あるインド人ヨギ_
インドでのヨガティーチャートレーニングにて、最も衝撃的だった出来事を紹介します。
それは、空き時間に、インド人の友達(30歳くらい)と二人で自主練習をしていた時のことでした。
普通にヨガのポーズを練習していた彼が、いきなりこんなことをしゃべり始めたのです。
このポーズは僕がやっているんじゃない。神が、シヴァ神が、僕にこのポーズをとらせているんだ。
彼はポーズをやめ、天を見上げて、さらにしゃべりつづけました。
世界中が平和になってほしい。僕はみんなを愛している。僕は富める人を愛している。貧しい人も愛している。朝ごはんに食べるフルーツも、道に生えている木々も、道端で歩いている牛も、僕はすべてを愛している。
この言葉は、僕がしゃべっているんじゃない。シヴァ神が、僕の身体を媒体にしてしゃべっているんだ。
僕は、このためにヨガをしている。神様とつながるためにヨガをしているんだ。
このような調子で5分くらいしゃべり続けた後、彼はふといつもの調子に戻って、「ユウト、今の僕の言葉はどうだった?」と聞いてきました。
僕は圧倒され、ちょっと怖い気もして、うまく言葉を返せませんでした。
彼は、それほど身体が柔軟なわけではありませんし、ポーズがずば抜けて美しいわけでもありませんでした。しかし考えてみると、私が「柔らかくなること」、「ポーズができるようになること」などに執着してしまうと、それは苦しみへと転化します。
彼は、そういった執着が皆無でした。なぜなら、「ポーズをとっているのは自分ではない」からです。
もうちょっというと、ポーズをとっているのは、この肉体に限定されたものとしての「私」ではない、というイメージですかね。
いずれにせよ、示唆に富んだヨガへの態度を目の当たりにした、貴重な体験でした。