「異」との幸運な出会い
あらゆる限定を取り去って自由に振る舞ったり、
すでに与えられている生命のすばらしさを味わったり、
そんな体験をし、そのような仕方で生きていくことを導いてくれるような実践体系がある。
しかも、その実践における「技法」などの優越によって、権力構造を生み出すことなく。あらゆる人が楽しみ、しかもすぐに始められるものとして。
それはとてもすばらしいことだし、ありがたい。
でも、忘れないでおきたい。
「人」がやっているということを。
そして、「人」には一人一人の属性があり、癖があり、傾向があるということを。
ある体系には、おのずと似たような性質を帯びた人が集まる。
その共同体の中で、極力思い込みを廃して自由であろうとしても、無意識のうちに設けている限定がある。知らず知らずのうちに排除しているものがある。
似通っている人が集まる、ということの不幸な帰結。
みんなが似たような性質を纏っていて、その中で自由を探究しているがゆえに、その集団にとっての「突拍子もなさ」が暗黙のうちに消されていたりする。
(全身の自在さを探究していたはずが、「顔面」を排除していたことに気づかなった!など)
人間界に存在している以上、複数性を無視することはできない。
できるだけ全方位に開いた実践をしたいけれど、ほんとうにちょっとした「外部」に、全然想定していなかった性質があったりする。
そのような「異」なるものと出会うのは、歓びでもある。
大きな眼を持っておくことで、自説に閉じこもることなく、
未知のものに遭遇しても取り乱すことなく、
愉しんで道を歩みたい。