選択するカラダ、捨てるカラダ
生きることは、選択の連続だ。
生き始めた時点で、毎瞬間、何かを選び取り、何かを捨て、そうやって生きてきた結果の総体が、今の僕だ。
僕らは、いかなる手段をとっても、「無選択」ではいられないし、中立でもいられない。
ここでいう「選択」とは、職業などの社会的なものや、「こんな性格に見られたい」というような観念的な選択ばかりでない。
人間が進化の過程で二本足で立つようになったのも選択だし、日本で育つ僕らがRとLの区別を失っていくのも選択だ。僕らはそれらの選択なしでは文字通り「生きてゆけない」のである。
だから、何かを語ることはもちろん、何らかの形をとること、そこに存在しているということすら、ひとつの選択であり、排除であり、方向性である。
どんな存在も、「ありのまま」の世界など見ていない。
僕らがこの世界に宿るとは、世界を自分の都合に合わせて分節し、自分の身体に根付いた制限の中で何かを為していくことと言えるだろう。
ここにおいて、提起されるべき問いがある。
僕は、何をすでにしてしまっているだろうか?
すでに歩み始めてしまっている生があり、その中で生きすぎてしまっている「自分」がある。
とってもリアルに。それなしでは生きていけないほどに。
僕が何かをするとき、それに先立って圧倒的に「人間して」しまっているし、「マトバユウトして」しまっている。その選択の総体が、僕のカラダとして現れている。
そんなカラダで、ちょっと動いてみる。
どこかに力を込めたりすることすら、ひとつの選択であり、方向性であり、排除でもある。
どこかの部位を過剰にはたらかせたりすると、他の部位が叫んでくる。
「そっちばっかりずるい!」「こっちも見て!」
彼らと会話しながら、動かしたり、呼吸を通してやったりする。
一通り済むと、スッキリして、心が落ち着く。世界が平坦に見える。
しかし、この状態でもなお、僕にはまだ見つめられていない部分がたくさんある。
ましてや、日常に戻って「マトバユウト」を生きたり、「大学生」を生きたり、「男」を生きたり、「人間」を生きたりすると、またたっぷりと変な癖をつけてくる。
結局のところ僕らは、僕らが切り取った世界しか見ることはできない。
そんな僕らは、異なるものと常に対峙する。
異なる文化圏、異なる年齢層、異なる性別、異なる種・・・
彼らは、僕とは違う仕方で世界を切り取り、その世界像に基づいて生きている。
だから、分かり合えないことも多々ある。
さっき立てた問いを塗り替えよう。
僕は、何を捨ててきてしまったか?
出会う人、生き物、ものたち。
さまざまなシグナルを発する、僕のカラダ。
それらの声を聴くことで、ちょっとずつ見えてくる。
自分が下してきた選択を顧み、そこに自覚的になると、僕が今まで捨ててきたものにも気づく。自覚的になって初めて、可能性の海で泳ぐことができる。相容れなかった他者と交わる可能性が出てくる。
依然、僕のやり方で切り取った世界しか見えないのだが、完全には分かり合えないという仕方で共存するという素晴らしさがここにはある。