的場悠人の体和 Tai-wa 日記

理論と実践を行き来するヨガ研究者。ここではヨガ以外のことも。大学時代から継続のブログ。

「無条件の愛」なんてことを「目指そうと」すると、とっても苦しくなる、という話

無条件の愛

 

ヨガで言われる、ひとつの目指すべき境地のようなもの。

 

「○○だからよい、○○だからダメ」などと判断することなく、常にそれらのあるがままを受け容れ、愛する。

 

 こんな聖人みたいな境地、あり得るのか?と思うんだけど、最近の僕にとって切実な問題だった。

 

 僕たちは、生まれたときから、判断をしまくっている。生後3か月くらいで「快・不快」という区別が生まれてから、「喜び」、「悲しみ」、「怒り」など、感情のレベルがどんどん「分化」していくという。

 

 では、これらの「判断」は、なくしていくべきものなのか。

 

 究極的にはそうなんだろう。

 

 でも、それは、努力して為せるものじゃない。

 

 むしろ、それを目指そうとするほど、つらくなっていく。

 

「理想状態」など、どこにもない!

 最近長野を訪ねてヨガの個人レッスンを受けた。その時に柏原ゆうた先生が言っていたこと。

f:id:yutoj90esp:20170114211325p:plain

 

二元論的にヨガをすると、僕たちは苦しくなる。

 

「今の自分」と「理想状態」という二元論。つまり、何か目指すべき次元を今現在の自分とは別の次元に設定して、それを目指そうとすると、できない自分とのギャップに苦しむ、ということだ。

 

 だから、「無条件の愛」を理想の境地として自分に課したりすると、現実として感情的に「判断」をしまくる自分に気づき、とても苦しくなる。

何かイヤなことがあると、「イヤだな」と思うと同時に、「あ、またイヤだなって判断しちゃってる、ダメだなぁ」と、二重に苦しむことになる。この二次的な苦しみも、自分を自分で裁いていることに他ならないんだけどね。

 

 自然に沸き起こる感情として、「イヤだな」と思うことは、誰しもある。(悟った人なら、ないのかな。)「無条件の愛」を装って、平静を気取ったりすると、明らかに自分の中で齟齬が起きてくる。それは、自分への暴力だ。

 

「愛」=やさしさではない!

 

 そこで、ある時、イヤなことはイヤと言ってみた。

 

 こんな当たり前のことだけど、忘れかけていたらしい。

 

 たぶん、「愛」という言葉をはき違えていたんだよね。愛というと、「やさしく接する」みたいなイメージがつきまとうけど、そうとも限らない。

 

「愛」というのは無条件で、しかも厳しいのです。

 (足立幸子『あるがままに生きる』

 

 いくら聖人みたいな境地を志したとしても、この瞬間、今の自分でしか生きられない。そして、今の自分には、「イヤ」だと感じることもある。

 

 その逃れられない現実を直視する、誠実さ。もし対人関係でイヤな想いをしたら、その感情を包み隠さず相手に伝えることが、自分と、その人に「愛」を以て接するためのべストな選択なのかもしれない。

 

 そうすることで、ラクになるし、お互い気持ちよく生きていけそうだ。

 

 「無条件の愛」は、原理的に、能動的な努力によっては為し得ない。意外と、「あるがままの自分」を大切にすることでしかないのかもしれない。

 

Be happy!

 

普段は人に贈りたいような言葉だけど、今回は自分に言い聞かせてみようと思う。