生命は、実感できなさに特徴をもつ。
有限な閥を持ってこの世に生まれる僕らが、実際にありありと(tangibeに)何かを感じられるとは、僕らの知覚範囲の中で、何か特定のものだけが特異的に変化を生じさせている、ということだ。
・知覚範囲を超えたものは、知覚できない
・もし全体が一律に変わっていたら、変化を知覚できない
・何も差異が生じておらず、まっさらな世界だったら、何も知覚できない
だから、ありありとした実感を求めるなら、何か知覚しやすい特定のものが、他のものとの関係において、特異的に、大きく変化することを求めることになる。
例えば、「筋力トレーニング」とは、
身体の一部分だけを特異的に意識し、強化するからこそ、「鍛えているな」という実感が得られる。
一方、全身の力が滞りなく使われる「武術家の技」は、
どこにも力感がなく、捉えどころのないまま行われる。
明らかに、分かりやすく、理論化しやすく、多くの人が進んでしたがるのは前者だ。
しかし、G.ベイトソンは言う。
「生命に単調な値はない。」
つまり、多ければ多いほどよいような値や、少なければ少ないほどよいような値は、生物学的に存在しない。
しかし、人間のこのような知覚の仕方からして、何か特定の値のみが上昇(下降)を続ける様が、好ましいかのように錯覚されてしまう。
(そしてこの錯覚は、「お金は多ければ多いほどよい」という誤解に結びついていることが多い。)
では、生命にとって自然なあり方はどうかというと、
当たり前だが、僕らの知覚範囲では到底とらえきれない諸要素が、それぞれ有限な柔軟性をもち、それを超えたら害になってしまう最大値や最小値を超えないよう、均衡を保っている。
これらを、理論化し尽くすことは不可能。
そして、分かりやすい仕方でありありと実感することも、きわめて困難だ。
端的に言えば、「中庸」とは手触りのなさに特徴を持っている。
人間が知覚し、思考の軌道に乗せ、具体的に語り、推進したり抑圧したりできることは、中庸でないこと、特定の変数のみが特異的に変化することにかかわるものなのだ。
もし生命の全体を、均衡として、ひとつの値変化に準じてすべてが少しずつ変化しバランスを保つ複雑な連関としてとらえようとしたら、決して一部分にありありとした実感を求めない、拠り所のない全体感覚を育まなければならない。
ということは、「中庸」に基づいて社会理論を構築したりすることは、きわめて困難である・・・
生命中心に思想、社会を構築しようとする「ディープエコロジー」などの困難さは、ここにあるのだろう。
生命の絶妙な均衡は、人間の直線的な論理によっては理論化し切れない。
無理に少数の言葉に収れんさせれば、そこからはみ出る生命の側面を排除した、独断的な思想になってしまう。
(ディープエコロジーは、急進的なものだとファシズム的な危険を持つ、と言われたりもする。)
エコロジカルな思想は、見通せなさから成り立っている。
それでも見通しをつけたがり、理論化したがるのが僕ら人間だ。
この困難さに、どう向き合ったらよいのか?
一人一人が、自らのもとに生じているその生命に、直接ふれられるような経験を育むこと(direct participation in Life)。
ひとまず今のところは、それしか思いつかない。