的場悠人の体和 Tai-wa 日記

理論と実践を行き来するヨガ研究者。ここではヨガ以外のことも。大学時代から継続のブログ。

モノと私が友達であること

友達になれる条件 

人間は、道具を使う動物だ。故に、モノと共に動く、ということをしばしば行います。それは日常生活のみならず、スポーツや芸術活動にも多くみられる。

 

 そういった時、快適に動くためには、そのモノに馴染んでいる必要がある。モノに馴染むことを、ここでは「友達になる」と表現してみることにする。

たとえば、箸を持って食事する、という感覚に近い。利き手で箸を持って食事をするときは、特に意識せずとも私と箸が「一体となって」動く、という感覚があるはず。これが、私と箸が「友達である」状態。

一方で苦手な手で箸を持って食事をしようと、「私が」「箸を」動かすという主客関係になり、一体感が消えてしまう。これが、「友達になり切れていない」状態。

 

甲野陽紀先生の下で、「木刀」との関係を通して学んだこと。

 

 

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 友達になる条件として必要な条件と言えそうなのが、

  • 「私」が自立していること
  • 「モノ」の部分ではなく全体をとらえておくこと
  • 私からの一方的な関係でなく、モノと私の相互作用であること

 

 まず、私が自立していること。木刀を構える際、木刀のような長くて重いモノを持ち慣れていない人だと、持つことに精一杯になり、「自分が立っていること」がおろそかになりがち。

そこでまず、自身が安定して地面に立っている、という感触を大事にしてみる。この際、地面にぺったりと癒着してしまうのではなく、いつでも動ける準備、緊張感を伴った身体になっているとよりよいようだ。

 

全体をとらえる

 次に、「モノ」の部分ではなく全体をとらえておくこと。木刀を持ち慣れていない人が木刀を持つと、あまり長いモノを持ち慣れていないせいか、実際の長さを把握し切れていないことがしばしばある。そのため、天井や床に木刀の先を擦ってしまうことも起こる。

そこで、木刀の手元から先端まで、全体をとらえて持ち、立ってみると、それだけで身体に安定が生まれる。どうやら、「私」が自立することと全体をとらえることは、一方が成り立てばもう一方もおのずと成り立ってくるものらしい。

相互の関係

 最後に、「私からの一方的な関係でなく、モノと私の相互作用であること」。木刀をずっと持ち続けて、それと一緒にある程度の時間動いていると、だんだんと「私が」木刀を動かすという主客関係に傾きがちになる。その関係は、ひいては木刀と「私」の関係性が切れて「私が(木刀とは個別に)動く」という独りよがりな動きになってしまう。

そんな時に、木刀をふと握りなおしてみる。この時立ち現れてくる動きは、「私が木刀を握る」という能動的な動きであると同時に、「木刀が私の手に飛び込んできて私の手を変化させる」という受動的な動きでもある。

その能動性と受動性が混じり合った感覚を保ったまま動いてみると、「私が木刀を動かしていると同時に、私が木刀に動かされている」という奇妙な感覚。。

 

以上のように、モノと「私」が友達であるための条件を考えていると、なんだか人間関係にも活かせそうな言葉が並んだ。生身の人間と友達になるためにも、「自身が自立していること」、「相手の部分ではなく全体をとらえること」、そして「一方的な関係でなく、相互関係であること」は大切な要素。

 

 だからこそ、「モノ」と友達になれる能力は侮れない。例えば、思い通りにいかなくて道具に怒りをぶつけるスポーツ選手などは、どうなんだろうね・・

アーサナとはカラダを使った旅である

柔らかい方が楽しめる?

 ヨガといえば、いろいろなポーズをとるものというイメージを持った方が多いでしょう。ヨガのポーズのことをアーサナと言います。

 

 アーサナには、インドの伝統的なものだけで840万種類もあると言われています。その人の骨格や柔軟性、その時の体調などによってアーサナは異なってくるので、実際には無限にあると言ってよいでしょう。

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 さまざまなポーズをとることは、さまざまな場所を旅するのに似ています。初めて訪れる場所で見たことのない景色に出会うように、新しいポーズをとると、今まで体験したことのない自分に出会います

 例えば、逆立ちをしたことがない人は、逆立ちしたときに見える景色、緊張感、その時の呼吸などを味わったことがありません。自分で逆立ちしてみないと見えない景色があるのです。さまざまなポーズを覚えていくとは、新しい場所に訪れ、今まで見たことのない景色を見ることを楽しみにしている旅行家に近いものがあります。

 

 では、やはりさまざまなポーズをとれるということは大切なのでしょうか。体が柔らかくてたくさんのポーズをとれる人の方が、体が硬くてポーズが限られている人よりヨガを楽しめるのでしょうか。

 

 答えはイエスでありノーです。

 柔軟性よりも大切なこと

 確かに、体が柔軟でとれるポーズが多彩であるほど、味わえる身体感覚も多彩になります。飛行機や船で世界中を旅する旅行家と、近所を散歩するだけの人では、行動範囲も、味わえる景色の多彩さも異なるのと同じです。近所を散歩しているだけでは、世界の絶景と言われるスポットを何カ所も訪れられることはありません。ですから、多彩な感覚を味わうために、自分ができるポーズの範囲を広げていくことは、必要な努力です。旅行家が、新しい景色を求めて今まで訪れたことのない場所を目指すように。

 

 しかし、世界中を旅している人が、近所を散歩するだけの人よりも豊かな人生を歩んでいるのかというと、必ずしもそうとは言えません。それと同じように、多彩なポーズをとれる人が、そうでない人に比べてヨガを深く味わっているかというと、必ずしもそうではありません。

 

 むしろ、近所を散歩するだけで毎日新鮮な気づきがある人のように、シンプルな限られたポーズだけで、ヨガを深く味わっている人もいます。事実、同じポーズであっても、その時の体調、空腹度、時間帯、季節、天候などによって、毎回異なる感覚が得られるはずなのです。ちょうど、毎日散歩する近所の風景が少しずつ異なるように。

 ですから、たとえ限られたポーズしかできなくても、そのポーズの中で味わえる深みを探究できれば、十分にヨガを楽しむことができます。

 

 反対に、多彩なポーズをとることができても、その状態で味わえる感覚を十分に味わっていない人もいます。それは、ヨガを楽しむためには実にもったいないことです。せっかく世界の絶景と言われる場所に訪れても、その景色を見ずに何か他のことをしている旅行家のようなものです。体の柔軟性が増して、多彩なポーズがとれるようになったならば、そのポーズで味わえる感覚をじっくり味わってこそ、ヨガのアーサナです。外形の多彩さだけを求めてポーズを練習するのであれば、それはヨガではなく他の何かです。

 

 というわけで、ヨガのアーサナにおいては、2種類の努力が必要になりそうです。

1、体の柔軟性を高めて、とれるポーズの多様性を高めていくこと。

2、自分ができるポーズの中で、味わえるものをじっくり味わうこと。

 

 特に、2は必須です。その過程で、1もおのずとついてくるのが、理想のアーサナなのではないかな、というのが、今日の僕の結論です。

 

インドでヨガの先生が僕たちに望んだこと。

ヨギとしての人生に準備日などない

 修了テスト前日のこと。テストは実技、口頭、筆記がありそのうち筆記が特にハードだったので、みんながテストのための勉強に精一杯になっていました。そんなとき、先生がポツリとつぶやきました。

 

みんながテストでよい回答をしてくれたら、少しだけ嬉しい。

みんながヨギとして生きてくれたら、とても嬉しい。

 

 

 「ヨギ(ヨガを実践する者)として生きる」とは、マットの上だけでなく、生きること全般において、今を見つめ、一瞬一瞬を大切に生きることと言えましょう。

 

 このとき、僕たちの多くは、「明日のテスト」のことで頭がいっぱいになり、中には先生の話を聞かずにノートを眺めたりしている人もいました。

 

 ヨガについて学ぼうとするその行為自体が、ヨギであることから遠ざかる行為になってしまうという皮肉な状況になっていたのです。

 ただ、ヨギであれ。

 思い返すと、プログラム初日のオープニングセレモニーでも、こんなことを言っている先生がいました。

Don’t be a yoga teacher, just be a yogi.

 

 (このプログラムにおいて)ヨガティーチャーになるには、200時間のトレーニングを修了し、テストをパスしなければなりません。逆に、修了証さえ手にできれば、いつでも「私はヨガティーチャーだ」ということができます。

 

一方、ヨギであるとは、一瞬一瞬を問われることです。あなたがもし今までまったくヨガをしたことがなかったとしても、今この瞬間からヨガに生きることを決心したならば、あなたはヨギです。

 

その決心自体に、時間は必要ないし、準備も必要ありません。

 

 ヨギの人生に、準備日はありません。次の日のテストのためにこの瞬間をおろそかにしてしまうのであれば、それはヨギではありません。

 

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 この修了証さえも、僕がヨギであるという証にはならないのです。

 

 ヨガティーチャーであるより、ヨギであれ、という言葉は常に心に刻んでおきたいと思います。

 

インドでの食事。沈黙と反省

ベジタリアン、低刺激の食事

インドでの1か月は、完全ベジタリアンでした。

1日3食、アーシュラム(ヨガ道場)で摂ることができます。日本にいるときの僕はベジタリアンではありませんが、そんなに肉を頻繁に食べるわけではないので、1か月のベジタリアン生活は何の問題もありませんでした。

 

メニューはこんな感じ。まずいっていう人もいたけど、僕は好きでした。

 

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カレーは毎日のように出ますが、辛くはありません。日本の中辛よりも辛くないくらい。インドのカレーはものすごく辛いイメージがあると思いますが、アーシュラム(ヨガ道場)での食事に辛い料理がでることはありません。ヨガをする人に、スパイスの過剰な刺激はよくないからだそうです。

 

Just ask yourself

 本場インドのヨギはどんな食事をしているのか気になったので、瞑想の授業を担当していた先生に聞いてみました。

 

 そうしたら、

 

その質問に、私は答えられない。何をどれだけ食べるべきか、ただ自分に問いかけなさい。

 

 

との答えでした。

 

 先生がどんな食事をしているかくらい教えてくれてもいいじゃない、と思ったのですが、この先生はこう続けました。

 

好奇心は悪ではないが、好奇心だけで得た知識、所有するだけの知識というのは、役に立つどころか邪魔になることも多い。私がどれだけ食べているかをあなたに教えても、あなたの人生には何の役にも立たない。それどころか、どれだけ食事を摂りたいのかを「本当の自分」に問いかける際に、妨げになるだけだ。

 

 

 

 普段僕たちは、知識が増えることはよいことだと思っています。しかし実際は、外的な知識が増えるほど、自分の内なる声を聞くのは難しくなるのです。

 

 そのことを端的に示した言葉が、アーシュラムの食堂に貼ってありました。

 沈黙を守ること

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言葉は心を駆り立てるが、沈黙の中では私たちは神の存在を聴く

 

 

 アーシュラムでの食事の最中は、沈黙を守ることがルールでした。沈黙すると、嫌でも自分と向き合わざるを得なくなります。沈黙を保ち、自分の内なる声を聞こうと努めていると、それが「神の声」を聴くことになるのだと言います。

 

   とはいえ、食事の際の沈黙は、厳密に守られていたわけではありませんでした。別に監督がいるわけではないので、話していても注意する人はいません。話している人を注意することも、沈黙を破ることになってしまいますからね。

 僕も、自分から喋ることはありませんでしたが、話しかけられたときは応えてしまっていました。しかし、改めてこの沈黙の意義を考えると、厳密に守るべきだったな、と少し後悔しています。

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沈黙は偉大な力の源である。

 

「ナマステ」だけじゃない!インドの聖地で交わされる挨拶とは

「あなた」の中にいる神様へのあいさつ

 インドでの挨拶と言えば、ご存知「ナマステ」でしょう。僕が訪れたリシケシュでも、この「ナマステ」はよく使われていました。

                   

 しかし、リシケシュのような聖地では同じくらいよく使われる挨拶があります。

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それが、「ハリオーム」という挨拶。

 

「ハリ」は神、神性、「オーム」は、宇宙にあるすべての音の基であり、どこにでも、いかなる時にも存在する音を意味します。

 

 つまり、「ハリオーム」という挨拶を交わすということは、

「あなたの中には神がいる」

「私はあなたの中に存在する神性に挨拶する」

 

ということを意味しているのだと言います。

 

 

 この意味を知ってから、僕はこの挨拶が大好きになりました。それからは、例えば衣服店に買い物に行っても、そこの店員さんに対して「ハリオーム」と挨拶するようになりました。

相手の中に「神」を見出す

 そうすると、自然と相手の「神性」を意識して人に向き合うことになります。その人の奥にある、神聖さを見出すということ。この気持ちがあるだけで随分違います。

 

 たとえぼったくりみたいな値段を言われても、そのことにいちいち反応して怒るということがなくなります。エゴや置かれた環境などによってやむを得なくそんな態度をとっているけど、実はこの人の中にも神聖さが潜んでいるんだな、と。ならば、この人の中の神聖さと自分は向き合うことにしよう、と。

 

 挨拶ひとつで、こんな気持ちにさせてくれる「ハリオーム」でした。

インドで神様のように称えられているもの

 リシケシュで、神様のように崇められているもの。それは、街を縦断して流れるガンジス河です。人々は、ガンジス河を

 

Mother Ganga Ji (母なるガンジス様)

 

と呼びます。

 

 

 アーサナクラスで最後に行うシャヴァーサナ(屍のポーズ、仰向けになって休むポーズ)をするときは、ガンジス河の方向に足を向けて寝てはいけないとされます。また、アーサナクラスの前に行う礼拝も、こんな感じ。

 

Humbly bow down to the mat, and do prayer to the Mother Earth, Mother Ganga Ji, and the God of practice of yoga asana.

(誠実にマットへ頭を下げて、母なる大地、ガンジス様、そしてヨガアーサナの神様へ祈りましょう。)

 

 

 そんなガンジス河の偉大さを、思い知らされた体験があります。それは、ガンジス河脇の砂浜で、瞑想をしたときのこと。

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瞑想の一番の敵は、脚が痛くなることです。この日も、20分ほど坐っていると徐々に脚がしびれて痛くなってきました。そんなとき、先生からこんなことを言われました。

 

「体の痛みも、ネガティブな考えも、すべてガンジス河に流してしまえ」

 

 

 このアドバイスをもらった後、目を開き、改めてガンジス河の壮大な流れを見てみました。そうすると、

 

「この壮大な流れに比べて、自分の体にある痛みや、自分の心にある悩みなど、なんとちっぽけなものか」

 

という気持ちになったのです。

 

 そのまま、痛みも忘れて、45分くらい座り続けていられました。

 

 この体験のあと、室内で瞑想するときも、不思議と長時間坐るのが苦ではなくなりました。仮に少し痛みが出てきても、大自然の壮大なエネルギーの中に身を委ねてみると、痛みなどものすごくちっぽけなものに思えてきます。

 

 日本に帰ってきた今、そばにガンジス河がなくても、その気持ちを忘れずに坐りたいと思います。

カルマについて、インドで考えてみたこと

何兆分の1でしかない、という寛大さ 

インド人の思想に深く浸透している考えのひとつに、「カルマ(業)」というものがあります。日本にも、「自業自得」という言葉があり、英語にも”Reap what you sow”(自分で蒔いた種は自分で刈り取る)という表現がありますが、インド人にとっては、より根深く染みついた考えであるようです。

 

そのことを実感したのは、アーサナのクラスでハンドスタンド(逆立ち)の練習をしていたときのこと。ある生徒が、硬いブロックをすぐそばに置いたまま逆立ちをしているのを見て、先生が一言。

 

「頭を打たないように、ブロックは遠ざけなさい」

 

ここまでは至って普通ですが、そのあとに冗談っぽく小声でつぶやいた言葉が、予想以上に深いものでした。

 

「まあ、頭ぶつけるかどうかは、彼のカルマ次第だから、私が何か言ったところで運命は変わらないんだけどね」

 

 つまり、彼が今まで(前世も含めて)積んできたカルマ(業)が彼に訪れる現象を決定するということ。

 

この考え方は、非常に無関心で現実を軽視した考えにも映る一方、「何兆回もの生まれ変わりをする中で、目先のことでクヨクヨしてもしょうがない」という非常に寛大で楽天的な思想に裏付けられたものでもあります。

 

もちろん、インド人みんながこういう考え方というわけでもなく、輪廻や現実世界についての論はインド哲学の中でも主張が分かれるところではあります。

 

しかし、少なくとも、一笑に付すような考えでないことは明らかです。西洋的な考えに染まった僕たちの多くは、目の前の現実で起きていることがすべてであると考え、今生きている命を保存することに躍起になっています。そんな中で、「今生きているのは何兆分の一でしかない」という思想は、僕の頭の中に新鮮な風を吹かせてくれました。

 

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 ある先生は、僕がこうやってインドに来られたのは、よいカルマのおかげだとも言ってくれました。

運命はカルマによって決められている?

ところで、僕の武術探究のきっかけである甲野善紀氏が、21歳の時に確信したという運命論はこちら。

「運命とは、完璧に決まっていて、同時に自由である」

 

つまり、「頭をぶつけるかは今まで積んできたカルマ次第だけど、ぶつけないようにブロックを遠ざけるという行動をとる自由もある」という考えです。

今のところ、僕がしっくりくるのはこの甲野氏の考え方です。でも、まだまだ考える余地がありそうです。

 

いずれにせよ、インドで人生観を揺さぶられた、という話でした。