姉について
最近、姉(22)がブログを始めた。以前からco-mediaという学生サイトでライターをやっていたみたいだが、個人的なことも書きたくて独立したらしい。
始めたばっかだって言うのに、猛烈な勢いで更新してる。もう記事数抜かれそう。
そこで、僕のことも書いてくれたので、そのお返しに、姉のことも紹介します。
2歳上の姉は、だいぶ僕と性格が違う。
人と違うことをするのが好きで、しかも同時にいくつもこなす。
僕がサッカー一筋で生きていた間、一輪車、マリンバ(木琴)、ダンス、ジャグリング、バレーボールなんかをやっていて、しかもなんだかんだ勉強もできる。
(中学の成績は互角だったが、姉は県内でトップの高校に行き、僕は10番目くらいのところに行った。)
高校のとき、ひとつ下のラグビー部の人たちの中で、僕の姉ファンクラブがあったとかなかったとか。姉がその人たちを束ねて、体育祭でダンスを踊らせた、とか。
けっこうぶっ飛んでますよね。。
で、高校卒業後、なんと日本の大学を経ずに、イギリスの大学に行ってしまった。
今は最終学年で、来年から日本で就職するらしい。
イギリスでの生活は結構大変らしい。未だに、語学面での苦労は絶えない、と。
イケイケの女子高生だったのに、イギリスではバスの中での会話が怖い、なんて、こんな気持ちを抱くようになったんだね。友達が少ない人の気持ちも分かるようになってよかったんじゃない?とも思うけど。
わざわざ日本を飛び出してイギリスの大学に行ったのは、父の言葉があったかららしい。けっこういい話なので、気になる方はぜひ。今聞いても、「世界で一番いい大学を選んだ!」って自信持って公言しているので、よい選択をしたんだろうな、と思う。(その点では、僕の選んだ大学も負けてない)
こうやってみると、「やりたい!」への感性が高い人なんだろうな、と思う。だからこそ、そうと決めたら行動は早いし、コロコロ気が変わる。(彼氏もコロコロ変わる)
(真夏の北海道、トマトを丸かじりするふたり。)
以上、弟による姉分析でした。
では、姉のイギリス生活、ゆとりライフ、就活話など、興味ある方はこちら。
「毎日が新鮮!」じゃなくてもいい
変えようとしなくたって
「一度として、同じヨガはありません」
毎日ヨガのプラクティスをするように勧めるとき、よく使われる文言がこれだ。
確かにそうなんだけど、この側面ばかり強調すると、ちょっとおかしな方向に傾くことがある。
それは、「違い」を探してしまうこと。
ヨガに限らず、生きていることは、それ自体で一回性のものだ。
別に、”make difference”しなくても、常に”be different”なのだ。(なんでこんな言い方になったんだろう。)
だから、今日が昨日と違うからといって、別に特別なわけじゃない。あえて言うと、「毎日が特別!」なんだけどね。
飽き性でも続けるには。
ちょっと挑戦的に言うと、毎日のプラクティスで「違い」を求めようとするのは、傲慢かもしれない、ということだ。
「違い」を強調しすぎると、「今日はこんな気づきがあった!」、「今日は昨日とここが違う!」というようなことを、無意識のうちに求めてしまう。
人間は常に変わってもいるが、しかし恒常性の方も強力にはたらいているので、そんなに大した変化が毎日のようにあるわけじゃない。
変化を求めすぎることは、ともすると、勝手に作り出した「新しいストーリー」の中に自分をはめ込んでいくことにもなりかねない。「今日は昨日より呼吸が深い!」みたいな。
飽き性の僕は、これをやりがちなんですよね。
でも、たとえ感じられるような変化がなくて、淡々と毎日が続くとしても、地道に続けていくことの方がより重要なんじゃないか。
毎日のように、「今日はこんな発見があった!」とキラキラしていられるのも素敵なことだけどね。
なんなら、あえて全く同じようにやってみればいい。どうやっても、そうはならないから。
変化を実感できたとしても、感じられないとしても、僕らが生きている以上、そこに変化は起きている。
別に毎日新鮮な気持ちで行えないとしても、淡々と続ければいいんじゃないか。
こんなことを思い、今日もマットに立つ。
聖なる魂と、ふつうの「自分」 JIDAIさんの演技を観て
「魂の時間」
マイムアーティスト、JIDAIさんの舞台を観に行ってきた。
演技後のお話では、「オーガニックマイム」というJIDAIさん独自の世界観が語られた。
一種の瞑想状態に入っているという演技の最中、エゴの感情ではなく、「普遍的な感情」、「宇宙に遍在する感情」が役者の身体を通して表出する、とJIDAIさんは言う。
その時、観ている僕たちも、一体となってその「普遍感情」を感じ、座って観ている観客でありながら、猟師になったり、動物になったり、いろいろな物に変身したりできる不思議な時間。
JIDAIさんはこの時間を、「魂の時間」と表現した。
この時、僕らは、大袈裟に言うと、「人間であること」をやめる。
日常を生きている、様々な「物語」から解放され、宇宙に還っていくような、そんな感じがする。
ところで、この「魂の時間」と、普通に日常を生きる「私」の時間。この両者をつなげないか。
「魂の時間」には、言葉がない。したがって、物語がない。
ふだん、頭で考えた「物語」を生きている僕たちに、この空白は理解できない。
JIDAIさんのマイムは、そこにわずかながら切り口を入れる。
「理解」が追い付かない魂の時間に、マイムの「物語性」というべきものが挿入されているおかげで、僕たちは、ふと「普段の私」に戻る。宇宙と一体となった「魂」から、「人間」に戻ったり、「日本人」に戻ったり、「悩んでいる私」に戻ったりする。
このように、聖なる時間と普通の時間を行き来することで、僕たちの日常に揺さぶりをかけられるのではないか。「マイムのアイデアを日常から得られることはあるんですか」という質問に、JIDAIさんはこう答えていた。
むしろ、マイムでやったことが、日常に気づきを与えてくれたりするんです。
今回の文章、読んでも訳分からなかったら、JIDAIさんの演技を観に行ってみてください。このリンクからも、動画が見られます。
楽しそうに太鼓を叩く人は、太鼓からも愛されている
高校生のときに読んでいた本をふと読み返してみた。
「雀鬼」桜井章一氏の『体を整える』という本。当時の僕が付箋を貼っていたのは、こんな言葉。
卓球の平野早矢香選手が、「練習量には自信があるのに、なんでもっとうまくならないんだろう」と悩んでいるとき、桜井氏が彼女にかけた言葉。
それじゃストーカーだよ。卓球から愛してもらうようにならないと…
高校のサッカー部で日々練習に励んでいた僕にとって、この言葉はかなり刺さったのを覚えている。
当時の僕のノートには、こんなメモがあった。
監督より、チームメイトより、サッカーに愛されたい。サッカーが自分を好きになってくれるような人でありたい。
何気ない所作からわかること
僕たちが、一方的に、何かを好きになることは自由だ。
でも、向こうが好きになってくれるとは限らない。振り向いてもらうためには、独りよがりではいけない。
「私はこんなに頑張っているのに、なんで振り向いてくれないの!」という態度では、なかなか好きになってもらえないのだろう。
ところで、幸せそうに自分の仕事や趣味に取り組んでいる人には、どこか共通点がある気がする。
和太鼓奏者が、一本一本のバチを自分の息子のようにかわいがる。ヨガの先生が、ヨガマットをやさしく広げる。料理人が、食材と対話するように包丁を入れていく。
自分のやっていることと「両想い」になる。もちろん、簡単にはその方法を示せないけど、このような何気ない所作、モノの扱い方に、ひとつの切り口があるような気がする。
そういえば、イチロー選手も、こんなことを言っていたという。
道具を大事にする気持ちは野球がうまくなりたい気持ちに通じる。
何かに真剣に取り組むなら、好きになりたいし、両想いになりたいよね。
「無条件の愛」なんてことを「目指そうと」すると、とっても苦しくなる、という話
無条件の愛
ヨガで言われる、ひとつの目指すべき境地のようなもの。
「○○だからよい、○○だからダメ」などと判断することなく、常にそれらのあるがままを受け容れ、愛する。
こんな聖人みたいな境地、あり得るのか?と思うんだけど、最近の僕にとって切実な問題だった。
僕たちは、生まれたときから、判断をしまくっている。生後3か月くらいで「快・不快」という区別が生まれてから、「喜び」、「悲しみ」、「怒り」など、感情のレベルがどんどん「分化」していくという。
では、これらの「判断」は、なくしていくべきものなのか。
究極的にはそうなんだろう。
でも、それは、努力して為せるものじゃない。
むしろ、それを目指そうとするほど、つらくなっていく。
「理想状態」など、どこにもない!
最近長野を訪ねてヨガの個人レッスンを受けた。その時に柏原ゆうた先生が言っていたこと。
二元論的にヨガをすると、僕たちは苦しくなる。
「今の自分」と「理想状態」という二元論。つまり、何か目指すべき次元を今現在の自分とは別の次元に設定して、それを目指そうとすると、できない自分とのギャップに苦しむ、ということだ。
だから、「無条件の愛」を理想の境地として自分に課したりすると、現実として感情的に「判断」をしまくる自分に気づき、とても苦しくなる。
何かイヤなことがあると、「イヤだな」と思うと同時に、「あ、またイヤだなって判断しちゃってる、ダメだなぁ」と、二重に苦しむことになる。この二次的な苦しみも、自分を自分で裁いていることに他ならないんだけどね。
自然に沸き起こる感情として、「イヤだな」と思うことは、誰しもある。(悟った人なら、ないのかな。)「無条件の愛」を装って、平静を気取ったりすると、明らかに自分の中で齟齬が起きてくる。それは、自分への暴力だ。
「愛」=やさしさではない!
そこで、ある時、イヤなことはイヤと言ってみた。
こんな当たり前のことだけど、忘れかけていたらしい。
たぶん、「愛」という言葉をはき違えていたんだよね。愛というと、「やさしく接する」みたいなイメージがつきまとうけど、そうとも限らない。
「愛」というのは無条件で、しかも厳しいのです。
いくら聖人みたいな境地を志したとしても、この瞬間、今の自分でしか生きられない。そして、今の自分には、「イヤ」だと感じることもある。
その逃れられない現実を直視する、誠実さ。もし対人関係でイヤな想いをしたら、その感情を包み隠さず相手に伝えることが、自分と、その人に「愛」を以て接するためのべストな選択なのかもしれない。
そうすることで、ラクになるし、お互い気持ちよく生きていけそうだ。
「無条件の愛」は、原理的に、能動的な努力によっては為し得ない。意外と、「あるがままの自分」を大切にすることでしかないのかもしれない。
Be happy!
普段は人に贈りたいような言葉だけど、今回は自分に言い聞かせてみようと思う。
2017年、新年の目標に代えて。
新年を迎えて。
新年。新成人。
節目と呼べるこの年末年始なのに、個人的にはまったく実感がない。
目標も、特に立てる気にならない。
初日の出は見に行ったけどね。
それでも、新成人を迎えるにあたって、ざっと自分の人生を振り返ってみた。
僕は5歳でサッカー、14歳で古武術、19歳でヨガに出会った。何かひとつにはまると、とことんのめり込む性格なので、僕の人生の幅は、けっこう狭い。
文章を書くことは、小さい頃から好きだったらしい。それがお前の長所だよ、と父がよく言ってくれる。
と、このように自分の人生を分析し、傾向をつかみ、自分の今後について考えてみたりすることがある。でも、最近、そんなあり方に疑問を持ち始めてきた。
すべてはすべてに連関している。僕らの頭の中で組み立てられるロジックを、はるかに超えた複雑さが、現実にはある。それでも、何かが起こると、「原因はなんだろう」って考えたりする。原因らしきものが見つかると、少し安心するし、対処法も考えられるからだ。
でも、自分の小さな頭で考えた安易な因果関係の図式なんて、ことごとく無意味だったりする。そうやって分析した過去から未来を考えても、その通りに行くようなもんじゃない。
そう考えると、あらゆる思考、準備、方法論が無駄な気がして、絶望に似た気分になる。それでも、その一瞬あとには、こう開き直る自分がいる。
それなら、なんでも来いや、と言える強さがあればいいんだな、と。
できるだけ開いていたい
だから、ある特定の方法(to do)に頼ることは、極力やめようと思う。
ある方法を重視するということは、それに対する「執着」に他ならない。その方法に頼らないと生きていけない、という弱さでもある。ある方法を声高に叫ぶことは、それに共感できない者を排除することでもある。
できるだけ開いていたい。何かを言い切ると、必ずそこからこぼれ落ちる例外がある。
それは、強い言い方をすると、排除だ。
それでも、僕なりに見つけたある方法や理論を、人にシェアすることもある。僕と同じような悩みを抱えていた人が、それによって少しでも救われることを願って。
念を押すが、この方向づけは、排除でもある。
万人向けのような顔をして、この方向づけに付いてこられない人をあっさりと排除している。
それを、確信犯的にやっていきたいと思う。
善意に溢れた、謙虚な確信犯として。
実際のところ、僕は自分が体験したことしか語れない。
ヨガティーチャーとして動き始めた去年、このことは大きなジレンマだった。
僕はあなたじゃないから、あなたがどのようにヨガを経験しているか分からないし、僕がある方向づけをして教えたとしても、それがあなたにとってよいかは分からない。
それでも、自分の心やカラダから、湧き上がってきた言葉しか、僕はしゃべれない。
こんな葛藤を抱えながら、あえて今年の抱負らしきものをひとつ。
どこかで読んだ言葉なんだけど、出所は忘れてしまった、こんな言葉。
明るく開いて待つ。
どんな未来が来るか僕には分からないけど、どんなことが来てもいいように、この言葉を胸に刻んでおきたい。
2017年もよい年になりますように。
ヨガの「資格」ってナンだ
今年の夏、僕はヨガインストラクターの資格を取った。というより、インドで1か月ヨガをしたら、結果的にもらえた。
ヨガにおける「資格」って、どんな意味を持つものなのか。
最近思うのは、「資格」ほどヨガからかけ離れたものはないな、っていうこと。存在自体が矛盾に満ちている。
資格って、ある種の「保障」を僕たちに与えてくれる。あなたは、ヨガを教えられる能力がありますよ、っていう保障。
でも、ヨガって、そんな保障が得られるものじゃない。
「これさえやっておけば安心」みたいな保障って、ヨガからかけ離れている。
常に自分の身心と対話し、見つめ直していく。ヨガって、その過程でしかない。
幸か不幸か、ヨガには、訓練法が多彩過ぎるほどある。さまざまなポーズ、呼吸法、浄化法、瞑想…
それは、ある意味で親切だ。お寺に行って、「ただひたすらに坐れ!」と突き放されるような「不親切さ」とは一線を画す。
でも、この親切さは、落とし穴の多さでもある。山を一歩一歩登っていく、その足場が保障されているような錯覚を起こしてしまいそうになるからだ。
本当は、自分の力で道を作り、歩いていくしかないんだよね。「ヨガをする」とは、「ヨガという方法論に自分をはめ込む」のではなく、自分を縛っているものから出ていくことに他ならない。 ヨガをするとは、ヨガという靴を履いて歩くことではなく、靴を脱いで裸足になることでしかない。
逆説的だけど、「ヨガ」の規則に縛られるようになったら、それは最もヨガから遠い、とすら言える。
だから、資格によって能力を保障されることもできない。何か方法論を見つけたからといって、「これで安心!」ってことはない。本質的には、「ヨガを教えること」なんてできないんじゃないかな。
カントは、
「哲学を学ぶことはできない、せいぜい『哲学すること』を学べるだけである」
と言った。
それと同じように、こうも言えるはずだ。
「ヨガを学ぶことはできない。せいぜい『ヨガをすること』を学べるだけである」
僕は、資格のおかげで、形式上「ヨガの先生」という立場に立つことができるようになった。
でも、教えられないんだよね。僕だって、他の先生から「ヨガ」を学ぶことはできない。
強いて言えば、みずからの身心と対話し、その都度真摯にヨガをするその「姿勢」は、学ぶことができる。
ついつい、「これをやっておけば安心!」という方法論を求めてしまう。でも、それは、自由を放棄し、方法論の奴隷になることを自ら選択しているようなもの。ニーチェさんならこう言うだろう。
方法論を捨て、生身で生きよ!
何かに寄りかかりたくなる「弱さ」を捨て、強くなれ!
あえて言うと、僕は裸足になり、自分の足で歩くためにヨガをしている。