ハートを生きる??
つかみどころのない、しかし確実に存在しているもの。
それが存在していなければ、あとのすべても全く存在し得ないような、源。
それを、身体的に感じることがある。
胸の真ん中辺り、ハートに。
吸う息が入ってきて、吐く息がそこから出ていく、
はっきりと指し示すことはできないけれど、
そこに「ハート」がある。
そして、たまに訳も分からずハートが疼いたり、イヤだと告げてきたり、求めるものを指し示してくれたりする(ような気がする)。
その方向性に従っていれば、なんだか大丈夫な気がする。
でも、このベクトルは、長さのない矢印(矛盾しているけれど)のようなもので、
ひとまず方向性だけは示してくれるけれど、そこから先がどうなっているかは全く見せてくれない。
その方向性に沿って、肉体が、マインドが、実際に行為を為していく。
この指し示してくれる「ハート」は、
どうも(肉体で区切られた)「自分」だけのものだとは思えないし、
全生命を貫いているようにも思えることがあるし、
ということは、この肉体が死んでも、在り続けるような気がする。
本当に、「気がする」だけなのだけど、そんな想いを持って、
久しぶりに「バガヴァッド・ギーター」を読んだら、なんだかすんなりと入ってきた。
ここにあるこいつは、「自分」が死んでも死なないかも??
大学生活があと一年になり、本格的に進路を考える時期。
どうやって収入を得て、どんな技能を身につけて、何者として生きていくのか。
そんなことばかり考えていると、肉体の中に閉じられた、寿命の限られた、一個の不安な、弱い存在としての自分しか見えなくなる。
それが、結構苦しい。
そんな中、今日ふと思ったことは、そんな日常を生き抜くための、
強さを授けてくれるだろうか。
そして、自分の死さえも乗り越えた、ひとつのダルマ(仕事)を為すための、
必要な智慧をもたらしてくれるだろうか。
この先、全然どうなるかわからないけれど、ここにある大事なものは、
大事にし続けたいと思う。
言語の一面性について
言語とは通常、ひとつの側面だけを強調して語る。
言語という、直線的に編まれていくこの道具の、宿命とも言えること。
一度にひとつのことしかしゃべれないし、
ひとりの人には、ひとつの口しか付いていない。
「もっと食べたいな」という言葉の中には、ほんらい、
「でもお腹がはち切れるほどはいらないよ」という逆の意味も含まれている。
が、言語は片側だけを強調してしまう。
もっと多く!
そして、この言語をもとに、
常に「もっと多くの食物を望む存在」であるかのように、人々が想定され、
その想定に基づいて社会がつくられていったりする。
うーーーむ。
この誤謬から離れるには、その言語が立ち現れてくるところ(=生命、現象)に立ち戻り、本来の意味を生き直すしかないのだが、
速く、多く、効率的に、という世界観にどっぷりはまっていると、
そんな面倒なことをしなくなってしまう。
ここに、危うさがあるような気がしている。
生命は、実感できなさに特徴をもつ。
有限な閥を持ってこの世に生まれる僕らが、実際にありありと(tangibeに)何かを感じられるとは、僕らの知覚範囲の中で、何か特定のものだけが特異的に変化を生じさせている、ということだ。
・知覚範囲を超えたものは、知覚できない
・もし全体が一律に変わっていたら、変化を知覚できない
・何も差異が生じておらず、まっさらな世界だったら、何も知覚できない
だから、ありありとした実感を求めるなら、何か知覚しやすい特定のものが、他のものとの関係において、特異的に、大きく変化することを求めることになる。
例えば、「筋力トレーニング」とは、
身体の一部分だけを特異的に意識し、強化するからこそ、「鍛えているな」という実感が得られる。
一方、全身の力が滞りなく使われる「武術家の技」は、
どこにも力感がなく、捉えどころのないまま行われる。
明らかに、分かりやすく、理論化しやすく、多くの人が進んでしたがるのは前者だ。
しかし、G.ベイトソンは言う。
「生命に単調な値はない。」
つまり、多ければ多いほどよいような値や、少なければ少ないほどよいような値は、生物学的に存在しない。
しかし、人間のこのような知覚の仕方からして、何か特定の値のみが上昇(下降)を続ける様が、好ましいかのように錯覚されてしまう。
(そしてこの錯覚は、「お金は多ければ多いほどよい」という誤解に結びついていることが多い。)
では、生命にとって自然なあり方はどうかというと、
当たり前だが、僕らの知覚範囲では到底とらえきれない諸要素が、それぞれ有限な柔軟性をもち、それを超えたら害になってしまう最大値や最小値を超えないよう、均衡を保っている。
これらを、理論化し尽くすことは不可能。
そして、分かりやすい仕方でありありと実感することも、きわめて困難だ。
端的に言えば、「中庸」とは手触りのなさに特徴を持っている。
人間が知覚し、思考の軌道に乗せ、具体的に語り、推進したり抑圧したりできることは、中庸でないこと、特定の変数のみが特異的に変化することにかかわるものなのだ。
もし生命の全体を、均衡として、ひとつの値変化に準じてすべてが少しずつ変化しバランスを保つ複雑な連関としてとらえようとしたら、決して一部分にありありとした実感を求めない、拠り所のない全体感覚を育まなければならない。
ということは、「中庸」に基づいて社会理論を構築したりすることは、きわめて困難である・・・
生命中心に思想、社会を構築しようとする「ディープエコロジー」などの困難さは、ここにあるのだろう。
生命の絶妙な均衡は、人間の直線的な論理によっては理論化し切れない。
無理に少数の言葉に収れんさせれば、そこからはみ出る生命の側面を排除した、独断的な思想になってしまう。
(ディープエコロジーは、急進的なものだとファシズム的な危険を持つ、と言われたりもする。)
エコロジカルな思想は、見通せなさから成り立っている。
それでも見通しをつけたがり、理論化したがるのが僕ら人間だ。
この困難さに、どう向き合ったらよいのか?
一人一人が、自らのもとに生じているその生命に、直接ふれられるような経験を育むこと(direct participation in Life)。
ひとまず今のところは、それしか思いつかない。
メタファーを組み替え、花粉症に対処する。
僕らは、メタファー※1(隠喩、物語)を用いて考える。
あるメタファーによって現象を一度とらえると、僕らの知覚作用は、そのメタファーに浸食されたイメージによって現実を見るようになる。
そのメタファーが、あまりにも不適切にも関わらず、よく吟味されずに用いられていることがある。
そして、改めてそのメタファーを組み直すことで、現実のとらえ方が少しはマシなものになるかもしれない。
というような文脈で、もう一度花粉症についてもう一度考えてみる。
一般的に流布している、「花粉を敵として捉え、どうにか締め出そうとする努力」は、どう見ても不適切なメタファーにみえる。
そこで、「マインドボディーヒーリング」というメタファーによって、捉え直すということを行った。(参照『花粉症になんか、させられるんじゃない!』)
しかし、この枠組みを以て現実に臨んでも、症状が改善しないことがある。
特に難しいのは、「イヤ!」と感じている心に対して、いかに話しかけるか。
これは、泣いている子どもをいかにあやすか、ということに近く、決して定式化できない。
もうちょっと一般化して言うと、
「あなたが愛する人に対して、その愛を示すための然るべき方法については、どんな科学を以ても、決して定式化されないだろう!」
といったところか。
愛に満ちた気遣いをするには、その都度新しくなくてはならない。
それは、斬新なやり方を発明する必要があるというより、毎回未知なものとして現象に臨む必要がある、ということだ。
そして、時には斬新なアイデアが功を奏すことがある。
花粉「症」というメタファーに捕らわれてどうしようもない時、マインドボディーヒーリングのことも忘れて、全然違う視点で、花粉のことを想ってみた。
ああ、あなたも、我々人間と同様に、不条理に増えすぎた種なんだな、と。
僕ら一人一人が、訳も分からないまま、しかし増え続ける人口の一項として生まれたのと同様に、あなた達も人間によって埋められ、不条理なほど増え、しかし生きているからには生き続け、花粉をばら撒かざるを得ない哀れな(?)種なんだね、と。
そして、輪廻転生というアイデア(これもまた、ひとつのメタファーである)を受け入れるなら、あなたはかつて私だったかもしれない。あるいは、私の母だったかもしれない…
と、こんな戯れをしてみると、明らかに私‐花粉の関係が組み替わる。
私と不可避的に関わってしまう花粉という「異物」は、ある関係においては「敵」だが、僕らの対応次第では、新たな調和を作り出し、一緒にダンスを踊る関係になれるかもしれない。
癒し。それはいつも最後にくるべきものなわけではないが、それでも、この関係性における新たな調和が、最後に癒しをもたらしてくれることを、有限な「私」は望んでいる。
おそれ。それは見ないようにするべきものではなく、見方を変えてやるべきもの、そして、徹底的に見てやるべきものだろう。
時には排除もしたくなる「異物」も含めて、多種多様なもの、人との出会いが、より大きなシステムとして、私に新たなダンスを踊らせてくれますように!
苦しみを含めた雑多な経験が、私が編み上げるこの生に、豊かな実りをもたらしますように!
さて、私はこの「異」なるものと、どんなダンスを踊れるだろうか?
例によって深夜(早朝)に書いた文章なので、支離滅裂かもしれないけれど、ひとまずこのまま上げておく。
※1「メタファー」
隠喩というと、詩などで用いられる「たとえ話」のようなものを思い浮かべるが、ここで扱っているのはもっと広義だ。
事実、あらゆるコミュニケーションはメタファーである。
「現実が、あたかも記述したその様であるかのように、記述をする」
to describe as if the reality is how we describe
というやり方によって。
例えば、DNAが遺伝情報を伝える際のコミュニケーションだって、現実を「ありのままに」伝えているのではなく、DNAなりに切り取った「こんな感じ」というメタファーを、あたかも現実そのものであるかのように伝えているのだ。
「そんな言い方、現実そのものじゃないでしょ!」というツッコみを「しない」ことによって、僕らのコミュニケーションは円滑に成り立っている。
「外」としての自然、そして自己
普段僕らが扱っているものとしての自然は、人間的な意味を担わされ、道具、資源、鑑賞などの対象に貶められている。
しかし、そんな意味を超えて、理不尽に、不条理に、まったくの「外」から、到来してしまう自然がある。
8年前に僕らが見たのは、その片鱗かもしれない。
不意に到来するもの、それを忘却しておけるのが、人間的な努力であり、凄さでもある。
が、この世界の中で生きている限り、統御不能なものとしての「自然」との遭遇は避けられない。
実は、絶えず遭遇しているはず。
1番身近なはずの「わたし」だって、大切な愛すべき「あなた」だって、わたしには理解不能な意味で溢れた「外」だ。
この未知なものに対して開かれているとは、開こうとする体系的な努力によって成し遂げられるわけじゃない。
むしろ、努力の正反対だ。
ちょうど、吸う息が、能動的に吸い入れる努力なのではなく、ただ空白を作って待っているだけなのと同様に。
そこで起きていることを、自分の文脈や体系に位置づけたり、豊かな意味を持たせたり、意図的に味わったりすることを「せず」、ただそこにいること。
どっちにしろ、ぼくらは自然から離れられないのだから。
僕自身は大きな被害を受けた訳ではないし、そこに大きな意味を付けられないのだけど、そんな気持ちでこの日を終えたい。
#311
花粉症になんか、させられるんじゃない!
今年の春、自分の中で標語にしてみたい言葉。
「花粉症になんか、させられるんじゃない!」
身体的に出る症状がある。
それに、どうも心の状態が影響しているらしい。
身体と心、日常的になんとなくふたつのものとして扱っている二者は、別物にも見えるし、しかし確実に関連し合っている。
どういう関係なのか、物質的な身体からいかにして「心」のようなものが生じ得るのか、結局のところよく分かっていない。
とは言え、現象的に言えることはある。
で、花粉症がある。
僕も油断していると、くしゃみやら、目のかゆみやら、症状が出ることがある。
何が原因なのか。
それはさっきも言ったように、よく分かっていない。
そもそも、原因を突き止めるという思考法に無理がある。
が、現代にこれだけ花粉症なるものが流通しているのには、ある巨大な要因があると思われる。そして、その要因を抑えてしまえば、他にも様々な誘因はあるにしても、ここまで症状で苦しむことはないと思う。
巨大な要因① 思い込み
これがかなりデカいと思っている。
みんながマスクをして歩いている。テレビのCMでは、杉花粉が黄色っぽい粉を撒いて、さも身体に害がありそうな顔して飛んでいるイメージが流れる。
「私は体質じゃないから大丈夫」と思っている人は、軽くはねのけられるかもしれないが、一度でも「アレルギー性鼻炎」などと名付けられたことのある人(僕もそうだ)にとっては、不安をあおる情報があまりにも多い。
現代において、「春先は花粉に警戒」というメッセージが、かなり強力なメタファー(みんなが共有する物語)になってしまっている。
そして、僕ら自身もそんなメタファーの運び手になっていたりする。
大きなティッシュを持ち歩いたり、家に入る前に服をはたいたり、洗濯物をおそるおそる取り込んだり・・
えーと、花粉ってそんなに身体に害なんだっけ?
春先、生命が芽吹くこの時期に、いのちの発散としての花粉を、これほど忌み嫌わなければならないほど、僕らは自然から切り離されているのだろうか?
巨大な要因② 無意識に溜まるストレス(「イヤ!」)
身体をひとまず物質(物理法則に従う単純なもの)とみなし、その上で語られる医学はずいぶん進歩している。
だがこのパラダイムでは、「プラシーボ効果(偽薬を薬と思い込んで飲むと効いてしまうという話)」など、「心」が絡んでくる問題を扱えない。
現実に生きている身体は、どう考えても精神的なものの影響を受けているのに、その相互作用がどのように発現するかを語る際、僕らの言語はあまりにも乏しい。
結果として、僕らが「心の問題(=身体には直接関係ない)」としているものへの対処が、ずいぶんおろそかになっている。
それが、まさかくしゃみの原因になっているなんて思わない。
が、誰もが経験したことがあると思うが、
気分が落ち込めば身体もだるくなってくる。
花粉症体質の人も、よい気分の時はあまり症状がなく、ものすごくストレスフルな仕事を終え、やっと帰宅という帰り道で猛烈に鼻炎や目のかゆみが発症する、なんてことがあるだろう。
どういうしくみかはよくわからないけれど、僕らの身心は、生存のためにうまく働いてくれている。
社会生活を育む現代人の多くにとっては、身体が多少傷んだり、くしゃみが出たりすることよりも、心が崩壊してしまうことの方が大問題になる。
だから、少々身体を犠牲にしても、心を保つための戦略を駆使したりする。
というわけで、本来「心」の方の問題であるストレスを、「身体」的な症状に転化させることで、ひとまず処理しているということがある。
(ここで、どうしても身心二元論的な説明になってしまうが、今の言葉遣いではひとまずそういう認識の仕方しかできないので、このまま議論を進める。)
一般に「心身症(ストレスが原因と考えられる病)」と括られる症状以外にも、案外この説明原理は当てはまる、というのが僕ら(※1)の見解だ。
腰痛、肩こり、ぎっくり腰、そして花粉症も。
つまり、くしゃみは「イヤ!」という心の叫びなのだ。
さらに言えば、その「イヤ!」は大抵無意識下に抑圧されているので、もうちょっと「叫び」を具体的に記述すると以下のようになる。
「何で気づいてくれないの!こんなにイヤなのに!」
「でもこのイヤにいちいち気づいていたら心が崩壊しちゃうから、ワタシが代わりに病気になってあげるからね!」
「でも、気づいてくれるまで、こうやってムズムズし続けるからね!」
と、こんな感じ。
この相関関係はよくできたもので、「花粉症に注意!」「あなたは腰が弱いよ」「右足首に古傷アリ」などという情報があると、それを利用して発症したりする。
あたかも(物質的な)身体の方が悪いことにして、心の方は淡々と日常を送れるように。
そんな絶妙なはからいに感謝しつつも、症状が出ない方向に持っていくことはできる。
手順① 思い込みからの解放
まずは、「花粉が悪い」、「体質が悪い」といった物質的なものに原因を求める思考をやめること。
たとえその条件が揃っていたとしても、心に溜まった「イヤ!」がなく、症状としてその存在をアピールする必要がなければ、別に症状は起きないのだ。
事実、花粉がそれ自体で人体に害ということはない。
アレルギーとは、ほんらい敵でないものを敵とみなして攻撃し、自分さえも傷つけてしまう「過剰防衛」なのだ。
先述したように、みんなが寄ってたかって「花粉が悪い」という風潮を作りあげているように見える。
だからこそ、冒頭の言葉。「花粉症になんか、させられるんじゃない!」
手順② 「イヤ!」に気づく
じゃあ、「イヤ!」がなければよいのだけど、現代に生きている限りそんなことは不可能。ポイントは、「イヤ!」そのものはなくさなくてよい、ということ。
症状に結びついてしまうのは、無意識下に抑圧され、気づかれずにいる「イヤ!」だ。
確実に経験しているのに、ないことにされて通過される「イヤ!」こそが、「ちゃんと気づいてよ!」という仕方で症状になる。
インド思想的に言えば、燃えきれなかったカルマが、消化されるべく残り続ける。
「分かったよ、イヤだったね」
「気づいているから、もう大丈夫」
「代わりにくしゃみになってくれてありがとう!」
その目を向けてあげると、心は納得し、症状を出すのをやめてくれる。
ただ、油断ならない。
ほんとうに、ちょっとしたことで僕らは「イヤ!」と感じてしまうから。
何歳になっても、僕らの中にはわがままで短気な2歳児が潜んでいる。
ちょっと寒い、雨が降った、渡ろうとした信号が赤になっちゃった、お腹すいた、向かいに座っているあの人のしゃべり方がなんかやだ…
「オトナだから」と、自分でも気づかないうちに、どれだけのものを抑圧しているのだろう。
別に、何でもかんでも解放する、アナーキーな世界を提唱したいわけじゃない。
そうではなく、しかし各人の中に確実に存在し続ける「野性的な2歳児」を、たまには面倒見てやらないと、ということだ。
しかも、その2歳児が叫び声を上げているのに、現代の巧妙なメタファーによって、「花粉が悪い」みたいな全然見当違いの方向に意識が向けられちゃったりしている。
だから、面倒くさくも愛らしいこの2歳児を、ちゃんと見てあげよう。
特に、何か症状が出たときは、この子が声を上げている証拠だから。
さて、今年はどんな春を過ごせるかな。
※1)つくばを拠点に細々と活動する「身体と心の自然体研究所」という少人数ラボ。
http://blog.livedoor.jp/shizentai_labo/
拡大・縮小・何が起きているか?
久しぶりに、時間をまったく気にせずにプラクティスをした。
ここ最近忙しくて、プラクティスはするものの、いつも終わりの時間を気にしながらの練習になってしまっていた。
現代人である僕らの多くは、時間の中に位置づけられ、次はこれ、その次はあれ、というように自分の行動を律せざるを得ない。
それが、ここ数日は、プラクティスにおいてもそうだった。
ヨガをして、この10分後には職場に行く・・
ヨガをする最中にも、この意識が頭から離れなかった。
もちろん、完全にこのことを忘れてしまったら、社会的に機能しない。
だが、常に「次は○○をして」という考えにとらわれていると、本当に「次は○○をする」ような存在、として(のみ)自分をとらえるようになってしまう。
10分後は会社に行く人として、5分後にはお弁当をつくる人としてのみ、自分をとらえるようになってしまうのだ。
もちろん、そのような事を為していく存在には違いないのだが、
しかし、あらためてここを眺めてみると、「次に為すべきこと(として我々が頭を捉えられていること)」以外にも、もっと大きなスパンで、もしくはもっと小さなスパンで、いろいろなことが起きている。
自分を宇宙の脈動の一部として、何百年後にもうねりを残し続けるひとつの波として感じることができたら、
実際にそのような存在として行為することが少し上手になるかもしれない。
目先の小さなことに囚われず、より長いスパンで自分(ないし地球ないし世界)にとって、よい選択ができるかもしれない。
自分を微細なひとつの運動として、心臓から腕に向かって血液を流す生命の努力として感じることができたら、
より小さな(見逃しがちな)出来事さえも丁寧に拾えるかもしれない。
実際に次の雑務をこなしていく際にも、ちゃんとサポートしてくれているその微細なプロセスを、愛おしく感じられるかもしれない。
こんな壮大もしくは微細な話を想定しなくてもよいのかもしれないが、
この視点のずらし、拡大ないし縮小は、ひとつの物語にとらわれっぱなしの日常を送り続けるよりは好ましいように思う。
もうちょっと言うと、この視点の拡大ないし縮小がなければ、
人々は(社会的、家庭的な意味での)「個人」という単位でしか自分や世界をみなすことができなくなる。
これは、おそらく、地球にとって好ましくない。
だからこそ、雑多な日常、次から次へと為すべきことを考えなければならない世界の中においても、
そのような時間軸とは別のところで(無視をするわけではなく、パラレルにという意味で)行為しているという自覚をすること。
そんな取り組みが、僕には必要だし、たぶん多くの人にも必要なのだと思う。