体和 Tai-wa 日記

休学中の大学生。ハートオブヨガ@つくば。ヨガ日記、読書記録、身の回りの出来事など

存在肯定について

 

 電車の中に赤ん坊がいると、周りの大人たちが、全くの他人にも関わらず、赤ん坊に笑いかけることがある。赤ん坊たちは、存在しているだけで、絶大なる肯定のまなざしを向けられているようにみえる。

 

 自己が存在していることに対する肯定感。僕自身がそれを育む過程は、主に「できること」を通じてであった。今までできなかったことができるようになった時、たまたま人よりも得意でうまくできることがあった時、僕は自分の存在価値を感じ、嬉しい気持ちになっていた。「できること」とは、結果として目に見えるようなものだけでなく、「自分で決めた目標に向かって努力することができた」などの「頑張り」も含んでいる。いずれにせよ、何かが「できる」ことに依拠して、自己への肯定感を育んでいったわけだ。その意欲は、さまざまなことに挑戦し、また習得していく際の原動力になってくれる。

 

 しかし、自己肯定感が、「できる」ということに依拠している限り、一方で「できなければ自分はダメな人間だ」という反転がつきまとっている。条件付きの肯定は、条件が失われればなくなるのだ。実際、中学に入った時の僕はそうだった。今まで当たり前にできたことができなくなり(例えば短距離走で同級生に負けるようになった)、あるいは自分のできること(例えば真面目に勉強すること)が周囲から価値として認めてもらえなくなり、徐々に自己肯定感を失った。それまでに培った自己肯定感が、「できること」に依拠していたため、その支えを失った瞬間一気に崩れ落ちたのだ。

 

 僕自身が、その後少しずつ自分の尊厳を回復していったのは、武術や禅、ヨガといった身体を使った東洋的実践を通してであった。なぜこれらが機能したかというと、「できない」から「できる」へ、今よりもっと上達しなければ、などの観念から解放されたからだ。そして、自らを注意深く慈しむことによって、元から備えていた力を十全に発揮することの素晴らしさを知ったからだ。「自分には何も不足しておらず、ただあるがままを発揮すればよい」という衝撃の事実を、まさに身体を通して知った。僕の場合ヨガが決定的に作用したのは、先生や教室など特定の人間関係、場所に依存せず、自宅で毎日実践することによって実感を育むことができたからだった。 

 

 これらの実践によって見出す自己肯定感とは、何かができるようになることによる肯定感とは少し違った。心地よく呼吸をし、全身がくつろぐという体験は、(僕にとって)ほとんど努力を必要としなかった。つまり、ほとんど無条件の肯定であった。

 

 しかしながら、この「ほとんど」という副詞を外すことはできない。どんなに努力感のない実践であっても、それが「できている」こと、そしてそれによって得られるやすらぎは紛れもなく「できていること」に依拠しているからだ。事実、僕らがくつろいで呼吸できるということは、当たり前のようで奇跡だ。神秘的な話がしたいわけではなく、戦争や災害、病気などに煩わされることなく、快適な部屋の中で、静かに落ち着いて呼吸ができることなんて、奇跡のように貴重なことですよね、という話。現に、今述べただけでもたくさんの条件に支えられており、決して「無条件の肯定」だと胸を張ることはできない。

 

 「存在」それ自体は、何かができたりできなかったりする「能力」とは無関係に存在しているように見える。だから、能力的に何かができる、できないに関わらず、存在していることそのものに、絶大な肯定を与えてやることができてもいいような気がする。

しかし、残念ながら、僕らはそのような見方をしていない。どんな形の存在肯定も、単純に「ただ在る」ということだけに依拠しているわけではない。

 

 

 

赤ん坊に微笑みかける大人たちは、一体何に微笑みかけているというのか。「世界へようこそ!」という歓迎か。世界に降り立ったばかりの新人に、自分たちの世界を少しでもよく見せようとする見栄か。

あるいは、赤ん坊の「若さ」、「可能性」に微笑んでいるのかもしれない。彼らは現在の能力的にはほぼ何もできない。だが、これから世界の中であらゆることを為す可能性を秘めているという点において、大人たちは自然と肯定を向けたくなるのではないか。仮に赤ん坊のように無垢で、思うままに振る舞うような大人がいたとしても、赤ん坊に向けるようなまなざしを同様に向けることはないだろう。ということはこの場合も、「単に存在していること」のみに向けられた肯定感では決してないのだ。残酷ながら、年齢を重ねるごとにこの微笑みは向けてもらえなくなるし、能力の有無で判断される世界に飛び込んでいかざるをなくなる。

 

 ただし、このような非情の中で、存在肯定を見出していく術もある。希望も込めて、3つ挙げたい。

 ひとつは、自己に対するきめ細やかな気づきだ。生きている限り、「何もできない」ということは原理的にあり得ない。事情は様々あったにせよ、現に今まで生きてこれたということが、あらゆることを成し遂げてきた証拠だし、今もまさに何かをしつつ(できつつ)あるのだ。呼吸や生命活動はその端的な例だが、それができているという有難みを実感するだけでも、大きな幸福感は得られるものである(ただし、今できていることに気づくことができる、というひとつの能力の要請でもある)。

 ふたつめは、愛する人の存在。僕たちは、互いに与えあう愛によって、存在を肯定し合うことができる。理屈を超えて、互いの存在を必要とする人たちの関係。そんな関係を結べる人が数人いるだけで、世界の住み心地は全く異なるだろう。

 最後に、何かを美しいと思うこと。世界の中で、何かに美を見出すことは、自らの美しい心を発見することでもある。そして、世界の中でくつろげる場所の発見でもあるだろう。

 

 何者にも依存せず、ただ在るということによってのみ、肯定を見出すことは、自己に対しても他者や世界に対しても、そうできたものではない。しかし、存在の中に備わった美しさを見出させてくれるこれらの経験が、ひいては存在そのものへの肯定をほのめかしてくれることは、ある気がする。

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