう。
ここには、視覚が大きく関係していると思われる。
視覚によって世界を把握するとき、「像」として固定したものを知覚するという作用がどうしても働いてしまう。しかも、どんなに努力しても見ているのは「ちょっと過去」である。
一方で、聴覚的に世界を捉えたときには、固定した「像」をわが物にして知覚するというより、むしろ世界に寄り添っていく、自分の方を世界に添わせていくような知覚の仕方になる。
ベクトル的時間把握とは、この時の感覚に近いかもしれない。
世界の知覚像を、わが物として固定することなく、絶えず世界を参照しながら、連続的に把握していく。
子どもにとって親とは、「なりゆくべきもの」としてあるのではなく、自らが立っているベクトルの、数手先を暗示的に示しているにすぎない。
ただ、次のようなことも現実として考えなければならない。
私は時間の中に生きていないが、しかし面会時間は守らなければならないと誰かが言うとしたら、それを聞いた人は当惑してしまうのではないでしょうか?(第9章)
ここでも、技術的な領域と心理的な領域の区分がなされている。
生活に必要なルールは便宜上守るが、心理的領域まで浸食させない。
この区分は、現実がそうであるというより、今の社会において生きやすい区分の仕方を、まさしく便宜的に行うことを二人は提案しているのだろう。
すべての知識は時間である。過去に蓄積され、未来への投影することができるという意味で。
(第1章「心理的な葛藤の根源」)
知識を、必要なときには使うが、それに縛られてはいない状態を、おそらく自由と呼ぶのである。