的場悠人の体和 Tai-wa 日記

理論と実践を行き来するヨガ研究者。ここではヨガ以外のことも。大学時代から継続のブログ。

矛盾を矛盾のまま実装したひとつの実践

例えば、「傷つけてはいけない」(Ahimsa)と、

「嘘をついてはいけない」(Satya)を同時に命じられるような時。

出された料理がまずかった時、一生懸命作った人に「お味はどう?」などと聞かれたら、どうしてよいか分からなくなる。

 

例えば、「欲張るな、所有するな」(Aparigrah)と言われ、

かつ「生き続けなければならない」(不文律)場合。

生きるとは、エントロピー増大に反し、有限な閥の中にリソースを囲い込む(所有する)、ということに他ならないのにも関わらず。

 

別にヨガ実践者でなくても、生きていれば、このような矛盾に突き当たる。

この矛盾を、まともに受け取ってしまう、真に受けてしまう人ほど、苦しんでしまうのだと思う。

矛盾があるとすれば、ヨガの体系の方にではなく、未熟な自分の方にあるのだ、と。

生きているということがおかしいのではなく、それを受け止めきれない私の方がおかしいのだ、と。

 

G.ベイトソンの「ダブル・バインド(二重拘束)理論」を当てはめれば、

① Aをしてはならない

② Aを避けるためにBしてはならない

③ ①、②間の矛盾を指摘してはならない

 

こんな条件がそろうと、人はたやすく神経症になってしまえる。

しかし、この矛盾をブレークスルーできると、禅でいう「悟り」みたいな境地に行けたりもする、という(たぶんこれは、厳格に師の下で学ぶ必要がある)。

 

で、僕はどうかというと、

かつて相反する命令を自分に出し過ぎて、ノイローゼ的になったことはあるし、

そんな苦境を乗り越えれば、違う境地に行けるのかな、と目指したこともある。

 

でも、今はもっと気楽にヨガをしているし、生きている。

なぜかというと、一言で言えば、

「矛盾を矛盾のまま実装したひとつの実践」を、迷いなく行うことができているからだ。

 

それが、「呼吸に導かれて動く」ということ、つまりハタ・ヨガだ。

「呼吸に従う」とは、意識上はひとつのことをやっているだけだ。

だから、迷わずできる。

実践者にとって、矛盾に耐えながらあくせくするという負担はない。

しかし、「呼吸」というひとつの対象は、ちゃんとその中に矛盾を実装(内包)した「優れもの」なのだ。

 

刻一刻と変わっていく世界に対し、常に迎合する、吸う息。

自らの秩序に基づいた個体的(自己中心的)な力を、世界に与え返していく、吐く息。

 

世界を受け入れる、優しさとしての、吸う息。

自らの力をまっすぐ、曲げることなく貫いていく、吐く息。

そこには、生きていることそのものが不可避的に備えてしまう矛盾が、端的に示されている。

 

たぶん、生きているということだけでダブル・バインドまみれなのだ。

その生を乗り切るために、直線的(liner)な思考を持って立ち向かうと、必ずと言っていいほど、特定の性質だけを最大化する、生命にとって不自然な営みになってしまう。

 

「生命に単調な値(多ければ多いほどよい、少なければ少ないほどよいような値)はない」(G.ベイトソン『精神と自然』)のだから、

特定の変数だけ最大化する方向に向かえば、システムは必ず崩壊に向かう。

 

システムは必ず崩壊する、という点においては、生命に寄り添う、「自然な生き方」ができたとしても同じかもしれないが、、

I want to live just like how life is.

(生命がそうである、というのと同じように生きてみたい)

と思っている。

その方が、快く終わりを迎えられるだろうから。

 

もうちょっと大きなことを言えば、

「人類の滅亡は食い止めなければならない 」とは思わないが、

「人類が自ら身を亡ぼすことは、食い止めたい」とは思う。