的場悠人の体和 Tai-wa 日記

理論と実践を行き来するヨガ研究者。ここではヨガ以外のことも。大学時代から継続のブログ。

ヨーガ・スートラ超簡約(講座用メモ)

*テキストには書かれていないこと

「真実はテキストの中にではなく、あなたの中にある。あなたが真実である」

 

したがって、読まなければならないテキストはないし、理解しなければならない哲学もない。だから、もしヨーガ・スートラに書かれていることを理解できなくても、あなたに責任はないし、それであなたの価値が下がるということもない。

ただし、今この瞬間の神秘しか存在していないということを、哲学的に理解することはできる。そしてその理解は、達成すべき目標があるかのように仕向けてくるさまざまな言動から、身を守ることに役立つかもしれない(ヨーガ・スートラの中にさえ、何か達成すべき目標があるかのように読めてしまう記述はいくつもある)。

 

*ヨーガ・スートラの最重要箇所:1-2~1-4

「ヨーガとは、自分の選んだひとつのものへマインドを向け、それを維持することである」(1-2)

「そうすれば、自分自身のほんとうの姿を知ることができる」(1-3)

「そうでなければ、私たちはただただ混乱するばかりである」(1-4)

 

第1章2節、ヨーガの定義は、長いこと、たくさんの訳者によって、「ヨーガとは心の作用の止滅すること」と訳されてきた。しかしその結果、この訳を真に受けた修行者の多くが、刺激を避け、感覚を楽しませるものを回避する方へ進むこととなった。

クリシュナマチャリアは、この訳を反転させ、「ヨーガとは、自分の選んだひとつのものへマインドを向け、それを維持することである」、そしてその結果「マインドの変化が少なくなる」のだと言い換えた。これなら誰でもできるし、いまここから始めることができる。ヨーガとは、対象からマインドを遠ざけ、刺激されないように努めることではなく、むしろ徹底的に対象に近づき、それとひとつになることなのだ。非人間的になっていくことではなく、徹底的に人間であることなのだ。

 

*練習について

練習について、ヨーガ・スートラでは必要最低限のことしか書かれていない。それは、身近に教えてくれる先生がいることを前提に書かれているからだ。だから、スートラに書かれていることを参照して練習にあくせくするより、あなたのことをよく知っている親しい先生とともに練習した方が、ずっとためになる。

 「長い期間、中断せず、熱心に練習すること」(1-14)

 

 

必然的に、長く続けるには、無理のない範囲で行う必要がある。自分をヨーガに合わせるのではなく、ヨーガを自分に合わせて練習する。そのためには、やはり先生とのよい関係が重要になる。

 

*能力について

ヨーガ・スートラには、超常的な能力の描写が結構な数出てくる。中には、信じがたいような能力まで描写されていたりする。それらは、ヨーガの長い歴史の中における、さまざまな人体実験の記録くらいに思っておけばよい(変わり者もいたんだろう)。ヨーガ・スートラに書かれている能力を身につけようと、ある対象(例えば北極星など)に集中することを、必死になって行わなくてもいい。ここで重要なことをひとつ。

 

 対象は、自分で選んだものでなければならない。(1-39)

 

 

というより、人は自発的に選んだものでなければ、長いこと集中することなどできない。隣の部屋で自分の子どもが泣いているのに、月への瞑想を続けることは(ふつうは)できない。だから、自分の心が赴いたところに注意を向け、そこにおいて親密な関係を築いていけばよい。それが、ヨーガだ。ヨーガとは、実践的な手段である。あなたが、いま、ここから実践できるものでなければ意味がない。

 

マーク・ウィットウェルはよく言う。

「Is there any burning question?」

(何か、燃え上がるような質問はありませんか?)

あるいは、UG.クリシュナムルティの質問。

「What do you really want?」(あなたがほんとうに欲しいものは何?)

 

もし、これらがあるのなら、それに取り組むことが、ヨーガになるだろう。もしないのなら・・?

ただ人生を楽しめばいい!

 

 

参考文献

・TKV. Desikachar ‘Yoga Sutra of Patanjali’, “The Heart of Yoga”

・Mark Whitwell ‘Hridaya Yoga Sutra’ “Yoga of Heart”