的場悠人の体和 Tai-wa 日記

理論と実践を行き来するヨガ研究者。ここではヨガ以外のことも。大学時代から継続のブログ。

いのちという〈コト〉

私のそもそもの原点は、昆虫が大好きな昆虫少年として野原で虫を追いながら、自然の美しさや、例えば蝶の一生での、それが芋虫(幼虫)から蝶(成虫)に変わっていくメタモルフォ―シス(変態)のすばらしさなどに感動したところにあります。(・・)

生命というのは、(細胞、分子、遺伝子のような)そういった〈モノ〉を指しているんじゃなくて、〈コト〉なのではないか、ということに次第に気づくようになったのです。(『福岡伸一、西田哲学を読む』)

 

生命とは、〈モノ〉ではなく〈コト〉である・・・

 

名詞的に、つまり他から隔たれた〈モノ〉としての「私」を想定し、

その「私」が何かをしたり、「他者」と関わったりする、という風に考えると、

常にそこには、〈主-客〉の分離がある。

「私」とは不動で、固体的なものとして存在し、それが何かしたり関係を築いたりする、というような錯覚が生まれる。

 

しかし、〈モノ〉としての私=人間の形をした一個の個体は、

紛れもなく、世界の中から生まれ、世界の一部であり、常に世界と入れ替わっている。

世界とは別に身体なるものがあって、それがある時世界に宿ったわけではない。

世界と身体は同じ生地で仕立てられている(メルロ=ポンティ)。

 

〈モノ〉が不動のものとしてあり、それが何かをするわけではない。

そうではなく、世界の中で起こる〈コト〉として、その〈コト〉の効果として、

「私」なるものが現れる(ようにみえる)、と考えてみたらどうだろう?

 

目の前の人と熱心に話すとき、それはふたつの〈モノ〉が何かしているというより、

二個の流動的な物体と、それを織りなす環境、空間が、一体となってひとつの〈コト〉を成しているといってもよいだろう。

 

ひとりの人が気持ちよく踊るとき、「人間の身体」というフォーマットがあり、

その定型が、動いたり変形したりするのではなく、

まさにその動き、変化こそが〈踊り〉であり、〈その人〉なのではないか。

 

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ヨガという営みも、そのように考えてみたい。

初めに人がいて、その人が「あるポーズ」に向かって動くわけではない。

生きようとするいのちの衝動があり、

より心地よい方に向かって動こうとする欲動があり、

これ以上行くと痛みが生まれるという兆候がある。

 

ヨガとは、おそらく、

その〈コト〉に参与し、寄り添い、いのちの望みと一体になっていくことだ。

 

その〈コト〉を、名付けて固定するのが大好きな、

僕らの愛すべき「thinking mind」が阻害したりする。

でも、それは悪者じゃない。

名付けてくれるおかげで、それを僕らが「歓び」などと感じることができるのだから。

 

だから、「名付ける心を止滅させる」のではなく、

いのちが運ぶ〈コト〉と一緒になっていけばいい。

まさに起きているその〈コト〉と、同じ方を向けるようなマインド、言語の使い方をしていけばいいのだと思う。

そのように僕は、「citta vritti nirodhah」(『ヨーガ・スートラ』1-2)を解釈している。

 

(急にマニアックな話でごめんなさい。)

 

 

何を願うのか

自分がすこやかでいたい。

家族がすこやかでいてほしい。

できれば、みんなが、全人類が、全生命が、すこやかでいてほしい。

 

そこにおいて、使えるものは使えばいい。

回りくどいよりは、すみやかなやり方がいいだろう。

複雑なよりは、たやすい方がいいだろう。

時には、道具の力を借りたり、権力に頼ったり、なんてこともあるかもしれない。

 

その時のその人に合ったやり方というのはあるし、

でもみんな「いのち」なんだから根本的には一緒だろう、という見方もある。

 

あるやり方で少し晴れた人が、他の人にお節介を焼きたくなることもあるだろう。

それを「ありがとう」と受け取る人もいるし、「私は私だから放っておいて!」という人もいる。

 

さて、僕はどうなりたいのだろうか。

 

Twitterでこんな言葉に出会った。

 

何者かになるためにではなく、決して何者にもならないために学ぶ。

 

いろんなところに「私」が宿る。

必死になって目の前の人の話を聴いているとき、「私」と「あなた」がいるんじゃなくて、その関係性こそがすべて「私」だったりする。

そんな時、ふだん思い込み、これが自分だと定義しているさまざまな性格、個性、肩書などは、気づかないうちに外れていたりする。

 

そうかと思えば、目の前で必死に話している人がいるのに、

「私」の方は全く隔離されて、断絶したところに留まっている時もある。

しょうもない自意識が出てきて、何かを守ろうとしたりする。

「私」を何者かに定義して、名付けて、そこに閉じ込める。

 

「いのち」は別に、(皮膚で覆われたこの)カラダだけに宿っているわけじゃない。

いろんなところに出張して、自由に動き回る。

宿った場所で、その都度、晴れやかに咲いていたい。

すこやかなBodyがあったとしても、それだけで晴れやかに咲けるわけじゃない。

皮膚に閉じ込められたひとりぼっちですこやかでも、そんなに楽しくない。

 

「私」は自由に飛びます。いろんなところに止まります。

その時、何ができるか?

 

過去に学んだあの言葉を、今朝出会ったあの体験を、わざわざ持ち出さなくてもいい。

見つめてみる。

何かしゃべってみる。

だまる。

おどる。

息をする。

 

そうやってたら、そのうちお腹がすく。

ちょっと我慢する。

仕方なく、動く。

自然が、だれかが、恵んでくれる。

ありがとうー!

僕もみんなのために、ちょっと頑張ってみるよ。

 

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この春から休学して、「何者でもなさ」を、少しだけやりやすくなります。

 

『ピダハン』

久々のブックレビュー。

今回は、アマゾンに住む少数民族、「ピダハン」についての科学ノンフィクション。

 

言語学者でありながら伝道師のアメリカ人ダニエルが、未知の文化、言語に飛び込み、

アマゾンで暮らす彼らの生活を明らかにしていく。

 

このピダハン、学者の中では「パーティーに投げ込まれた爆弾」と言われるほど衝撃を与えたらしい。

確かに、異質な点は多々見られる。

数、色、左右など、僕らが当たり前に使っている概念が、彼らには存在しない。

現象を一般的なカテゴリーで括ることを嫌い、直接見聞きしたことを生き生きと表現する言語を使う。

そして、みんなが当たり前のように「精霊」を見、話をする。

  

彼らに特徴的なのは、

「いま起きている生活に強烈なスポットライトが当てていること」、

「一人一人が過酷な環境の中で、自分の身を守り、みんなと協力し、生き抜いていく力がある。そしてそんな自分たちが大好き」ということ。

 

マラリアがある。

ゴキブリやタランチュラもウロウロしている。

原題のタイトルである「Don't sleep, there are snakes. 寝るなよ、ヘビがいるから」は、「おやすみ」の代わりに警告しあう言葉らしい。

そんな中でも、とびきり愉快に、笑顔を絶やさず生きているピダハンたち。

彼らには「心配」も「後悔」もないのだ。

 

そんな彼らを前に、宣教を迷い始めるダニエル。

行き着く先は・・・

 

伝道師ダニエルが、「なぜ私がここに来たか知っているか」と聞いたとき、

ピダハンのひとりは次のように答えた。

 

おまえがここに来たのは、ここが美しい土地だからだ。

水はきれいで、うまいものがある。ピダハンはいい人間だ。

 

気になった方はぜひ

 

 

ヨーガ・スートラ超簡約(講座用メモ)

*テキストには書かれていないこと

「真実はテキストの中にではなく、あなたの中にある。あなたが真実である」

 

したがって、読まなければならないテキストはないし、理解しなければならない哲学もない。だから、もしヨーガ・スートラに書かれていることを理解できなくても、あなたに責任はないし、それであなたの価値が下がるということもない。

ただし、今この瞬間の神秘しか存在していないということを、哲学的に理解することはできる。そしてその理解は、達成すべき目標があるかのように仕向けてくるさまざまな言動から、身を守ることに役立つかもしれない(ヨーガ・スートラの中にさえ、何か達成すべき目標があるかのように読めてしまう記述はいくつもある)。

 

*ヨーガ・スートラの最重要箇所:1-2~1-4

「ヨーガとは、自分の選んだひとつのものへマインドを向け、それを維持することである」(1-2)

「そうすれば、自分自身のほんとうの姿を知ることができる」(1-3)

「そうでなければ、私たちはただただ混乱するばかりである」(1-4)

 

第1章2節、ヨーガの定義は、長いこと、たくさんの訳者によって、「ヨーガとは心の作用の止滅すること」と訳されてきた。しかしその結果、この訳を真に受けた修行者の多くが、刺激を避け、感覚を楽しませるものを回避する方へ進むこととなった。

クリシュナマチャリアは、この訳を反転させ、「ヨーガとは、自分の選んだひとつのものへマインドを向け、それを維持することである」、そしてその結果「マインドの変化が少なくなる」のだと言い換えた。これなら誰でもできるし、いまここから始めることができる。ヨーガとは、対象からマインドを遠ざけ、刺激されないように努めることではなく、むしろ徹底的に対象に近づき、それとひとつになることなのだ。非人間的になっていくことではなく、徹底的に人間であることなのだ。

 

*練習について

練習について、ヨーガ・スートラでは必要最低限のことしか書かれていない。それは、身近に教えてくれる先生がいることを前提に書かれているからだ。だから、スートラに書かれていることを参照して練習にあくせくするより、あなたのことをよく知っている親しい先生とともに練習した方が、ずっとためになる。

 「長い期間、中断せず、熱心に練習すること」(1-14)

 

 

必然的に、長く続けるには、無理のない範囲で行う必要がある。自分をヨーガに合わせるのではなく、ヨーガを自分に合わせて練習する。そのためには、やはり先生とのよい関係が重要になる。

 

*能力について

ヨーガ・スートラには、超常的な能力の描写が結構な数出てくる。中には、信じがたいような能力まで描写されていたりする。それらは、ヨーガの長い歴史の中における、さまざまな人体実験の記録くらいに思っておけばよい(変わり者もいたんだろう)。ヨーガ・スートラに書かれている能力を身につけようと、ある対象(例えば北極星など)に集中することを、必死になって行わなくてもいい。ここで重要なことをひとつ。

 

 対象は、自分で選んだものでなければならない。(1-39)

 

 

というより、人は自発的に選んだものでなければ、長いこと集中することなどできない。隣の部屋で自分の子どもが泣いているのに、月への瞑想を続けることは(ふつうは)できない。だから、自分の心が赴いたところに注意を向け、そこにおいて親密な関係を築いていけばよい。それが、ヨーガだ。ヨーガとは、実践的な手段である。あなたが、いま、ここから実践できるものでなければ意味がない。

 

マーク・ウィットウェルはよく言う。

「Is there any burning question?」

(何か、燃え上がるような質問はありませんか?)

あるいは、UG.クリシュナムルティの質問。

「What do you really want?」(あなたがほんとうに欲しいものは何?)

 

もし、これらがあるのなら、それに取り組むことが、ヨーガになるだろう。もしないのなら・・?

ただ人生を楽しめばいい!

 

 

参考文献

・TKV. Desikachar ‘Yoga Sutra of Patanjali’, “The Heart of Yoga”

・Mark Whitwell ‘Hridaya Yoga Sutra’ “Yoga of Heart”

 

「異」との幸運な出会い

あらゆる限定を取り去って自由に振る舞ったり、

すでに与えられている生命のすばらしさを味わったり、

そんな体験をし、そのような仕方で生きていくことを導いてくれるような実践体系がある。

しかも、その実践における「技法」などの優越によって、権力構造を生み出すことなく。あらゆる人が楽しみ、しかもすぐに始められるものとして。

 

それはとてもすばらしいことだし、ありがたい。

 

でも、忘れないでおきたい。

 

「人」がやっているということを。

そして、「人」には一人一人の属性があり、癖があり、傾向があるということを。

 

ある体系には、おのずと似たような性質を帯びた人が集まる。

その共同体の中で、極力思い込みを廃して自由であろうとしても、無意識のうちに設けている限定がある。知らず知らずのうちに排除しているものがある。

似通っている人が集まる、ということの不幸な帰結。

みんなが似たような性質を纏っていて、その中で自由を探究しているがゆえに、その集団にとっての「突拍子もなさ」が暗黙のうちに消されていたりする。

(全身の自在さを探究していたはずが、「顔面」を排除していたことに気づかなった!など)

 

人間界に存在している以上、複数性を無視することはできない。

できるだけ全方位に開いた実践をしたいけれど、ほんとうにちょっとした「外部」に、全然想定していなかった性質があったりする。

そのような「異」なるものと出会うのは、歓びでもある。

 

大きな眼を持っておくことで、自説に閉じこもることなく、

未知のものに遭遇しても取り乱すことなく、

愉しんで道を歩みたい。

注意と散漫 ヨーガ・スートラをめぐって

 僕らのマインドは、集中したり、散漫だったりする(集中、としたけれど、中に集めるのではなく、対象に注意を向ける、というイメージ)。

何かに集中しているのであれば、その対象を手掛かりにして、世界との関係を取り結ぶことができる。

この状態は、他の角度から見れば、主体も客体もなく、ただ「集中する attention」ということが起きている、ともいえる。

主体、客体の区別など、人間的視点からの便宜的な区分けにすぎず、実在していない、とすら言えるから。

だから、何かの対象に集中する、という活動が起こった瞬間、即サマーディ(三昧)、とすら言えそうだ(対象となるのは、実際にあるものでも、概念でも、記憶でも、神でも)。

 

では、「散漫」とは何か。

心があっちこっちに散った状態。

ここで、キーになるのが、「持続」だ。

考えてみると、「あっちこっち」に散っているとはいえ、一度にひとつしかとらえられないはずだ。だから、「集中」の状態が、次々と異なる対象に移り変わっていく状態が、「散漫」だ(したがって、本当の意味で、サマーディから離れてしまうことなどない?)。

集中は常に起こっている。違いは持続があるかないかだ。

(あと、「睡眠」とはどういう状態なのか、このふたつの区分けではよくわからない)

 

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では、どのくらい「持続」させればよいのか。

4秒くらい?

 

個人的な見解では、僕らのマインドが、その持続を感知し、物理次元で何かを成し得るほどの間、というイメージだ。

ほんの一瞬だったら、その効果はこの物理次元には現れてこない。

次々と対象を変えてしまっていたら、僕らのマインドがそれを把握する前に、対象との結びつきは失われてしまう。

 

マインドは、実にいろんなものを使って、僕らが注意を向けた対象を把握しようとする。

言葉で名付けて、空間上に位置づけて、時間軸の上に位置づけて・・・

騒がしくも有能な僕らのマインドを納得させてあげるためには、それらの作業が終わるまで待ってあげるしかない。

マインドの諸々の作業は、純粋な知覚を妨げるから消してしまうべきものなのではなく、「注意を向ける(ダーラナ)」という作用に参与し、それを助けるものなのだ。

 

だって、僕らが「持続」とか言ってられるのも、対象を言葉によって名付け、それを空間的に区切り、時間的に同一のものとして持続するという、マインドの作用あってこそなのだから。

 

だから、マインドを敵視するのではなく、

僕らがほんとうに観たい(体験したい)ためのもののために、

一緒に参加させてあげましょうよ。

それが、サマーディを「味わう」ということなのだから。

その過程で、マインドさんが「嬉しい」とか「悲しい」とか叫んで、

そしてその叫びも消えていくのだから。

バンダ、生命、おしっこの話

ヨガをしている最中、トイレに行きたくなってしまった。

が、少しキリが悪かったので、少しそのまま続けた。

その時に、漏れないように我慢してくれているカラダの不思議さを垣間見た。

 

バンダ(bandha)。

ヨガをやっている人なら、一度は聴いたことがあるフレーズかもしれない。

英語のband(例えばリストバンドとかのバンド)と同じ語源のこの言葉は、

「締め付け」や「ロック(lock)」を意味する。

つまり、カラダの内部で起こっている、姿勢を維持するための留め金のようなものだ。

 

例えば、電車の中こっくりこっくり寝ている人がいる。

それでも上半身ごとがくんと前に倒れてしまわないのは、上半身を支える腹や骨盤底のロックがあるからだし、

頭ががくんと左右や前に倒れても、結局カラダの真上に戻ってくるのは、頭を支える 首やのどのロックがあるからだ。

 

ヨガの練習においては、バンダは呼吸によって生じる。

吸う息で胸郭が膨らむと、おのずと喉の辺りに締まりが生まれる(ジャーランダラ・バンダ)。

吐く息でお腹を下から絞るように使うと、下腹の辺りに締まりが生まれる(ウディヤーナ・バンダ)。

この2つを伴ってアーサナの練習をしていると、骨盤底からの強力な支え(ムーラ・バンダ)を感じることがある。

(J.ブラウン氏は、このムーラ・バンダを「metaphysicalな_物質を超えたところの_支え」だと表現していた。)

 

このバンダ、特別な高等テクニックというよりは、もともとカラダに備わっている安定性を、意識的に為していくというイメージだろう。

もしバンダがまったくなかったとしたら、(汚い話になってしまうけれど、)垂れ流し状態になってしまう。

バンダは、流れる生命の中にあって、生命の安定性や秩序を維持する役目を担っている。

しかも、バンダ自身も動いている。ベルトのように、不動の物質として僕らに働きかけるのではなく、まさに生命の一部として、自らも流れるものとして、しかし流れを一時的にせき止めるものとして存在している。

 

と、書いてみると、こんな話を思い出した。

 

生命には、物質の下る坂をのぼろうとする努力がある。

ベルグソン『創造的進化』)

 

世界にあるすべてのものは、エントロピー増大の法則(宇宙のすべての現象は、乱雑さがふえる方向にしか進まない)に支配されている。だから、ただ物質があったら、どんどん分解され、カオスの中に消えていく。

その中で、秩序を保った生命が生き続けるという奇跡がある。

生命は、エントロピー増大の中にあって、秩序を保とうと努める。

バンダは、流れの中にあり、自らが流動的でありながも、流れをせき止めようと努める。

 

そう考えると、端的に言って生命とは、バンダであり、おしっこを我慢する力である、と言えるのではないか(さすがに極論すぎるが)。