的場悠人の体和 Tai-wa 日記

理論と実践を行き来するヨガ研究者。ここではヨガ以外のことも。大学時代から継続のブログ。

過去について語るということ

以下の文章を読んだ時、ちょっと救われた気がした。

夢を語ればその動機を問われ、信念を論ずればその根拠を訊ねられる。病があれば病因を探りはじめ、事故があれば責任の所在が追及される。とかくに人の世は、結果と原因の究明に忙しい。 

しかし世界は、原因と結果の連なりに回収できるほど単純にはできていない。いかにもはっきりとした原因と結果の連鎖も、それは辿っていくうちに、複雑に絡みあう世界のネットワークの中に消散してしまい「起源への遡行」は未遂に終わる。そうしてあらためて世界が、互いに支え合う無数のものたちが縁起する、大きな網だったのだと気付く。(森田正男 http://honz.jp/23020

そう、僕らは「結果と原因の究明に忙しい」世を生きている。

 

就活などで「自己分析」を経験した人の中でも、こんな疑問を持った人はいないだろうか。

何故自分のやりたいことに対して、「何故」と問われなければならないのか?

 

「原点」、「原体験」、「きっかけ」などを探して、自分史を辿ってみたりする。

その作業を経て、何となく原点らしきものを掘り当ててみたりするが、そんな説明で自分を語り切れているとはとても思えない。

どこか、偽りの自分を差し出しているような気分になる。

 

とは言え、休学中の僕は、「個人史」を振り返るという作業をかなり入念にやった。

これからも、折りに触れて行うだろう。

 

今年の5月、自分史振り返り真っ最中だった僕の、こんな文章が残っていた。

そこでどんなことが掘り出せたかはここに記せないが、どんな心境でこの作業を行ったかは、感じられる文章になっている。

ちょっと長いが、ここに引用してみたい。

 

 自分の過去について語るということは、今まであまり乗り気にならなかった。自分が今行っていることの理由を、過去のどこかの地点に求めるのがイヤだったのだ。ある経験を「こういう経験で、今の自分にこういう意味を与えた」などと特定の言葉に捨象させてしまうのもイヤだし、今の自分を「あの経験があったから今の自分があるのだ」などと結論付けるのもスッキリしすぎてイヤだった。

 しかしながら、経験を語り直すという作業をしないと、経験(の記憶)はむしろ固定化された意味のまま残り続けることになってしまう。記憶は必ず何らかの意味を持たされ、保存されている。だからこそ、語り直さなければならない。語らないまま放っておくのではなく、(記憶されている以上、すでに何らかの仕方で語られてしまっているのだから、)語り直して、そこに流動的な意味をもたらす必要がある。その作業があってこそ、記憶が自分の中で固定されず、どんな意味にも回収し切れないものとして響き続けることができる。記憶は、語られないことによってではなく、語られ直すことによって生を吹き返すのだ。(中略)

 生きているうちに、改めて過去を検討する必要が生じてきた場合のみ、過去について固定的に行ってしまっている意味付けをやり直す必要が出てきた場合のみ、過去に取り組めばよいのだと思う。そしてその取り組みは、今問題になっている以上、結局今の生に取り組むことなのだ。たまたま僕にとっては、今がそのタイミングなのかもしれない。

 

 原因と結果によって語る思考に慣れてしまうと、世界をずいぶん単純なものとして取り扱ってしまうだろう。

「よい結果」が得られたときに、特定の何か(「自分のあの行動」など)が原因になっているという、思い上がりも招きかねない。

だからこそ、特定の説明方法で自分の過去を固定してしまわないよう、時に語り直すことは必要なのかもしれない。ただし、語り直すということの目的は、「(今度こそ)真の説明」を見つけ出すことではなく、「どんな意味にも置き換えられない不定性」としての過去を再認識することに他ならない。

 

振り返る際の自分の状態によっても、過去にどんな意味づけがなされるかが変わるだろう。その時の気分によって、他者からの声かけに対する反応が異なってしまうように。

そういう意味では、「過去の自分を振り返る」という作業は、過去の自分との関係において現れてくる「今の自分」について知る作業でもある

 

原因と結果の連鎖について、例によってヨガの観点から語りたくなったが、長くなりそうだし、専門用語を多発してしまいそうなので、また別の記事で(書けました)。

 

 

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いまや懐かしい、フィジーでの食事