「外」としての自然、そして自己
普段僕らが扱っているものとしての自然は、人間的な意味を担わされ、道具、資源、鑑賞などの対象に貶められている。
しかし、そんな意味を超えて、理不尽に、不条理に、まったくの「外」から、到来してしまう自然がある。
8年前に僕らが見たのは、その片鱗かもしれない。
不意に到来するもの、それを忘却しておけるのが、人間的な努力であり、凄さでもある。
が、この世界の中で生きている限り、統御不能なものとしての「自然」との遭遇は避けられない。
実は、絶えず遭遇しているはず。
1番身近なはずの「わたし」だって、大切な愛すべき「あなた」だって、わたしには理解不能な意味で溢れた「外」だ。
この未知なものに対して開かれているとは、開こうとする体系的な努力によって成し遂げられるわけじゃない。
むしろ、努力の正反対だ。
ちょうど、吸う息が、能動的に吸い入れる努力なのではなく、ただ空白を作って待っているだけなのと同様に。
そこで起きていることを、自分の文脈や体系に位置づけたり、豊かな意味を持たせたり、意図的に味わったりすることを「せず」、ただそこにいること。
どっちにしろ、ぼくらは自然から離れられないのだから。
僕自身は大きな被害を受けた訳ではないし、そこに大きな意味を付けられないのだけど、そんな気持ちでこの日を終えたい。
#311
花粉症になんか、させられるんじゃない!
今年の春、自分の中で標語にしてみたい言葉。
「花粉症になんか、させられるんじゃない!」
身体的に出る症状がある。
それに、どうも心の状態が影響しているらしい。
身体と心、日常的になんとなくふたつのものとして扱っている二者は、別物にも見えるし、しかし確実に関連し合っている。
どういう関係なのか、物質的な身体からいかにして「心」のようなものが生じ得るのか、結局のところよく分かっていない。
とは言え、現象的に言えることはある。
で、花粉症がある。
僕も油断していると、くしゃみやら、目のかゆみやら、症状が出ることがある。
何が原因なのか。
それはさっきも言ったように、よく分かっていない。
そもそも、原因を突き止めるという思考法に無理がある。
が、現代にこれだけ花粉症なるものが流通しているのには、ある巨大な要因があると思われる。そして、その要因を抑えてしまえば、他にも様々な誘因はあるにしても、ここまで症状で苦しむことはないと思う。
巨大な要因① 思い込み
これがかなりデカいと思っている。
みんながマスクをして歩いている。テレビのCMでは、杉花粉が黄色っぽい粉を撒いて、さも身体に害がありそうな顔して飛んでいるイメージが流れる。
「私は体質じゃないから大丈夫」と思っている人は、軽くはねのけられるかもしれないが、一度でも「アレルギー性鼻炎」などと名付けられたことのある人(僕もそうだ)にとっては、不安をあおる情報があまりにも多い。
現代において、「春先は花粉に警戒」というメッセージが、かなり強力なメタファー(みんなが共有する物語)になってしまっている。
そして、僕ら自身もそんなメタファーの運び手になっていたりする。
大きなティッシュを持ち歩いたり、家に入る前に服をはたいたり、洗濯物をおそるおそる取り込んだり・・
えーと、花粉ってそんなに身体に害なんだっけ?
春先、生命が芽吹くこの時期に、いのちの発散としての花粉を、これほど忌み嫌わなければならないほど、僕らは自然から切り離されているのだろうか?
巨大な要因② 無意識に溜まるストレス(「イヤ!」)
身体をひとまず物質(物理法則に従う単純なもの)とみなし、その上で語られる医学はずいぶん進歩している。
だがこのパラダイムでは、「プラシーボ効果(偽薬を薬と思い込んで飲むと効いてしまうという話)」など、「心」が絡んでくる問題を扱えない。
現実に生きている身体は、どう考えても精神的なものの影響を受けているのに、その相互作用がどのように発現するかを語る際、僕らの言語はあまりにも乏しい。
結果として、僕らが「心の問題(=身体には直接関係ない)」としているものへの対処が、ずいぶんおろそかになっている。
それが、まさかくしゃみの原因になっているなんて思わない。
が、誰もが経験したことがあると思うが、
気分が落ち込めば身体もだるくなってくる。
花粉症体質の人も、よい気分の時はあまり症状がなく、ものすごくストレスフルな仕事を終え、やっと帰宅という帰り道で猛烈に鼻炎や目のかゆみが発症する、なんてことがあるだろう。
どういうしくみかはよくわからないけれど、僕らの身心は、生存のためにうまく働いてくれている。
社会生活を育む現代人の多くにとっては、身体が多少傷んだり、くしゃみが出たりすることよりも、心が崩壊してしまうことの方が大問題になる。
だから、少々身体を犠牲にしても、心を保つための戦略を駆使したりする。
というわけで、本来「心」の方の問題であるストレスを、「身体」的な症状に転化させることで、ひとまず処理しているということがある。
(ここで、どうしても身心二元論的な説明になってしまうが、今の言葉遣いではひとまずそういう認識の仕方しかできないので、このまま議論を進める。)
一般に「心身症(ストレスが原因と考えられる病)」と括られる症状以外にも、案外この説明原理は当てはまる、というのが僕ら(※1)の見解だ。
腰痛、肩こり、ぎっくり腰、そして花粉症も。
つまり、くしゃみは「イヤ!」という心の叫びなのだ。
さらに言えば、その「イヤ!」は大抵無意識下に抑圧されているので、もうちょっと「叫び」を具体的に記述すると以下のようになる。
「何で気づいてくれないの!こんなにイヤなのに!」
「でもこのイヤにいちいち気づいていたら心が崩壊しちゃうから、ワタシが代わりに病気になってあげるからね!」
「でも、気づいてくれるまで、こうやってムズムズし続けるからね!」
と、こんな感じ。
この相関関係はよくできたもので、「花粉症に注意!」「あなたは腰が弱いよ」「右足首に古傷アリ」などという情報があると、それを利用して発症したりする。
あたかも(物質的な)身体の方が悪いことにして、心の方は淡々と日常を送れるように。
そんな絶妙なはからいに感謝しつつも、症状が出ない方向に持っていくことはできる。
手順① 思い込みからの解放
まずは、「花粉が悪い」、「体質が悪い」といった物質的なものに原因を求める思考をやめること。
たとえその条件が揃っていたとしても、心に溜まった「イヤ!」がなく、症状としてその存在をアピールする必要がなければ、別に症状は起きないのだ。
事実、花粉がそれ自体で人体に害ということはない。
アレルギーとは、ほんらい敵でないものを敵とみなして攻撃し、自分さえも傷つけてしまう「過剰防衛」なのだ。
先述したように、みんなが寄ってたかって「花粉が悪い」という風潮を作りあげているように見える。
だからこそ、冒頭の言葉。「花粉症になんか、させられるんじゃない!」
手順② 「イヤ!」に気づく
じゃあ、「イヤ!」がなければよいのだけど、現代に生きている限りそんなことは不可能。ポイントは、「イヤ!」そのものはなくさなくてよい、ということ。
症状に結びついてしまうのは、無意識下に抑圧され、気づかれずにいる「イヤ!」だ。
確実に経験しているのに、ないことにされて通過される「イヤ!」こそが、「ちゃんと気づいてよ!」という仕方で症状になる。
インド思想的に言えば、燃えきれなかったカルマが、消化されるべく残り続ける。
「分かったよ、イヤだったね」
「気づいているから、もう大丈夫」
「代わりにくしゃみになってくれてありがとう!」
その目を向けてあげると、心は納得し、症状を出すのをやめてくれる。
ただ、油断ならない。
ほんとうに、ちょっとしたことで僕らは「イヤ!」と感じてしまうから。
何歳になっても、僕らの中にはわがままで短気な2歳児が潜んでいる。
ちょっと寒い、雨が降った、渡ろうとした信号が赤になっちゃった、お腹すいた、向かいに座っているあの人のしゃべり方がなんかやだ…
「オトナだから」と、自分でも気づかないうちに、どれだけのものを抑圧しているのだろう。
別に、何でもかんでも解放する、アナーキーな世界を提唱したいわけじゃない。
そうではなく、しかし各人の中に確実に存在し続ける「野性的な2歳児」を、たまには面倒見てやらないと、ということだ。
しかも、その2歳児が叫び声を上げているのに、現代の巧妙なメタファーによって、「花粉が悪い」みたいな全然見当違いの方向に意識が向けられちゃったりしている。
だから、面倒くさくも愛らしいこの2歳児を、ちゃんと見てあげよう。
特に、何か症状が出たときは、この子が声を上げている証拠だから。
さて、今年はどんな春を過ごせるかな。
※1)つくばを拠点に細々と活動する「身体と心の自然体研究所」という少人数ラボ。
http://blog.livedoor.jp/shizentai_labo/
拡大・縮小・何が起きているか?
久しぶりに、時間をまったく気にせずにプラクティスをした。
ここ最近忙しくて、プラクティスはするものの、いつも終わりの時間を気にしながらの練習になってしまっていた。
現代人である僕らの多くは、時間の中に位置づけられ、次はこれ、その次はあれ、というように自分の行動を律せざるを得ない。
それが、ここ数日は、プラクティスにおいてもそうだった。
ヨガをして、この10分後には職場に行く・・
ヨガをする最中にも、この意識が頭から離れなかった。
もちろん、完全にこのことを忘れてしまったら、社会的に機能しない。
だが、常に「次は○○をして」という考えにとらわれていると、本当に「次は○○をする」ような存在、として(のみ)自分をとらえるようになってしまう。
10分後は会社に行く人として、5分後にはお弁当をつくる人としてのみ、自分をとらえるようになってしまうのだ。
もちろん、そのような事を為していく存在には違いないのだが、
しかし、あらためてここを眺めてみると、「次に為すべきこと(として我々が頭を捉えられていること)」以外にも、もっと大きなスパンで、もしくはもっと小さなスパンで、いろいろなことが起きている。
自分を宇宙の脈動の一部として、何百年後にもうねりを残し続けるひとつの波として感じることができたら、
実際にそのような存在として行為することが少し上手になるかもしれない。
目先の小さなことに囚われず、より長いスパンで自分(ないし地球ないし世界)にとって、よい選択ができるかもしれない。
自分を微細なひとつの運動として、心臓から腕に向かって血液を流す生命の努力として感じることができたら、
より小さな(見逃しがちな)出来事さえも丁寧に拾えるかもしれない。
実際に次の雑務をこなしていく際にも、ちゃんとサポートしてくれているその微細なプロセスを、愛おしく感じられるかもしれない。
こんな壮大もしくは微細な話を想定しなくてもよいのかもしれないが、
この視点のずらし、拡大ないし縮小は、ひとつの物語にとらわれっぱなしの日常を送り続けるよりは好ましいように思う。
もうちょっと言うと、この視点の拡大ないし縮小がなければ、
人々は(社会的、家庭的な意味での)「個人」という単位でしか自分や世界をみなすことができなくなる。
これは、おそらく、地球にとって好ましくない。
だからこそ、雑多な日常、次から次へと為すべきことを考えなければならない世界の中においても、
そのような時間軸とは別のところで(無視をするわけではなく、パラレルにという意味で)行為しているという自覚をすること。
そんな取り組みが、僕には必要だし、たぶん多くの人にも必要なのだと思う。
お誘い②
僕らが、(主に他人に向けて)「愛情を示す」、「肯定的な目を向ける」と言う時、
それは具体的にどんな行動を指しているだろうか?
ある時は、その人がよりのびのびと生きられるよう、邪魔なものを取り除いてあげることかもしれない。
ある時は、その人が強く歩んでいけるように、そっと背中を押してあげることかもしれない。
ある時は、疲れて傷んだところを、ケアして休ませてあげることかもしれない。
ある時は、必要な栄養を、たっぷり与えてやることかもしれない。
ある時は、何にもせずに、しかし関心は向けて、ただ見守ることかもしれない。
愛や肯定などの抽象的な概念は、このような行動によって、実際に目に見えるものになり、僕らが身体的に感じられるものになる。
ならば、このような実際的な「愛ないし肯定の実践」を、
一番身近な自分の身心、呼吸、いのちに対して行うということ。
それも、今日やったから明日はやらないのではなく、
つまり今日は愛したけど明日は愛さないのではなく(by 小野洋輔先生)、
毎日行うということ。
その習慣が、間違いなくあなたを生きやすくさせるだろうし、あなたが心地よく生きていることで、僕も生きやすくなる。
単に「毎日ヨガをしましょう」と言うと、どこか無機質だし、
職業的にもなってしまいがちだが、
これだけの意味を込めて伝えたいことなのである。
お誘い①
それを無理に、手放せなくてもいい。
それを無理に、受け入れなくてもいい。
手放すために、マインドであれこれ格闘しなくていい。
ただ、その息を吐いてほしい。可能なら、その吐く息が、よりスムーズに出ていくために、あなたの身体の他の部分も協力してあげてほしい。
あなたが手放したかったそいつは、少量かもしれないけれど、今出ていった吐く息の中にちゃんと含まれているから。
生き続けているうちに、要らんものはなくなっていくだろうから。
何かを受け入れようと、より柔軟になろうと、そんな無理なことを自分に課さないでほしい。
そして今、吸えるだけの息を吸ってほしい。可能なら、その吸う息が、よりあなたの隅々まで行き渡るように、身体全部が協力してあげてほしい。
その吸い入れた息の中に、あなたが受け入れたかった、まさにそのものも含まれているはずだから。
本当に必要なら、いのちがそれを受け取って、大事に育ててくれるはずだから。
世界は混ざり合っている。
あなたが欲しているまさにそのものが、あるいはあなたがまさに手放したいまさにそのものが、「ここ」には全くない、なんてことはない。
目を背けたくなるような残酷さも、うっとり見とれてしまうような美しさも、まぶしくて目を閉じてしまいたくなるような偉大さも、みっともなくて見ていられなくなるような卑劣さも、みんなここにある。ちょっとずつね。
苦手なものを、それ単体でまじまじと見つめながら、食べようとするから食べられないんだ。
他のあらゆるものと一緒に、それが混じっているかなんか気にせず、必要な分だけ取り入れればいいじゃないか。
いのちは、その時、必要なものを、必要な分しか取り入れられないし、排出できない。
まさにそのことによって、ぼくらは完全に生きている。
この素晴らしい知性に、ぼくらは何か付け加える必要があるだろうか。
生きよう。
いのちがそうであるように。
そんな風に生きている人が増えてほしいし、僕もそうでありたいと思う。
「何でもヨガ」論と、「ハタヨガ原理主義」
ちょっとでもヨガについて勉強してみると、その扱う範囲の広さに圧倒される。
単なる身体的なエクササイズだと思って入ると、道徳的、社会的なことまで口を出してくるヨガの広範さに、「何これ?」となる人は多いのではないか。
そして、この辺りでこのような言葉に出会うだろう。
・ラージャヨガ(瞑想のヨガ)
・バクティヨガ(信愛、熱烈信仰のヨガ)
・カルマヨガ(行動のヨガ)
・ジュニャーナヨガ(智慧のヨガ)
・ハタヨガ(身体運動を伴うヨガ)
特にカルマヨガの姿勢に触れると、やること為すこと何でもヨガ、と言ってのけたくなる。
バガヴァッド・ギーターを読むと、現代のハタヨガでイメージされる身体運動は一切行われず、クリシュナ神からひたすらヨガの思想を説かれ、迷わず行動するよう勇気づけられる戦士アルジュナの姿が描かれている。
一方で、現代「ヨガ」と名前のつく実践、指導は、やはりアーサナ(身体運動)、プラーナーヤーマ(呼吸)を中心にしたハタヨガの実践から行われることが多い。
そして、僕の実感としては、このアーサナ、プラーナーヤーマの位置づけが、行う人によってまちまちなのである。
よくある解釈としては、
①アーサナは瞑想の準備である。体操として、快適な身体を準備するもの。
②アーサナも瞑想そのものである。禅において、掃除など一挙手一投足が瞑想であるのと同様に。
③あるいはそんなこと考えず、ただ楽しいから、もしくはただ鍛えたいから、ひたすらに身体を動かしている。それが瞑想につながるかなんて考えない。
③は無視しておいて(たぶんそれなりに多いのだが)、
僕としては、①、②のどちらも否定はしないが、完全に納得もできない。
①の解釈では、アーサナは、のちに瞑想で坐る際の準備ができれば何でもよいことになる。そして、アーサナ自体は、ヨガそのものではないと言われたりする。あくまで準備だ、と。そしたら、別にアーサナじゃなくても、身体を整える体操やエクササイズなら何でもいいじゃない、となる。
そうではない、と思う。
①へのカウンターとしてよく出てくるのが②だが、これはこれで、アーサナをやる意味が分からなくなる。「何でもヨガ」なら、とりたててアーサナをしたり、坐って瞑想したりする意味が分からない。
ただ、やること為すことへの態度を気をつけていればよいことになる。
それも違う、と思う。
では、僕の立場はどうかというと、
「アーサナには、瞑想を導くための、代替不能な意味がある」ということだ。
そして、そのカギは、「呼吸のために動けているか」というところにある。
何でもよいわけではない。
ただやみくもに動けばよいわけでもない。
アーサナそれ自体が、呼吸を拡張し、強化し、自然にプラーナーヤーマ(字義通り解釈すれば、「プラーナ(呼吸、生命力)を引き延ばすこと」)を促すものになっているか。
そして、自然に導かれた呼吸の拡張が、瞑想をこれまた自然に促すものになっているか。
アーサナ、プラーナーヤーマ、瞑想が、それぞれそうでしかあり得ないものとして、この順番で、有機的につながり、代替不能な仕方で用いられる。
これが、「ハタ・ヨガ」だと僕は思っている。
そして、現代の人々の多くに、「サーダナ(今ここから、実際的に行えること)」として勧められるのは、ハタ・ヨガ以外に思いつかないのだ。
実践を始める契機として重要だと思うのは、
①迷わず、それに専念できること
②絶対にできること、何ならすでに少しやり始めていることから始めるということ
③できることに専念している結果、豊かな実りが自然に得られるということ
こんなところだ。
もし、もともと身体に問題がなく、悩みが少なく、自然体で生きていて、坐ればいきなり瞑想状態に入れるような達人なのであれば、ラージャヨガ(だけ)でよいのかもしれない。
もし、一切迷うことなく、熱烈に信仰する対象がいるなら、それを利用して「バクティヨガ」が可能かもしれない。
しかし、これだけ世界的な交流があり、多様な考えに触れられる現代において、そのような人は稀な方だろう。
もし、自分の仕事に一切迷いがなく、「これを為すことこそが自分の人生の義務だ」と言い切れるのなら、それに打ち込むことで「カルマヨガ」になるかもしれない。
しかし、これだけ職業選択の余地がある現代において、「ほんとうにこれが私のやるべきことなのかな」などという迷いを一切抱かないということは、なかなか酷だろう。
もし、生活上の必要に心煩わせることなく、ヴェーダの真理の探究だけに専念できるような立場にいるのであれば、「ジュニャーナヨガ」が可能かもしれない。
しかし、今やインドですらカーストが崩壊しつつあり、経済的心配をせずに学問的探究だけしていればよい人は、あまりいないだろう。
このように見ていくと、「身体があり、呼吸している」という条件さえあればひとまず実践できるハタヨガは、かなり多くの人に開かれているように思える。
そして、さらに言うなら、「生きているだけで我々はハタヨガ(ハ「男性、太陽」タ「女性、月」ヨガ(融合))的に存在している」。
どういうことかというと、僕らは必ず両親の交配によって生まれているし、吸ったら吐かないと生きていけないし、酸素を吸い入れるだけの柔らかさと、二酸化炭素を吐き出すだけの強さを備えていなければならない。
その生命の両極的な運動を、少なくとも身体の一部では行っている。
意図していなくても、肺は膨らむし、お腹もちょっとは動いている。
ハタヨガにおけるアーサナとは、すでに生じているその生命の運動に、全身で加わり、強化していくことに他ならない。
だから、おおよそ誰でも始められるし、なんならすでに少しは始めているのだ。
「ヴィンヤサ・クラマー」。練習の順番を守るということ。
ハタヨガで言うなら、呼吸のために、呼吸の心地よさを超えない範囲で、全身を動かすこと(アーサナ)から始める。そして、その動きから自然に深まった呼吸を眺める(プラーナーヤーマ)。
ここまでが、サーダナ(できること)。
それらの結果、瞑想(ダーラナー、ディヤーナ、サマーディもしくはラージャヨガ)が訪れるかもしれないし、
不要な習慣はなくなり、必要なことだけ為すようになるかもしれない(ヤマ、ニヤマ)し、
何かへの感謝が芽生えるかもしれない(バクティヨガ)し、
行う仕事に専念できるかもしれない(カルマヨガ)し、
大きな智慧が湧くかもしれない(ジュニャーナヨガ)。
これら、「かもしれない」系のことは、「シッディ(恩恵)」。
取り立てて意識する必要はないと思う。
以前の僕は、ヨガの教師の多くが、いろいろ言っても結局最後は「ヨガをしましょう」という話しかしないのが少し嫌だった。
でも今は、むしろ僕自身も積極的にそのことを主張している節はあるし、違和感もほとんどなくなった(この変化は、結構大事なことだと思う)。
なぜなら、現実的に、これくらいしか提案できることがないと思うからだ。
そういう意味では、「ハタヨガ原理主義」とでもいえる立場に近づいているかもしれない。
これだけ多様な考えがあり、しかも「多様さを認めるのが大事だ」とさかんに言われる世の中において、こんなことを主張するのは少し勇気がいる。
この文章を読んで、批判された気分になった人もいるかもしれない。
今回、僕がこの文章で示したかったのは、
「ごちゃごちゃに語られがちな『ヨガ』という言葉を整理し、その上でハタヨガが、アーサナがどんな価値を持つのか確認しよう」ということである。
そして、「現実的にできることから始めよう」ということである。
それが、僕にとってはアーサナから始まるハタヨガであり、たぶん、多くの場合あなたにとってもそうだ、ということだ。
もちろん、健康状態や障害、あるいは環境によって、ハタヨガの実践さえ難しい場合もあるだろう。
そういう人達に、僕はどんな力になれるか。
「僕に」何ができるのかという問いに立ち戻ってくる時、やはり与えられたものから出発し、できることを為していくしかないと思うのだ。
左から僕、父、姉の後ろ姿。
今年もよろしくお願いします。
矛盾を矛盾のまま実装したひとつの実践
例えば、「傷つけてはいけない」(Ahimsa)と、
「嘘をついてはいけない」(Satya)を同時に命じられるような時。
出された料理がまずかった時、一生懸命作った人に「お味はどう?」などと聞かれたら、どうしてよいか分からなくなる。
例えば、「欲張るな、所有するな」(Aparigrah)と言われ、
かつ「生き続けなければならない」(不文律)場合。
生きるとは、エントロピー増大に反し、有限な閥の中にリソースを囲い込む(所有する)、ということに他ならないのにも関わらず。
別にヨガ実践者でなくても、生きていれば、このような矛盾に突き当たる。
この矛盾を、まともに受け取ってしまう、真に受けてしまう人ほど、苦しんでしまうのだと思う。
矛盾があるとすれば、ヨガの体系の方にではなく、未熟な自分の方にあるのだ、と。
生きているということがおかしいのではなく、それを受け止めきれない私の方がおかしいのだ、と。
G.ベイトソンの「ダブル・バインド(二重拘束)理論」を当てはめれば、
① Aをしてはならない
② Aを避けるためにBしてはならない
③ ①、②間の矛盾を指摘してはならない
こんな条件がそろうと、人はたやすく神経症になってしまえる。
しかし、この矛盾をブレークスルーできると、禅でいう「悟り」みたいな境地に行けたりもする、という(たぶんこれは、厳格に師の下で学ぶ必要がある)。
で、僕はどうかというと、
かつて相反する命令を自分に出し過ぎて、ノイローゼ的になったことはあるし、
そんな苦境を乗り越えれば、違う境地に行けるのかな、と目指したこともある。
でも、今はもっと気楽にヨガをしているし、生きている。
なぜかというと、一言で言えば、
「矛盾を矛盾のまま実装したひとつの実践」を、迷いなく行うことができているからだ。
それが、「呼吸に導かれて動く」ということ、つまりハタ・ヨガだ。
「呼吸に従う」とは、意識上はひとつのことをやっているだけだ。
だから、迷わずできる。
実践者にとって、矛盾に耐えながらあくせくするという負担はない。
しかし、「呼吸」というひとつの対象は、ちゃんとその中に矛盾を実装(内包)した「優れもの」なのだ。
刻一刻と変わっていく世界に対し、常に迎合する、吸う息。
自らの秩序に基づいた個体的(自己中心的)な力を、世界に与え返していく、吐く息。
世界を受け入れる、優しさとしての、吸う息。
自らの力をまっすぐ、曲げることなく貫いていく、吐く息。
そこには、生きていることそのものが不可避的に備えてしまう矛盾が、端的に示されている。
たぶん、生きているということだけでダブル・バインドまみれなのだ。
その生を乗り切るために、直線的(liner)な思考を持って立ち向かうと、必ずと言っていいほど、特定の性質だけを最大化する、生命にとって不自然な営みになってしまう。
「生命に単調な値(多ければ多いほどよい、少なければ少ないほどよいような値)はない」(G.ベイトソン『精神と自然』)のだから、
特定の変数だけ最大化する方向に向かえば、システムは必ず崩壊に向かう。
システムは必ず崩壊する、という点においては、生命に寄り添う、「自然な生き方」ができたとしても同じかもしれないが、、
I want to live just like how life is.
(生命がそうである、というのと同じように生きてみたい)
と思っている。
その方が、快く終わりを迎えられるだろうから。
もうちょっと大きなことを言えば、
「人類の滅亡は食い止めなければならない 」とは思わないが、
「人類が自ら身を亡ぼすことは、食い止めたい」とは思う。