花粉症になんか、させられるんじゃない!
今年の春、自分の中で標語にしてみたい言葉。
「花粉症になんか、させられるんじゃない!」
身体的に出る症状がある。
それに、どうも心の状態が影響しているらしい。
身体と心、日常的になんとなくふたつのものとして扱っている二者は、別物にも見えるし、しかし確実に関連し合っている。
どういう関係なのか、物質的な身体からいかにして「心」のようなものが生じ得るのか、結局のところよく分かっていない。
とは言え、現象的に言えることはある。
で、花粉症がある。
僕も油断していると、くしゃみやら、目のかゆみやら、症状が出ることがある。
何が原因なのか。
それはさっきも言ったように、よく分かっていない。
そもそも、原因を突き止めるという思考法に無理がある。
が、現代にこれだけ花粉症なるものが流通しているのには、ある巨大な要因があると思われる。そして、その要因を抑えてしまえば、他にも様々な誘因はあるにしても、ここまで症状で苦しむことはないと思う。
巨大な要因① 思い込み
これがかなりデカいと思っている。
みんながマスクをして歩いている。テレビのCMでは、杉花粉が黄色っぽい粉を撒いて、さも身体に害がありそうな顔して飛んでいるイメージが流れる。
「私は体質じゃないから大丈夫」と思っている人は、軽くはねのけられるかもしれないが、一度でも「アレルギー性鼻炎」などと名付けられたことのある人(僕もそうだ)にとっては、不安をあおる情報があまりにも多い。
現代において、「春先は花粉に警戒」というメッセージが、かなり強力なメタファー(みんなが共有する物語)になってしまっている。
そして、僕ら自身もそんなメタファーの運び手になっていたりする。
大きなティッシュを持ち歩いたり、家に入る前に服をはたいたり、洗濯物をおそるおそる取り込んだり・・
えーと、花粉ってそんなに身体に害なんだっけ?
春先、生命が芽吹くこの時期に、いのちの発散としての花粉を、これほど忌み嫌わなければならないほど、僕らは自然から切り離されているのだろうか?
巨大な要因② 無意識に溜まるストレス(「イヤ!」)
身体をひとまず物質(物理法則に従う単純なもの)とみなし、その上で語られる医学はずいぶん進歩している。
だがこのパラダイムでは、「プラシーボ効果(偽薬を薬と思い込んで飲むと効いてしまうという話)」など、「心」が絡んでくる問題を扱えない。
現実に生きている身体は、どう考えても精神的なものの影響を受けているのに、その相互作用がどのように発現するかを語る際、僕らの言語はあまりにも乏しい。
結果として、僕らが「心の問題(=身体には直接関係ない)」としているものへの対処が、ずいぶんおろそかになっている。
それが、まさかくしゃみの原因になっているなんて思わない。
が、誰もが経験したことがあると思うが、
気分が落ち込めば身体もだるくなってくる。
花粉症体質の人も、よい気分の時はあまり症状がなく、ものすごくストレスフルな仕事を終え、やっと帰宅という帰り道で猛烈に鼻炎や目のかゆみが発症する、なんてことがあるだろう。
どういうしくみかはよくわからないけれど、僕らの身心は、生存のためにうまく働いてくれている。
社会生活を育む現代人の多くにとっては、身体が多少傷んだり、くしゃみが出たりすることよりも、心が崩壊してしまうことの方が大問題になる。
だから、少々身体を犠牲にしても、心を保つための戦略を駆使したりする。
というわけで、本来「心」の方の問題であるストレスを、「身体」的な症状に転化させることで、ひとまず処理しているということがある。
(ここで、どうしても身心二元論的な説明になってしまうが、今の言葉遣いではひとまずそういう認識の仕方しかできないので、このまま議論を進める。)
一般に「心身症(ストレスが原因と考えられる病)」と括られる症状以外にも、案外この説明原理は当てはまる、というのが僕ら(※1)の見解だ。
腰痛、肩こり、ぎっくり腰、そして花粉症も。
つまり、くしゃみは「イヤ!」という心の叫びなのだ。
さらに言えば、その「イヤ!」は大抵無意識下に抑圧されているので、もうちょっと「叫び」を具体的に記述すると以下のようになる。
「何で気づいてくれないの!こんなにイヤなのに!」
「でもこのイヤにいちいち気づいていたら心が崩壊しちゃうから、ワタシが代わりに病気になってあげるからね!」
「でも、気づいてくれるまで、こうやってムズムズし続けるからね!」
と、こんな感じ。
この相関関係はよくできたもので、「花粉症に注意!」「あなたは腰が弱いよ」「右足首に古傷アリ」などという情報があると、それを利用して発症したりする。
あたかも(物質的な)身体の方が悪いことにして、心の方は淡々と日常を送れるように。
そんな絶妙なはからいに感謝しつつも、症状が出ない方向に持っていくことはできる。
手順① 思い込みからの解放
まずは、「花粉が悪い」、「体質が悪い」といった物質的なものに原因を求める思考をやめること。
たとえその条件が揃っていたとしても、心に溜まった「イヤ!」がなく、症状としてその存在をアピールする必要がなければ、別に症状は起きないのだ。
事実、花粉がそれ自体で人体に害ということはない。
アレルギーとは、ほんらい敵でないものを敵とみなして攻撃し、自分さえも傷つけてしまう「過剰防衛」なのだ。
先述したように、みんなが寄ってたかって「花粉が悪い」という風潮を作りあげているように見える。
だからこそ、冒頭の言葉。「花粉症になんか、させられるんじゃない!」
手順② 「イヤ!」に気づく
じゃあ、「イヤ!」がなければよいのだけど、現代に生きている限りそんなことは不可能。ポイントは、「イヤ!」そのものはなくさなくてよい、ということ。
症状に結びついてしまうのは、無意識下に抑圧され、気づかれずにいる「イヤ!」だ。
確実に経験しているのに、ないことにされて通過される「イヤ!」こそが、「ちゃんと気づいてよ!」という仕方で症状になる。
インド思想的に言えば、燃えきれなかったカルマが、消化されるべく残り続ける。
「分かったよ、イヤだったね」
「気づいているから、もう大丈夫」
「代わりにくしゃみになってくれてありがとう!」
その目を向けてあげると、心は納得し、症状を出すのをやめてくれる。
ただ、油断ならない。
ほんとうに、ちょっとしたことで僕らは「イヤ!」と感じてしまうから。
何歳になっても、僕らの中にはわがままで短気な2歳児が潜んでいる。
ちょっと寒い、雨が降った、渡ろうとした信号が赤になっちゃった、お腹すいた、向かいに座っているあの人のしゃべり方がなんかやだ…
「オトナだから」と、自分でも気づかないうちに、どれだけのものを抑圧しているのだろう。
別に、何でもかんでも解放する、アナーキーな世界を提唱したいわけじゃない。
そうではなく、しかし各人の中に確実に存在し続ける「野性的な2歳児」を、たまには面倒見てやらないと、ということだ。
しかも、その2歳児が叫び声を上げているのに、現代の巧妙なメタファーによって、「花粉が悪い」みたいな全然見当違いの方向に意識が向けられちゃったりしている。
だから、面倒くさくも愛らしいこの2歳児を、ちゃんと見てあげよう。
特に、何か症状が出たときは、この子が声を上げている証拠だから。
さて、今年はどんな春を過ごせるかな。
※1)つくばを拠点に細々と活動する「身体と心の自然体研究所」という少人数ラボ。
http://blog.livedoor.jp/shizentai_labo/