的場悠人の体和 Tai-wa 日記

理論と実践を行き来するヨガ研究者。ここではヨガ以外のことも。大学時代から継続のブログ。

概念とイマココ

Are you enjoying by the pose itself? Or by “doing” the pose?

 

あなたはポーズそのものによって歓びを得ているか?

それとも、ポーズを「すること」によってか?

 

 

ハートオブヨガのティーチャートレーニングにて、ちょっと哲学チックなこんな問いかけ。

通訳さんも、訳すの大変だっただろうな。

 

何気ない一言だったけど、僕の中で引っかかっていた。

このことで何を言おうとしていたのか?

 

ヨガの練習において、ポーズをとる。

 

例えば、チャトランガというポーズがある。

腕立て伏せに似た、多少腕力に負荷がかかるポーズだ。

 

ジェイは繰り返し言った。

 

Even if it is challenging for you, you can try as long as you can enjoy it.

負荷がかかるものでも、それを楽しめる限りチャレンジしていいよ。

 

 

でも、このenjoyが、何によるenjoyなのか。

僕らは、ここを問う必要があるのではないか。

 

その「楽しんでるよ」は・・

 

多少の負荷なら、筋肉にも心地よい。

でも、「頑張ること」がクセとして身についている僕らは、ついつい無理をしがちだ。

チャトランガで、明らかに苦しそうなのに腕の筋肉を頑張らせ続けてしまう人もいる。

 

だが、それすらも「楽しんでるよ!」と言えてしまう人がいるのだ。

 

その「楽しんでいる」は、本当に「チャトランガそのもの」を楽しんでいるのか?

 

例えば、腕に負荷をかけ、「負荷に耐える自分」を楽しんでいたり、「頑張れる自分」を(自他へ)アピールすることを楽しんでいたり、「このポーズによってこんな効果が得られる!」という効果に酔っていたり。

 

つまり、ポーズそれ自体を楽しんでいるのではなく、ポーズを「すること」によっていろいろ付いてくる副産物を楽しんでいる。言い換えれば、「ポーズをとっている」のではなく、むしろポーズに付随する概念を遂行しているに過ぎない。

 

別に、それらが悪いわけじゃない。

不純な動機が混じっていても、楽しめるならそれでいいのだ。

 

ただ、注意しておきたいこともある。

 

ポーズそのものではなく、それに付随する概念を楽しんでいるとき、今ここにあるカラダと向き合っているようで、実は向き合っていない、ということが起きてくる。

 

「ポーズに付随する効果」に酔いながらポーズをとっているとき、(しかもそれを「楽しんでいる」とき、)注意はどこに向いているか。「効果を得た自分」という架空の存在に向いていたりするのだ。

 

そのまま練習していると、ちょっと危ない。今ここにあるカラダが、向き合う対象ではなく、「効果を得る」というストーリーを遂行するための道具になってしまう。リアルタイムで訴えかけてくるカラダの声が聴けないので、ケガの危険もある。

 

というわけで、ヨガの練習においては、「何を楽しんでいるのか?」という問いが重要になる。

もし、ポーズそのものではなく、何かとってつけた「意味」や「概念」(効果やカッコよさなど)を楽しんでいるとしたら、ちょっと注意が必要だ。

 

 

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チャトランガwith 8歳の少女

もしかしたらこのときの僕は、ポーズそのものより、「子どもをくっつけてポーズをとっているという面白さ」や「撮られるであろう写真の面白さ」を楽しんでしまっていたかもしれない。事実、ちょっと腕に負担をかけすぎた気がする。

『なぜ母親は、子どもにとって最高の治療家になれるのか?』

母親のような強い気持ちと、それを可能にする技術

 

ケガをした子どもに、母親がそっと手を当てる。無意識的に行うその行為にこそ、どんな治療技術にもまさる力があるのかもしれない。

 

我が子の身体の奥深いところにあるその“治る力”を信じ、<手当て>ひとつでその力を引き出すことができる「我が子を思う母親」というのは、(中略)いつの時代も変わらぬ「最高の治療家」なのです。

(「はじめに」より)

 

このことを、プロの治療家として何人もの治療に携わってきた著者が言うのだから、説得力がある。

 

「治したい!」という母親のような強い気持ちと、それを可能にする治療技術。どちらが欠けても治療は成り立たないが、どちらがより不可欠かというと、前者だろう。

まず「治したい!」という気持ちがあり、それから手段としての技術があるのであり、治療技術が先にあるのではない。

 

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とは言え、著者は決して技術をないがしろにしているわけではない。筆者はあらゆる研究分野を柔軟に取り入れ、最先端の治療技術を追求しており、本書でも具体的な治療技術の手引きは紹介されている。

 

でも、極論「治るならなんでもいい!」のだ。

ある方法を忠実になぞることは、それ自体には意味はない。

 

治療技術や健康法に限らず、あらゆる方法論で溢れる現代は、このことが忘れられがちだ。

方法論が具体化し、詳細になるほど、それをやること自体が目的化してしまう。

 

最もシンプルなものこそ効果がある

 

本書の最後で紹介される方法は、「手当て」という極めてシンプルなものである。

 

このシンプルさならば、誰もが実践に移せる。あるいは、もうすでに実践している。(頭痛のときに頭に手を当てたことがあるなら、すでに実践者だ。)

 

方法論は、実際に行われてこそ意義がある。

そういった意味で、シンプルであるということはひとつの力だ。

 

シンプルであればこそ、多くの人によって実践され、効果を挙げることができる。

 

 

 

手当てが教えてくれること

 

というわけで、この本を読んだ僕も、手当てによるセルフケアを始めてみた。

 

寝る前に、数分間自分のお腹に手を当て、呼吸を繰り返す。

 

やってみて感じるのは、手を当てることそれ自体より、自分の身体を労わる時間をつくることそのものに価値があるんじゃないか、ということだ。

もちろん、手を当てることによる効果も感じている。

 

でも、それより自分の身体に耳を澄ませ、敏感になるための時間を確保すること。

そうすることで、自分の身体が発するシグナルに敏感になることができる。

 

セルフ手当ては、それ自体にも治癒効果がありそうだが、それに加えて自分の身体との親密さを増し、自分の身体が求めているものに敏感になれるという効果もあると思われる。自分の身体の声がより聴けるようになれば、錯綜する方法論に惑わされることなく、自分にとってよい選択をすることができそうだ。

 

 

治療家による思索、誰でもできる手当て法など、気になった方はぜひ手に取ってみてください。

 

『なぜ母親は、子どもにとって最高の治療家になれるのか?』(和器出版)

「成長モデル」の落とし穴

  1. できない
  2. 意識しながら、ゆっくりとならできる
  3. 意識しなくてもできる

 

運動技能を習得する際の成長モデルとして、一般的に用いられる図式を持ち出してみた。僕の記憶では、高校の頃の保健体育の教科書にも登場した気がする。



例えば、サッカーのパスを練習する際には、足の角度は味方と水平に、味方の位置を見て、次にボールを見る、といった具合にポイントを意識しながら練習する(させられる)。高校時代、僕は「サッカーの基本」ともいえるこれらの要素を常に「意識しながら」練習することが大切なのだと教え込まれてきた。

 

もちろん、新しい運動を習得していく際に、意識的にポイントをおさえて繰り返し練習することは重要だ。そのことでカラダが動きを覚え、自動化していく。このプロセスを踏んでいくこと自体は納得。

 

 

しかし、どうなのか?

疑問① 意識的に練習するということは、ある程度の段階までは有効であるものの、ある段階を超えてからはむしろ邪魔になるのでは?ということ。

疑問② 何か新しいことを習得する際にも、意識していてはダメなことがある。言い換えれば、意識していては決してできず、ふと意識が外れた瞬間にできるようになる、という領域が存在するということ。

 

意識「し過ぎない」練習

僕の高校時代のある日、サッカーの練習中に接触プレーで軽い鼻血が出たことがあった。この時は練習を止められる雰囲気ではなかったので、手で血を抑えながらなんとかプレーを続けた。ところが、この時のプレーが、自分でも驚くほど冴えていた!

 

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 この時は鼻血を止めることで必死だったので、前述した足の角度などはもちろん、その練習内容もほとんど意識できていなかった。鼻血に8割くらいの意識を配りながら、頭の片隅でなんとかプレーについていっていた状態だった。

 

この時の僕は、ほとんど「意識していない」状態だった。これは「基本」を蔑ろにしていることなのか?

否、ほとんど意識に上らない状態のまま、僕はいつになく完璧に「サッカーの基本」をこなせてしまっていたのだ。

 

重要であることと、意識的にやらなければならないことは必ずしも一致しない。むしろ、意識的にやることでその精度が落ちたり、逆に意識しないことでおのずと正確になったりすることがある。このことは、抜きがたい実感として僕の中に残った。

 

このことに関しては思い当たるところがある人は多いんじゃないか。何気なくできていたことが、意識し出した途端急にできなくなる。そんなときにすべきことは、「基本を意識し直すこと」ではなく、はじめの「何気なさに」戻ることなのかもしれない(こう言うと基本を軽視しているように思われるかもしれないけれど、そうではなく、大事だからこそ、意識の支配下に置かずに「何気なさ」に任せるべきではないか?ということ)。



 まったくの散漫であることも問題ですが、生真面目な人の場合多くは「意識しすぎ」の方が問題になっている。「意識する」という練習はさかんに行われるのに、「意識しすぎない」という練習はどういうわけかほとんど行われていない。ここに、運動技能を高める教育をする際に見直すべきポイントがあるのかもしれない(運動技能のみに留まる話じゃないかも)。

 

素人の怖い物知らず

疑問②に関して。

無意識にできるのはある程度練習を重ねた人だから可能なのであって、初めて行う運動は、やはりポイントを意識して行わなければうまくできないはず、と。

確かにそうだけど、こんな例外もある(そしてこの例外は、意外と無視できないほど大きいのではないか)。

 

「素人の怖いもの知らず」という言葉がある。まったくの初心者が、その運動の難しさを知らないがゆえに、簡単だと思って行い、本当にできてしまう現象を指す。いや、実際には簡単だとすら思っていない。行う運動に対して、「簡単そう・難しそう」といった予測や、「うまくやってやろう」といった恣意がまったくはたらいていないからこそ、できてしまうのだ。

 

なんとなく行うからこそ入れるこの状態は、ポイントを意識したりした時点で絶対に入れない。「意識しろ」の弊害、ともいうべきこと。



僕が高校時代に抱いた、このふたつの違和感。

冒頭の「成長モデル」みたいなものの背景にあるのは、異常なまでの意識への信頼感と、カラダへの不信感、といえるかもしれない。

 

「意識する」をあまりにも重視しすぎることは、意識の支配下にカラダを置かないと信用できない、と言っているようなものだ。「もうちょっとカラダのこと信用してあげなよ」と言いたくなる。

 

有難みに気づくということ。

失ってからでは…

 

有り難さは、それを失ったときに初めて気づく。

 

何かにつけ、よく言われる言葉だ。

 

「在る(有る)」ことが当たり前だと思っているときは、それがどんなに尊いことか、なかなか気づかない。

「有り難い」という漢字が、まさにそのことを表しているよね。

 

でも、失ってからでは気づけないものもある…

 

失ってからその有難みに気づこうとしても、時すでに遅し、というものもある。

 

 

3月に受講したハートオブヨガ指導者養成講座にて、マーク・ウィットウェル、J.ブラウン両先生が言い続けたこと。

 

 You are the extreme intelligence of life.

あなたは生命のこの上ない英知である。

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マークとは、スカイプでの会話。

 

あなたは今そのままで、完璧で、奇跡である。

マークとJは、どの人を前にしても、そう繰り返した。

 

正直、人によっては受け入れがたい言葉だと思う。

僕も、完全に腑に落ちたとは言いがたい。

 

でも、こんな風に考えてみるとどうだろう? 

 

呼吸をする。心臓が鼓動を打つ。血が流れている。

何より、この世界が存在していて、その中に僕が存在していること。

 

残念ながら、それらはその性質からして、失ったときには気づけない。

だから、今まさに、ここで起きていることに気づくことこそ、その有難みを感じることだったりするのだ。

 

たかが「気づく」だけど、よく考えれば僕たちが「幸せ」と呼ぶことの多くは、「気づく」ことから生まれている。

 

「気づく」ための営み 

とは言え、そんなお説教は聞きたくない、という人も多いだろう。

 

ハートオブヨガが出す結論はシンプルだ。

 

言葉は聴かなくてもいいから、練習してみなさい。

 

呼吸をして、その呼吸とともに動く。

 

その心地よさがカラダに残るだけでいい。

 

あえて言えば、生命として存在している自分に、今まさにここで気づく。

 

そんな営みが、ヨガの中で起きている。(自覚するときもあり、しないときもある。)

 

もちろん、僕らが気づかなくとも、そこに生命はあり、マーク流に言えば、「生命のこの上ない英知」として存在している。

 

でも、それに「気づく」か否か。

小さなことのようだけど、実はそのことで、幸せが大きく左右されるのではないか。

 

それに「気づく」ための営みが、別にヨガである必要はないと思う。

僕は、好きでやっているのであり、それ以上でも以下でもない。

 

継続という魔法、継続のための魔法

 

継続は力なり。

 

特に、カラダに関わることは、ある程度続けないとその効果や影響は分かりにくい。

 

なぜか?

 

カラダが恒常性を持った物体だからである。

 

カラダには恒常性があるから、ちょっとのことでは変わらない。「これまで通り」を維持しようとする。

 

逆に言えば、一旦何かが習慣化してしまえば、カラダはその習慣を恒常性として維持しようとする。

 

では、続けるにはどうしたらよいか。

 

例えば、ランニングという習慣を考えてみる。

 

高校時代の僕は、「サッカーの試合で活躍したい!」という目標があり、そのために毎朝グラウンドを走っていた。

 

当然、辛いときや疲れているときに、「今日はやりたくない…」と感じることも多々あった。

でも、それでもこの習慣を継続できたのは、先に挙げた目標や、部活の仲間など、「僕を突き動かす何か」が常に存在していたからだろう。

 

ある時は、成功しているアスリートの言葉に勇気づけられ、ある時は頑張っているチームメイトに刺激を受け、ある時は目標を意識し直して・・

 

いわば、「今日走ればきっといいことがある!」という気持ちを維持できるよう、自分に魔法をかけ続けていたようなものだ。その自分に酔っているあいだのみ、僕は走ることができる。魔法が解けかかっている時は、必死になって魔法をかけ直すための材料を探し、また自分に魔法をかけた。

 

 

だが、高校のサッカー部を引退したその日から、僕のこの習慣はパタリと終わった。

 

目標がなくなったんだから、そりゃ当然でしょ、受験生なんだし・・・というのが一般的な見方だ。

 

でも、あれほど毎日続けられたことを、パタリとやめて何の疑問も持たないことが逆に不思議ではないだろうか?

 

要は、「走ること」は、僕にとって、それほど大事なことになってはいなかったということなのだろう。

魔法がかかっていなくても、目標がなくても、当たり前に続けるほどのものにはなっていなかったということだ。

 

 

 

ところで、今年に入って僕は、ヨガのポーズを一切とらなかった日は一度もない。

飽きっぽい僕が、曲がりなりにもこの習慣を継続できているのはなぜか。

 

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自覚的に、「魔法をかけている」気はしない。

むしろ、ヨガをすることに対してあまり効果を求めていないからかもしれない。

だからこそ、淡々と続けられるのかな、と思ったり。歯磨きのように、当たり前のものとして。

そんな風に言いたくなる。。。

 

が、

よくよく考えてみると、僕のヨガだって、そんなに純粋なものではない。

効果を求めない、無欲なプラクティスができているかというと、そんなことはない。

やっぱり、どこかで無自覚に魔法をかけているのだ。

 

ある時は、ヨガの先人の言葉に奮い立たされたり、ネットで「ヨガの効果」みたいな記事を読んだり、インドでの経験を思い出してみたり。

 

そのようにして、「ヨガをしている自分」に酔わせてもらっている。

 

もし、このような魔法(動機づけといってもよいかもしれない)を一切なしにして、純粋に、無欲にプラクティスができるなら、それは素敵なことだ。

でも、そんな純粋性を、人は持てるのだろうか。(目指すべきところではあるんだろうけど。)

 

聖人ではない僕が、聖人の境地を想定しても仕方ない。

魔法をかけずとも続けられることが理想だと知りながら、やっぱり魔法をかけ続けるしかないのかもしれない。

 

長年走ることを習慣としてやり続け、毎年フルマラソンも走るという小説家の村上春樹氏は、こんなふうに言う。

 

 走り続けるための理由はほんの少ししかないけれど、走るのをやめるための理由なら大型トラックいっぱいぶんぐらいある(・・)僕らにできるのは、その「ほんの少しの理由」をひとつひとつ大事に磨き続けることだけだ。

『走ることについて語るときに僕の語ること』

 

 

残念ながら、僕にとってのヨガは、「理由」がなくても無欲にこなせるほど自然なものにはなっていない。だから、理由を求め、自分に魔法をかけ、自分に酔ってでもやろうとすることが、少なからずある。

素敵なヨガの先生に会って、「自分もああいうふうになりたい」と思ってみたり、スピリチュアルな雰囲気に酔ってみたり、ポーズの格好良さを求めてみたり。

 理由の中には、「不純な動機」と呼べなくもないようなものも混じっている。

 

でも、そうでもしていかないと、僕はすぐにさぼり出すんだろう。

 

魔法をかけなくても続けられるほど当たり前になるために、魔法をかけ続ける。なんだか変なことを僕はやっているわけだ。

なぜ僕らには利き手があるのか。

人間のカラダってよくできているな、とつくづく思うんだけど、今日はこんなお話。

 

ふと湧いてきた疑問。

 

なんで、利き手、利き足があるんだろう?

 

色々考えた結果、浮かんできたのがこんな話。

 

自由を課されたとき、どうなるか。

 

ビュリダンの驢馬という寓話がある。

 

13世紀、フランスの哲学者が行った思考実験。

 

お腹を空かせた一頭の驢馬がいる。

その驢馬の両側に、全く同じ量の餌が、全く同じ距離に置いてある。

さあ、驢馬はどっちを選ぶ??

 

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ビュリダンの結論はこうだ。

 

左右の餌が、全く同じならば、驢馬はどちらかを選ぶ根拠が全くない。

だから、驢馬はどっちも選ぶことができず、やがて餓死してしまうというのだ・・

 

そんな、バカな。

餓死する前に、どちらかを選ぶに決まっているでしょう。

 

でも、「どちらかを選ぶ」という時、その選択の根拠は何なのか?

 

もし、何らかの理由があってどちらかを選択するのなら、いわばその理由によって「選ばされている」のであって、驢馬は「自由に」選んだとは言えない。

一方、まったく理由がなく、「自由に」選択できるとすると、どうしたらよいのか分からなくなる。

 

どっちでもいい、エイやっ!と選択するときには、理屈を超えた何かが働いている。

この話が、哲学上の難問とされているのは、「自由」をめぐって深い議論が可能だからだ。

 

ちなみに、ライプニッツという哲学者は、「全く同じものなどこの世に存在しない!」という不可識別者同一の原理を持ち出して、この問題を解決した。

 

全く同じものなどないから、そもそもこの実験は成り立たない、ということだ。

 

迷わないために。

 

 ちょっと話が脱線しすぎた。

 

僕が思ったのは、「どっちでもいい、自由だ!」という選択を迫られたときに、迷わないために利き手と利き足があるんじゃないか、ということだ。

 

とっさに、落ちてくるものをキャッチするとき。とっさに、一歩足を踏み出すとき。

 

その時に、「どっちの手(足)を出そう?」なんて、迷ってられないよね。

 

その時、利き手(足)がパッと出る。そこに、迷いもなく、理由もない。

 

人間には、利き手と利き足がある。

 

とっさの時に迷わないように、人間のカラダは作られているんじゃないか。

 

ひとまず、こんな結論に至ったわけです。

 

だからどうってことないし、何の役にも立たない考察かもしれないけど、なんだかこんなことを考えてしまうんです。

アーユルヴェーダノート 実践編

インドの伝統医学、アーユルヴェーダの実践編です。僕自身が忠実に実践しているわけではないです。むしろ、去年9月にインドで講義を受けて以降、ほぼ忘れてました。最近、ふと思い出したので、復習がてらまとめてみようと思った次第です。

 

ちょっと復習。

まず、この世界にある物質は、地・水・火・風・空の5つの構成要素から成る。

 

この5元素は、組み合わせを変えて3つの属性のエネルギー(ドーシャ)となる。

  • ヴァータ(風+空)
  • ピッタ(火+水)
  • カパ(水+地)

 

詳しくはこちら

 

では、実際に生活の中でどう生かしていくか。便宜上、ヴァータの人はこれがよい、というような言い方をしていきますが、前回書いたようにドーシャは固定できるものではないので、参考程度にしてください。

 

ドーシャ別実践

 

  • 起床してすぐに、飲むとよいもの。

 

ヴァータ・・お湯+レモン汁

ピッタ・・お湯

カパ・・お湯+レモン汁+ハチミツ

 

お湯は、やかんに水を入れて火にかけ、蓋を開けて換気扇を回すと、水、火、風の要素がすべて入った完全物になるそうです。これは、個人的に最近ちょこちょこ試しています。

 

  • おススメのヨガのタイプ

ヴァータ・・穏やか(mild)なスタイル、陰ヨガ、リストラティブ。

ピッタ・・適度(moderate)なスタイル、クラシックハタ、ヴィンヤサ。

カパ・・激しい(strong)スタイル、クンダリーニ、アシュタンガ・ヴィンヤサ。

 

ちなみに、午前4時~6時がヨガを実践するのに最もよい時間帯だそう。うー、起きてないよな、、

 

  • 朝食(午前7~9時)

ヴァータ&ピッタ・・「whole sum」ってメモしてあるんだけど、どういう意味なんだろう?直訳すれば「総数」だけど、、ひとまず「バランスよくすべてを」みたいに理解した。

カパ・・軽く、果物のみ、または抜く。

 

  • 昼食(正午~午後1時)

この時間帯は、ピッタが優勢なため、消化が強い。そのため、1日の中で一番重い食事は昼食にすべきだという。(これしか言われなかった・・)

 

  • 夕食(午後7時ごろ)

この時間帯は、カパが優勢で、消化が弱い。

したがって、生もの、たんぱく質は避け、温野菜などを中心に摂る。

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 インドで飲んだチャイ。おいしかったな。

 

  • 寝る前

寝る3時間前には夕食を終える。もし寝る前にお腹が空いていたら、、

 

ヴァータ・・ホットミルク、ホットの豆乳、アーモンド

ピッタ・・ココナッツミルク、お粥(rice milk)、オートミール(oat meal)

カパ・・食べない方がよい

 

 

  • ドーシャ別推奨の食べ物

ヴァータ・・温かいもの、スープ、シチュー、熟れた果物、玄米、鶏肉など。冷たいもの、生野菜などは控える。

ピッタ・・甘み、苦み、渋みのあるもの、緑黄色野菜、熟れた果物など。スパイスや塩分は控える。

カパ・・温野菜、豆類、熟れた果物、非加熱のハチミツなど。油もの、塩分、乳製品は控える。

 

 

3つの精神的性質(mental qualities、Triguna トリグナ)

 ここまでは、物質的なエネルギーであるドーシャに着目していました。これとは別に、アーユルヴェーダの理論には、以下の3つの精神的な性質があります。これはヨーガ・サーンキャ哲学にも登場する概念です。

 

・サットヴァ(純質 calm mind)・・純粋で静かな性質。喜び、幸せに満ちた状態。

・ラジャス(激質 stimulation)・・活動性を司る。過剰だと貪欲、緊張などに。

・タマス(鈍質 dullness, inertia)・・休息、睡眠を司る。過剰だと怠惰、無気力などに。

 

・サットヴァな食事

自然な甘み、新鮮な果物、野菜、ナッツ、穀物、豆類、ハーブ、ミルク、乳製品、ハチミツ

 

・ラジャスな食事

加工食品、塩、スパイス、カフェイン、牛豚以外の動物性食品、怒りながら料理したもの

 

・タマスな食事

牛、豚、アルコール、不規則な食事、再加熱料理(re-heating)、加熱し過ぎ、食べ過ぎ、ながら食べ

 

 このように書くと、ラジャスやタマスは悪者のようですが、そんなこともありません。ラジャスがあるから僕たちは活動できるし、タマスがあるから休むことができます。でも、これらが過剰になると、苦しみへと転化します。そうならないように、サットヴァな食事を心がけることは大切なようです。

 見逃せないのは、いくら食べ物の質がよくても、調理する人や食べる人の状態によってラジャスやタマスになってしまうということ。サットヴァな食べ物を、サットヴァな状態で食べるようにしたいですね。

 

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 角を曲がればそこには牛が・・インドの日常風景

 

すぐにでもやれそうなこと。

どうでしょう。インドでの講義を基に、ざっとまとめてみましたが、なかなか難しい、というのが正直なところ。

その中でも、すぐにやれそうなことを書き出してみました。

 

・ドーシャの体質論を基に、自分の今の体のドーシャバランスをチェックする。

・生活を朝型にする。

・朝起きてすぐにお湯を飲む。

・朝食前にヨガをする。

・カパ優勢の午前10時~午後2時頃に摂る昼食を、一日の中で一番多くする。

・夜ごはんを軽めにする。

・サットヴァな食事を、サットヴァな心で食べる。

などなど。

 

理論にあまりとらわれ過ぎず、ゆるーりとアーユルヴェーダ的生活に近づいていきたいと思います。