的場悠人の体和 Tai-wa 日記

理論と実践を行き来するヨガ研究者。ここではヨガ以外のことも。大学時代から継続のブログ。

因果の中に位置づけられるヨガ

前回から引き続き、「原因と結果の究明に忙しい世」ということについて書いてみる。

 

この思考パターンに慣れ過ぎると、特定の何かを、すべてを解決するような救世主的存在として置きたくなる。

 

ヨガを伝える際も、そんな願望を持っていそうな人に出会う。

あるいは、僕自身にもそういう願望があるかもしれない(間違いなく過去にはあったし、今もその節はあるかも)。

 

ただ、「自分の人生、健康」などを好転させてゆく「きっかけ」、「原因(となるべきもの)」としてヨガを置いてしまうと、

他の健康法などとの対比で、そこまで突出したものにはならないのではないか(ヨガの健康効果は計り知れないし、強力なものには違いないが、それでも強力な手段は他にもあるということ)。

 

また、この語り方は、常に世界をかなり簡略化したものとして描いてしまう。

諸々の関係性、ネットワークによって諸事象は起こるのだという全体を見逃してしまう。

 

ここにおいて語られているヨガは、主に「tapas(身心を活性化し、不純物を取り除く作用)」という要素についてのことだ。

身心の健康を改善し、次に起こることがより好ましいものになる確率を高める。ヨガにそういう要素が含まれていることは、間違いない。

 

しかし、ヨガに含まれている要素は、「tapas」だけではない。

 

tapah svadhyaya isvarapranidanani kriya yogah. (PYS.2-1)

 

未来の自分のためによりよい「原因」を用意してやることだけが、ヨガではない。

むしろ、原因と結果の連鎖を見通し、諸々の関係において浮かび上がってくる「自分」というものについて知ること(svadhyaya 自己理解)。

そして、それらの連鎖が、個に帰するものでないことを見極め、その流れに身を委ねてゆくこと(isvarapranidana 自在神祈念)。

 

これらの要素も、併せて含まれているところが、そしてこの3つ(tapas, svadhyaya, isvarapranidana)が同時に行われるということこそが、ヨガの強力たる所以ではないだろうか。

 

ヨガをしている理由を尋ねられる時、また人にヨガのよさを説明する時、

やはり「より好ましい結果の原因」としてヨガを語ることが求められる。

その語り方もできなくはないが、それでは語り尽くせないということの方に、本当の「よさ」がありはしないだろうか。

 

過去について語るということ

以下の文章を読んだ時、ちょっと救われた気がした。

夢を語ればその動機を問われ、信念を論ずればその根拠を訊ねられる。病があれば病因を探りはじめ、事故があれば責任の所在が追及される。とかくに人の世は、結果と原因の究明に忙しい。 

しかし世界は、原因と結果の連なりに回収できるほど単純にはできていない。いかにもはっきりとした原因と結果の連鎖も、それは辿っていくうちに、複雑に絡みあう世界のネットワークの中に消散してしまい「起源への遡行」は未遂に終わる。そうしてあらためて世界が、互いに支え合う無数のものたちが縁起する、大きな網だったのだと気付く。(森田正男 http://honz.jp/23020

そう、僕らは「結果と原因の究明に忙しい」世を生きている。

 

就活などで「自己分析」を経験した人の中でも、こんな疑問を持った人はいないだろうか。

何故自分のやりたいことに対して、「何故」と問われなければならないのか?

 

「原点」、「原体験」、「きっかけ」などを探して、自分史を辿ってみたりする。

その作業を経て、何となく原点らしきものを掘り当ててみたりするが、そんな説明で自分を語り切れているとはとても思えない。

どこか、偽りの自分を差し出しているような気分になる。

 

とは言え、休学中の僕は、「個人史」を振り返るという作業をかなり入念にやった。

これからも、折りに触れて行うだろう。

 

今年の5月、自分史振り返り真っ最中だった僕の、こんな文章が残っていた。

そこでどんなことが掘り出せたかはここに記せないが、どんな心境でこの作業を行ったかは、感じられる文章になっている。

ちょっと長いが、ここに引用してみたい。

 

 自分の過去について語るということは、今まであまり乗り気にならなかった。自分が今行っていることの理由を、過去のどこかの地点に求めるのがイヤだったのだ。ある経験を「こういう経験で、今の自分にこういう意味を与えた」などと特定の言葉に捨象させてしまうのもイヤだし、今の自分を「あの経験があったから今の自分があるのだ」などと結論付けるのもスッキリしすぎてイヤだった。

 しかしながら、経験を語り直すという作業をしないと、経験(の記憶)はむしろ固定化された意味のまま残り続けることになってしまう。記憶は必ず何らかの意味を持たされ、保存されている。だからこそ、語り直さなければならない。語らないまま放っておくのではなく、(記憶されている以上、すでに何らかの仕方で語られてしまっているのだから、)語り直して、そこに流動的な意味をもたらす必要がある。その作業があってこそ、記憶が自分の中で固定されず、どんな意味にも回収し切れないものとして響き続けることができる。記憶は、語られないことによってではなく、語られ直すことによって生を吹き返すのだ。(中略)

 生きているうちに、改めて過去を検討する必要が生じてきた場合のみ、過去について固定的に行ってしまっている意味付けをやり直す必要が出てきた場合のみ、過去に取り組めばよいのだと思う。そしてその取り組みは、今問題になっている以上、結局今の生に取り組むことなのだ。たまたま僕にとっては、今がそのタイミングなのかもしれない。

 

 原因と結果によって語る思考に慣れてしまうと、世界をずいぶん単純なものとして取り扱ってしまうだろう。

「よい結果」が得られたときに、特定の何か(「自分のあの行動」など)が原因になっているという、思い上がりも招きかねない。

だからこそ、特定の説明方法で自分の過去を固定してしまわないよう、時に語り直すことは必要なのかもしれない。ただし、語り直すということの目的は、「(今度こそ)真の説明」を見つけ出すことではなく、「どんな意味にも置き換えられない不定性」としての過去を再認識することに他ならない。

 

振り返る際の自分の状態によっても、過去にどんな意味づけがなされるかが変わるだろう。その時の気分によって、他者からの声かけに対する反応が異なってしまうように。

そういう意味では、「過去の自分を振り返る」という作業は、過去の自分との関係において現れてくる「今の自分」について知る作業でもある

 

原因と結果の連鎖について、例によってヨガの観点から語りたくなったが、長くなりそうだし、専門用語を多発してしまいそうなので、また別の記事で(書けました)。

 

 

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いまや懐かしい、フィジーでの食事

 

 

ハロウィンへのお誘い、的な意味で。

「あなたの中で起こっている、呼吸というパーティーは終わらない」

by マーク・ウィットウェル 

 

現にあなたが生きている、という燦然たる事実がある。

その事実に、どう取り合うか、僕らには自由が与えられている。

 

それを賛美することもできるし、そんなことあまり重要じゃないことにして、何かが足りないかのように、何かを追い求め続ける人生を歩むこともできる。

 

あなたが全く意に介さなくても、あなたの中に、あなたとして、そこにいのちは存在している。

ヨガは、この事実を賛美しませんか、と呼び掛ける。

これは、頑張って到達するような境地ではなく、むしろライフスタイルの選択に近い。

 

今年のハロウィン、どうしようかな、ということに似ている。

ハロウィンなんてないことにして過ごすこともできるし、それに加わって楽しむこともできる。

あなたが参加しなくても、ハロウィンは存在している。

もし、参加したいなら、「参加する」と心に決めるだけでよい。

ハロウィンに参加するに相応しい自分になろう、とか、ハロウィンのことを絶対に忘れないようにしよう、なんていう努力は必要なく、ただ「そう思う」だけでよい。

 

僕らが、「いのち」ということにどう向き合うかも、これに似ている。

それは、いつもここに存在しているが故、その気になれば、いつでも賛美しうる。

賛美の仕方を絶対に忘れないようにしよう、とか、この味を覚えておいて、いつでも再現できるようにしよう、などという計らいなしに。

自分を固定したアイデンティティとして扱い、そこによさげな属性をくっつけようと躍起になるような苦しみなしに。

 

この事実を、少なくとも論理的に理解しておくことはできる。

生の神秘、それはすでに与えられているのに、いつか、どこかで、あんな体験をすれば、あの仕事に就ければ、ついに辿り着く、なんていうまやかしに騙されっぱなしでいる必要はない。

 

ただ、物事を分かるにも、いろいろなレベルの分かり方がある

僕なんかは、このことを知的に理解しておくだけでなく、全身を使ってそういう風に生きてみたくなる。

だから、わざわざハタ・ヨーガをするのだと思う。

 

生の神秘に全身が参与した時、知的に分かる、ということとはまた違った分かり方がある

ああ、これでいいんだな、と全身が納得する。

 

だから、ヨガを始めるのに、何かしらのハードルを感じてしまう人は、こう思ってほしい。

「あなたの中で起こっている呼吸というパーティーは、すでに始まっているし、あなたがそれに参加しようと思うなら、いつでも開かれている」

(しかも、ハロウィンパーティーに参加するより、ずっとハードルが低いはず。仮装なんてせずに、そのままの姿で!)

 

 

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(以下、補足。煩わしい方は読み飛ばしてください。)

この文章全体を通して、「生きていること」、「いのち」を「在る」ということとほぼ同義で使った。

厳密に言えば、両者には明確な違いがある。

「在る」は単なる存在で、

「生きていること」、「いのち」は、存在の様式(内容)だ。

 

この両者を明確に区別して論じるべきだ、という見方もあるだろう。

そして、僕らがいつでも賛美しうるのは、むしろ「在る」ということの方なのだ、と。

 

しかし、論理的に必然的なつながりがなくても、現実的に恒常的なつながりがある、というケースもある。

僕らが「在る」ということは、「いのち(身体を持ったり、呼吸をしたりすること)」と論理的に必然的なつながりはないのだけれど、(そうじゃない「在り方」も想定可能なわけだけれど、)

しかし現実には、僕らが「在る」ということと「いのちである」ことはほぼイコールだ

ハタ・ヨーガは、現実的で実践的なツールであり、しかも人間を対象にしている。(カフカの『変身』の主人公のような主体を想定はしていないということ)

 

だから、「在る」というどんな感覚にも置き換えられない形而上的(メタ・フィジカルな)主題を、「生きていることの(フィジカルな)感触」と結びつけてしまうことも、便宜的には許されるのではないか、と思う。

 

そういう仕方で理解した時、「在る」ということと「生きる」ということを別個に論じる方が、むしろ不自然な気がしてくるのだ。

Satー在るーの知覚

神秘とは、世界がいかにあるかではなく、あるというそのことである。

ウィトゲンシュタイン

 

「在る」ということが、すでにはらんでいる神秘、美、完全性がある。

これは、(その気になれば、)いつでも味わい得る。

この味をしっかりと覚えておいて、あとからいつでも味わえるような道筋をしっかりと整えておこう、なんていう構えなしに。

常に与えられており、いつでも味わいうる。

 

ある人は、これを「時間軸上を無限に伸びたフランスパンの妙味」と表現した。

その例えでいえば、そのフランスパンは、いつでも私たちを貫いているし、もっと言えば、「私たち自身がフランスパン」なのだ。

 

美を知覚するとは、おそらく、存在していることそのものの知覚に他ならない。

なぜならその時、「私」と「知覚物」などの主客関係など崩れ落ちており、

ただ「美」の知覚があるから。

その時、「美」の勢力範囲から排除されている外側などないし、「美」とは別のところにいる「私」もいない

だから、その知覚を素直に書き換えれば、「美があった」くらいしか言えないはずだ。

 

それなのに、「私が」「美しいものを」「見た」などという記述の仕方に、我々はすっかり慣れている。

それによって、存在しているもの(の様式、在り様)のある一部分が美しいのだと、(したがって他の部分は美しくないのだと)誤解したところにおそらく我々の誤りがある。

 

そして「○○が美しい」、「私」はそれを知覚する主体である、という記述の仕方を続ける限り、この混乱は起き続けるのだろう。

 

何はともあれ、誤解が起きるこの「構造」を理解しておくことは、

「いつかどこかで訪れる、特別で劇的な体験こそが私を真に幸せにしてくれる」などという幻想から目を覚ましておくことには役立つ。

そんなものはないし、いつの日か「ほんとうの自分」になれる、なんてこともない。

 

とは言え、常にこの理解に留まることができるか、というのはまた別の問題だ。

バガヴァッドギーターが言うような、「常にブラフマン(根本的実在)と共にあれ」ということは、なかなか難しい。

 

あらゆる身体的、精神的苦痛が、存在の様式(在り様)の方に我々を固執させ、「存在」に目を向けさせない

あるいは、言語の使用ということだけでも、先述したような誤謬に簡単に巻き込まれる。

 

一方で、明晰に存在Satを見通せているような感覚になることもある。

その状態を、おそらくSattvaという。

この状態であるためにこそ、我々はハタ・ヨーガなどの手法を用いて、自分の状態を整えたりする。

しかし、そこにおいて身体や呼吸を用いるからこそ、身体や呼吸の在り様の方に、

注意が持っていかれてしまうことは、常にあり得る。

(だからこそ、ハタ・ヨーガはアーサナだけでなく、プラーナーヤーマ、瞑想までやる必要があるのだろう。Sattva性に整った身心において、注意を身体や呼吸の在り様から、それらが在るという一点に向け直すのだ。)

 

ヨーガスートラは、あくまで人間的身体に宿った精神を扱っている。

その時、Sattva性に近づくためのさまざまな技法が語られるのは、

そのこと自体に価値があるからではなく、またその技法とSatの知覚に論理的なつながりがあるからではなく、

なぜか、偶然、(そうでないこともあり得たのに、)

現に与えられている人間的身体において、これをやるとSattva性に近づきやすいから、ということで語られているにすぎない。

我々が存在する時に、もれなく付随してくるのが身体や呼吸だったからこそ、人類はそこに基づいてハタ・ヨーガを開発した。

もし、全然違う仕方の様式が与えられたなら、その様式に合ったやり方で、またSattva性に近づくための方法を考えたのだろう。

 

我々は、常に今できることから出発する必要がある。

そこにおいて与えられているのが、身体であり呼吸であるということ。

とはいえ、身体でさえも内外に明確な区別はなく、呼吸はまさに世界との交流である。

それらをSattva性に保とうとする努力は、必然的に、世界全体を巻き込む

ヨーギーが取り組んでいるのは、世界的な変貌なのである。

 

だから、「悟り」ということに関して、僕が言えそうなことは以下の3通り。

①悟りなんてものはない

②本当はみんな悟っている

③みんなが悟らない限り、悟りはない

 

共通しているのは、「私(だけ)が悟った」といえる個人などいない、ということだ。

どれが一番的を射ているかは、よく分からない。

 

今回参考にした本

・『ハイデガー=存在神秘の哲学』古東哲郎

・『ただそのままでいるための超簡約指南』J.マシューズ

・『精神と自然』G.ベイトソン

 

姉とのやりとり

今日、今まで全くヨガに興味を示してこなかった姉と話しました。

「ヨガの効能を教えてくれて、それが私のニーズに合ってたらやる」
というきわめて男性的な挑戦(?)を受けて、
僕もそれに乗っかり、プレゼンのような形でヨガについて話しました。

僕の伝えた「効能」とは、
「ヨガをすると、自分が本当にやりたいことしかできない身心になっていく」ということ。
「やりたいことがやりたい」とは、たぶん多くの人にとって真理だろうから。すると、
「自分のやりたいことだけやる人生が本当にいいの?」
「疲れてても会社は休めないんだけど?」などという反応。

 

ヨガの「効能」を「プレゼン」するという仕方でヨガを伝えようとすると、こうなるんだなぁと思いました。その「効能」が、目指すべき「理想状態」のように聞こえてしまう。
そして、その「理想」の正当性を疑ったり、その「理想」からかけ離れている自分を見て惨めになったりする。

 

だからこそ、ヨガはやはり、
「現実的に」、「実際的に」伝えるべきなんでしょう。

今ここから、できることとして。
本人が心底望むことと、接続する仕方で。

 

続けていく過程で、自然と心が赴くものがあるかもしれない。
自然と、拒むようになるものがあるかもしれない。

それは段階的で、自然な変化であり、明日からすぐ会社に行かなくなるといった極端な変化ではない(と思う)。

ヨガは、「自分が本当にやりたいことは何か?」という問いに、自己分析の結果のように言語的に答えを出すことはしない。
そうではなく、整った身心で生きたいように生きた結果、

「ああ、これが私の望むことなんだな」という形で示してくれる。

だからこそ、Do your Yoga, and see what happens.

あなたのヨガをして、それで何が起こるのかを見てみましょう。

何か「ヨガ的な」コンセプトや心構えを自分に押し付けるのではなく。

 

小野洋輔先生は言っていました。

「ヨガをするとは、自分への理解が深まるだけであって、『ヨガをする人』になるわけじゃない。」

ただ本人にとって心地よい実践があり、それによって生が好転していくという経験がある。
その素晴らしい経験を、身近な大切な人たちにシェアしたいという自然な動機がある。
身近な人ほど素直に愛情を示すのは難しいし恥ずかしいけれど、受け取ってもらえたら嬉しい。

 

必死のプレゼンあってか、「じゃあレッスン頼もうかな」と言ってくれました。
(さて、どうなるか。)

 

遠慮せずに言えば、たぶん僕の姉は、(全国で無数にいるであろう)ヨガに興味がある20代女性の中で、最も恵まれた立場にいる。
(僕だけでなく、母という生きたヨギー二の同居人もいるわけだし。)

 

あと、来週末につくばでWSをやります。

「ハタヨガからバクティヨガへ」

特別で神聖な行為と見なされがちの「バクティヨガ」も、

普通に生きる僕らにとって自然なこととして経験したい。

それは、自らの身体、呼吸、生命を慈しむ、ハタヨガの練習から始まる。9/29(土)10:00~13:30(ランチ付き)

Psyche/プシュケ にて。

https://www.facebook.com/events/2280353898942769/写真は今年の元日。姉弟ショット。

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「おみそ汁ヨガ」

 

ヨガスタジオに行ってヨガをするって、人によっては「高級レストランに行って食事する」くらいの感覚なのかもしれない。
ちゃんとお洒落して、上品な振る舞いをして‥というように。

僕が伝えようとしているのは、むしろ「家庭料理のおみそ汁」くらいの感覚だ。
僕がレッスンで伝えられるのは、「おみそ汁の作り方のキホン」と、その日の自分に合わせてどれくらいの味噌を入れて、どんな具材を入れて、どのくらいの量飲むのか、といったことを自分で調整する感受性を養うこと。


だから、一度来てもらって作り方を覚えてもらえれば、あとはご自分の体調、時間(忙しさ)、好みなどに合わせて毎日ご自宅で作れますよ、と(もうレストランに来なくてもいいかも)。

たまに作り方が分からなくなったり、レパートリーを増やしたりしたかったらまた来てください。

毎日、自分に合わせておみそ汁を作り、それを味わって飲むということが、どれだけ人生を豊かに、健やかにしてくれるか。
「ヨガの先生」とはその素晴らしさに誰よりも感動しているからこそ、それを人にも伝えたくなってしまうお節介な人に他ならない。だからこそ、すごーく気軽に来てもらえたら嬉しい。


高級料理であなたを感動させたり、癒したりすることは、僕にはできない。
あなたが普通に持っている味覚で、普通の料理を味わうことの中に、実は素晴らしさがあるというだけだ。

そんな気軽かつ真摯な気持ちで、ヨガを学ぶことができたら嬉しい。

 

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ヨガ実践における「苦しみ」のパラドックス

あえて、こんなことを言ってみたい。

ヨガは、苦しみ(ドゥッカ)の解決ではない

苦しみのある世界から、ない世界への移行ではない

ヨガは、部屋の中で行う、気持ちよくなるための儀式のようなものではない。

 

端的に、生の全体を知覚し、それと親しむことであり、その際に、生の内容がどうこう問題になるわけではない。

だから、生の全体と親しんだ時の感触が、

解放感ややすらぎを与えてくれることもあれば(僕の場合はこれが多いのだが)、

「まだ生きなきゃならないのか」という倦怠感や、

「こんな醜さもあったのか」という嫌悪感を与えることもあり得る。

 

それでも、生全体に親しむことが、結果的に、自然な癒しをもたらす。

この癒しは、生の一部を切り取って、ネガティブなものをポジティブなものに置き換えようとする努力からではなく、

端的に生全体の抱きしめから生じる。

そこに、問題を解決しようという努力感はない。

だが、生きていることへの全体的な参与こそが、もっとも強力な問題解決だったりする。

 

だから、(すでに実践を始めている)実践者にとって、「苦しみ」は別に知覚しなければならないものでさえなく、この特性が、

ヨガ実践者を楽観的(悪く言えばお花畑的)にしたりする。

サーダナ、あなたが今ここで行えること。

これに徹している限り、苦しみを捉えることさえしなくてもよく、ただ生を生として生きればよくなる。

 

では、人がヨガの実践を始める際に、何が起きているか。

人それぞれ、きっかけがある。

まとめると、「苦しみの知覚」と、「それを改善することの予期」といえるのではないか。

 

僕らは、苦しみ(苦痛ばかりだけでなく、渇望感や憧れなども含む)を感じ、

それを直視するからこそ、現実的な実践に手を伸ばすことができる。

何となくごまかしたり、苦しみを見ないようにしながら生きている限り、生を直視してみようという気にはなれないだろう。

(だからといってこのような人に、「生を直視せよ!」と命ずることが適切かどうかは、僕にはよくわからない。)

 

さて、苦しみを直視すれば、当然それを経過し、改善したいとの欲が生じる。

その欲は、抑えたり受け流したりするべきものではなく、まさに僕らを実践に向かわせてくれる原動力だ。

この実践を始めようとする一時において、二元性が生じる。

「まだしていない私」と、「これからする私」あるいは「もうしているあの人」との間で。

この二元性を調停するのが、先生(アチャーリア)の役割だ。

 

私が、何か恩恵を求めて何かをする時、その恩恵と現在の私は、どうしても離れたところにいる。

例えば、

①ほうびをもらえるから(恩恵)、掃除をする(実践)

②きれいになると気持ちよいから(恩恵)、掃除をする(実践)

③ほうきを持って掃除すること自体が楽しいから(恩恵)、掃除をする(実践)

 

このように、恩恵と実践の関係を記述すると、恩恵はどうしても、「現在(実践する前)の私」からは離れたところにあるようにみえる。

③くらいになると、恩恵は極めて近くにあるように見えるが、それでも「実践前の私」と離れたところにあることには変わりない。

 

実践前の私にとって、恩恵は、ここにないし、得られるかどうかも分からない、不安をはらんだ代物として映る。

そこにおいて、「親密さ」によって恩恵を分からせてくれるのが、先生(アチャーリア)だ。

クリシュナマチャリア訳では、アチャーリアとは「自分の困難を乗り越えた人」。

その人と、きわめて個人的に、愛、信頼、友情によって結ばれる。

この親密さにおいてアチャーリアは、「この実践は私にとってよかったよ。あなたもどう?」という勧め方ができる。

その時、未実践の人にとっても、恩恵は目に見える、生き生きとしたものとして浮かび上がる

親密さにおける伝承とは、言語での記述を超えた、恩恵の溶け込ませである。

アチャーリアは、生徒の健康状態、年齢、文化的背景などを考慮し、

今ここから始めることができるもの(サーダナ)を提案する。

 

この親密さによって、

生徒は「問題解決のための二元的な努力」ではなく

「生全体を楽しむもの」として実践を始めることができる。

 

まとめると、

ヨガは、苦しみの解決ではないが、

ヨガを始める際に、苦しみの知覚と改善への欲を必要とする

その際に不可避的に生じてしまう二元性を調停するのが、

「親密さ」という機能(=アチャーリア)である。

 

 

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フィジーで出会った中国系ツバル人の19歳、Sioniと。

 

追記

ヨガ実践者の生きた証を見るという意味で、先月のフィジー滞在は僕にとって大きな出来事だった。「ハートオブヨガ」の提唱者マーク先生だけでなく、各国から集まった「本物の実践者」たちと一緒に生活できたからだ。

とはいえ、個人的に「僕に適した先生」という意味では、むしろ日本人で、日本の文化や生活を理解している先生の方がよいのかもしれない、とも思った。

そういう意味で、小野洋輔先生に出会えたことは、僕にとって大きな財産だ。

僕自身も、できるだけ全人的に思索しつつも、僕と似た境遇にある人の力になりたいと思う。

 

(9月のレッスン日程はこちら