体和 Tai-wa 日記

ヨガ×人文系の大学生。ヨガの講師もしています。ヨガ日記、読書記録、身の回りの出来事など

ヨーガスートラ・Googleマップ説

卒論執筆中に思いついたこと。

ひとつの例えとして有効かな、と思ったので書いてみる。

「ヨーガスートラは、Googleマップのようなもの。」

それ全てを通読し、見通し、理解することを目的に書かれたものではない。

世界地図を隈なく見尽くして、(世界そのものではなく)世界地図に詳しい人になる。そんなことをしても良いのだけれど、あまり実りあるものが得られるとは思えない。

 

Googleマップは、(全体を見渡すのではなく)ズームして、現在地を特定し、そこから目的地に辿り着くための道のりを示せてこそ、「私にとって」有意義な情報になる。

ヨーガスートラを読む上で、「ズーム」、「現在地特定」の機能を果たすのが、先生との関係だ。

自分が現在どこに居て、それはヨーガ実践者たちが残してきた足跡のこの部分と重なるのか。それは、自分よりも長くヨガを実践している人の話を聴くことによって明らかになる(場合が多い)。

また、「目的地はどこか?」という問いも、自身の実践と、先生との会話によって明らかになってくることが多い。

ヨーガスートラに書かれている「最終目的地(サマーディについての記述)」を参照するのも良いのだが、それは日本にいるのに「南極に着くとどんなものが見えるか」を聞かせれているようなもので、あまり実感を持って聞ける話ではない(時折、思想上の極地点を見ておくのは、それとの対比で自分の現在地を知るために有効であったりはするのだけど)。

 

むしろ、現在地にズームしたまま、次に自分はどんな道を歩むかの「方向性」と「直近の未来」を示してもらった方が、実践的な知識になると思うのだけど、どうだろうか。

そのような知識なら、「自分にはまだ理解できない」「まだまだ知らないことがたくさんある」といった苦しみや不足感を味わうことなく、すんなりと理解できると思うのだけど、どうだろうか。

 

さて、実際に地図をズームしたまま、次に進むべき道も明らかになったのなら、実際に歩む足取りとして、自分自身のプラクティスが必要になるのは言うまでもない。

 

 

 

 

年内のヨガ活動in つくば周辺

最近ちゃんとこちらで告知していなくてすみませんでした。

年内の予定は以下の通りです。

 

①マンマビレッジ(つくば市)
「ひとりにひとつのヨガ」
11/23(土) 10:00-12:00
12/14(土) 10:00-12:00

 

みらい平コミュニティセンター(つくばみらい市)
「忙しい人のための伝統ヨガ」
11/23(土) 18:00-19:00
12/7(土) 18:30-19:30

 

③筑波Yoga for All 3時間WS(筑波大学構内)
「現代人のためのヨーガ どうやって続けたらいい?」
11/30(土) 9:00-12:00
12/1(日) 9:00-12:00

 

これらと共に、年内は卒論に集中します。

 

あえてオススメするとしたら、

・少人数でじっくり学びたい→①
・お手軽にヨガをやってみたい→②
・ヨガについての研究に参加してみたい→③
・ヨガの自宅練習を知りたい→①②③

といったところです。

よろしくお願いします。

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先週末は、ご縁あって函館まで参り、4つのワークショップをやらせていただきました。

 

ベイトソンの学習Ⅲ、僕のヨガのこと

ベイトソンの学習理論によると、

学習Ⅰ・・個々の具体的問題を解決すること

学習Ⅱ・・学習Ⅰにおける問題のコンテクストの性質を理解し、学習Ⅰの速度を上げること、性格、パラダイムの形成

学習Ⅲ・・自分のパラダイムの恣意性を突如悟り、人格の根本的変容を伴うような学習

 

例えば、「箸を使うことを学ぶ」のは学習Ⅰである。

「箸を使う」「鉛筆を使う」「包丁を使う」などの様々な学習Ⅰが積み重なると、それらを総合した「道具を使う」という学習Ⅱに移行する。

ここでは、個別の行為を学ぶだけでなく、学習することを学習する、つまり「道具を使うとはこういうことなんだ、箸を使って食事が便利になったように、料理にも畑仕事にも手で扱える道具を発明し、使えば良いのかもしれない・・」と、道具を用いた物事の操作そのものに習熟することになる。

一般に「性格」や「パラダイム」と呼ばれるものは、この学習Ⅱの寄せ集めである。

これを一旦獲得すると、それ自体を変えることは難しくなる。

「テクノロジーを用いて世界を操作する」というパラダイムを手に入れると、たとえ操作に失敗したとしても、「操作の仕方」が悪かったということになり、「操作」そのものをやめようとはなかなか思えない。

しかし、このパラダイム自体の変更を迫るような体験があり、それを学習Ⅲと呼ぶ。

 

わかりにくいので、具体例を挙げてみたい。

僕は、ヨガの練習を知る前、「自分の意志」なるものを用いて自分の人生をよきものにしようともがいていた。その時に参照した「よきもの」の中には、一般的に言われる成功や徳だけでなく、ヨガにおける「ヤマ・ニヤマ」なども含まれていた。

例えば、「傷つけてはいけない(アヒムサー)」、「嘘をついてはいけない(サティア)」などの倫理的描写を、守るべき戒律のように、自分に課していた時期もあった。

そこで想定されていたパラダイム、つまり僕がそれまでに積み重ねてきた学習Ⅱは、「自分の意志を以って、自分の人生のありようを規律化していく」ということだった(「性格」として描写すると、「規律的な人」、「自制心の強い人」、「真面目な人」といったところか)。

規律化の内容が、ビジネス書に基づいていても、仏教に基づいていても、ヨガに基づいていても、それは同じだった。

そこで問題になるのは、「この世界観(つまり学習Ⅱ)は、端的に誤りなのではないか?」ということだ。

ベイトソンサイバネティクスをモデルにして明らかにしたことは、「精神 mindは出来事に関わる関係性全体が帯びるものである」ということだ。

「自分の人生をよくする」という出来事には、僕の「意識化された自己」だけでなく、無意識の部分や、身体的特性や、周囲の関係性、社会、地球のエコシステムといった膨大な要素が関わっている。

精神とは、このうちのどれかのみに局在するものではなく、全体に偏在するものである。これは、「部分が全体を統御することはあり得ない」ということとイコールだ。

この事実から、「精神過程のほんの一部でしかない意志の力で、全体をコントロールしようとすることなど不可能」という、一種の倫理が引き出せる。

 

ベイトソンが挙げたアルコール依存症者の例では、彼らが自らの症状を以って、一般的に流布する世界観の誤りを証明する。つまり、「強い意志を持った自己」が、その他の部分をコントロールするというやり方では、決して治癒に辿り着くことなどできないということを、「意志が負ける」ことを以って証明する。

アル中患者は、「もう自分にはどうすることもできない」という「どん底」の経験を通して、「自分+酒+無意識の自己+社会+・・・」というより大きな自己を受け入れるに至る。そして、「より大きな力が、自分を正気に戻してくれることを信じるに至る」。それが、彼らにとっての学習Ⅲであった。

 

ヨガにおいて、僕はもう少し優しいやり方でこの壁を乗り越えることができた(できつつある)と思う。

鍵になったのは、マーク・ウィットウェル先生の次の言葉だ。

生命は完璧に機能し、すべてのものに対処している。

ヨガとは最終的に、生命を心(マインド)の押し付けから解放することであり、パターンをよりよいものに修正することではない。

(中略)

私たちは、方法論のようにして意図的にポジティブなパターンを断ち切ることはできない。それでは生命が問題であり解決されるべきとの思い込みをさらに課すことになってしまう。(中略)

パターンを表面的に断ち切ることはできない。しかし、生命がこの上ない知性であるとの理解のもと練習することはできる。さまざまな言動パターンは、不適切だと感じられたり、不要だと知ったりした時に自然と脱落していく。

私たちは、すでに確立されている、制限されることのない自然、この上ない知性、平穏と力として生きていて、くつろいでいる。

ここにおいて、本物のヨガが生命の自然なエネルギーとして生じる。

生命の自然な運動と関係するものへの反応は持続していて、システムを乱してしまうような意図的な介入を必要としていない。

身体、呼吸、関係性のヨガは、自然で強迫的でない仕方で行われる。

 

 ヨガの練習は、実は自分の意志で決めることなどほとんどないのである。

一旦ヨガを始めてしまえば、自分がどこまで動くか、どのタイミングで動き始めるかは、その時々の呼吸によって決定される。アーサナとは、呼吸への参与 participation in breathであり、マークの言い方で言えば、私たちの中で呼吸しているもの which is breathing us と共にあることである。

さらに、どんなアーサナを行うかも、先人たちの信頼に基づくものであり、自分の意志で決めたとは言い難い。

 

つまり、ヨガのアーサナ、そしてプラーナーヤーマの練習とは、自分の意志で始めるものでありながら、結果的に自分より大きな力に身を委ねていくことである。その時、その「より大きな力」こそ、「自分」だと感じられるようになるかもしれない。

 

マーク・ウィットウェル、そしてJ.ブラウン両先生は、

You are the power of cosmos. あなたはこの宇宙の力だ。

You are the extreme inteligence of Life. あなたは生命のこの上ない知性だ。

You are not who is searching for the truth but you are the truth. あなたは真実を探し求める人なのではなく、あなたが真実だ。

 といった言葉によって、僕にこれを気づかせてくれた。

 

ここに、「学習Ⅲ」が導かれる可能性がある。僕の場合は、この練習によって、「自分の意志なんかで自分の生き方を操作しようとするのはやめよう」と思うようになってきた。そしてそれはただ単に放棄、放縦というわけではなく、「自らの意志を以って、正しい位置に自分を置こう」という決意でもあった。

 

 どのタイミングで、どんな言葉によって、この変容が起き得るか。それは定式化できるものではない。しかし、ヨガの練習が、「自己の意志を以って自分や世界を制御しようとする」という、我々に染み付いたパラダイムを打ち破るひとつの手法であることは、提示可能な事実であると思われる。

 

 とはいえ、習慣として積み上げてきた「学習Ⅱ」は、そう簡単になくならない。これは個人単位で積み上げてきたものでもあるし、西洋文明を中心にした僕らの近現代的な価値観が積み上げてきたものでもある。

 だからこそ、絶え間ない練習が必要だし、「より大きなもの」との関係で、自分を適切な位置に置く、という調整が必要なのだと思う。

 

 

 

 

 

つくばでハートオブヨガ。ヨガとピラティスの実験的コラボも!

茨城県つくば市の新しいスタジオ、マンマビレッジ で、久々につくばでのクラスをやらせていただけることになりました。

 

初回は、スタジオオーナーで、パーソナルトレーナーピラティスインストラクターの川谷響さんとのコラボレッスンです。

11/5(火) 11/13 (水) 19:00~21:00

※日程が変更になりました。ご注意ください。

ピラティス&ヨガ~体と心の科学~」

参加費 4000円 (スタジオ会員3000円) 定員8名

フィットネス業界では、並列して語られることの多い、ピラティスとヨガ。

一見似ているようですが、起源も、目的も、身体の使い方も、大きく違います。

筑波大学で学んだ二人の講師が、それぞれの想いを込めて一時間レッスンをします。

体育学卒業の川谷さんと人文学専攻の的場による、身体観の違いもぜひ楽しんでいただけたらと思います。

  

11/23(土)10:00~12:00、12/14(土)10:00~12:00

「ひとりにひとつのヨガ」

参加費 各5000円 (スタジオ会員 4500円)定員5名

 

2時間のロングクラスですが、ずっと動いているわけではありません。あなたのヨガが2時間で終わらないように、ずっと自宅でも続けていけるように、一緒に練習法を考えるために時間を割きます。じっくりと対話して、一人一人に合ったヨガの練習を考えます。

自分にヨガを合わせて練習すれば、人と比べて苦しむことがないし、忙しくても数分から始められます。

僕が先人達から受け取り、毎日の練習で日々確かめているヨガの叡智を、出し惜しみすることなく、丁寧にお伝えします。

 

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メンバーシップクラスのお知らせ

HRIDAYA YOGA SCHOOLでは、毎回メンバーを固定して行うメンバーシップ制少人数クラスを行っています。

僕の担当は月曜隔週クラス、現在のメンバー数は2人です。

毎回2時間のクラスで、近況を報告し合い、その生活に合わせたヨガの練習の仕方を一緒に考えていきます。

人生における困難な状況、それについての相談が飛び交うこともありますが、基本的に僕がやっているのは、「毎日ヨガの練習をするように励ます、必要に応じて具体的なアドバイスをする」ということだけです。

全てがそこに含まれているとの確信があるため、それ以上付け加えることも基本的にはしないし、「こんな心構えで生きていこう」と言った話になることもありません。

その人が、自らの練習と共に何を気付き、どんな風に生活を変化させていくか。何に親しみを感じ、何を愛し、どんな方向に人生を進めていくか。

それは僕も知らないし、その人自身が自らの生命の望むところに進んでいくことによってしか明らかにならないのです。

僕が手助けしているのは、「自らの生命の望むところ」に直接関与していけるような、具体的な毎日の練習法(=ヨガ)です。

 

だから、僕らはただの友人なのです。

お互いに分からない生命というものを、互いに生きてみることによって少しずつ明瞭にしていく共同作業をしているのです。

その視点が複数あること、それがメンバーシップクラスの利点かと思います。

 

まだまだメンバー募集中なので、興味のある方はぜひご参加ください。

www.hridaya-yogaschool.com

個人レッスンのお知らせ

ヨガを伝えるに当たって、最もふさわしいやり方が、個人レッスンです。

ヨガは、自分の練習と共に、時間の経過と共に理解を深めていくものです。

先生からのアドバイスも、「今のあなた」だけのために為されるものが最も相応しいのと言えるでしょう。

 

クリシュナマチャリア師の息子デシカチャー先生は、「クラスで先生が言ったこと、本で読んだことではなく、先生があなたに伝えたことを大切にしなさい」と言っていました。

 

個人レッスンは、それを可能にするレッスン形態です。

僕が初めて個人レッスンをした相手は、母でした。

今でも母は数分のヨガをほぼ毎日続けています。

自らの身体、健康への深い理解も、インドの先人達が見出したような哲学的知見も、全て自らの練習を設計し、練習し、継続し、それを元にコミュニケーションするところから湧いてきます。

その礎を、丁寧に丁寧に作っていくのがこの個人レッスンです。

 

詳細は以下のページからご覧ください。

 

www.hridaya-yogaschool.com

 

 

 

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聖なるものに関わる「秘密」について

ベイトソンが挙げている例としては、バレリーナの踊りが白鳥のように見えるという時。

単に「白鳥のようなもの」として、比喩的な役割をする時と、

本当に「白鳥そのもののような感じ」を醸し出し、聖体(サクラメント)として見なされるような時、明らかに違いがある。

 

私たちが回復させなければならない感性とは、

意識では捉えきれないほどの多様な変数が絡み合い、全体として「聖性」や「美」を醸し出してくるところを捉える視点である。

 

そこには、「秘密」がある。

どんな時に「聖性」が現れるか、どんな時に「ほんとうに」バレリーナが白鳥に見えるか、言えないという性質がある。

本人にも、観客にも、それは分からない。

それは、「思わず」起こらなければならない。

 

一方で、何かを実践しようとする時、それは意図的な営みであるし、一度にひとつのことしか行えないという性質がある。

「聖」なるものを呼び起こそうとする実践とは、このような矛盾を必然的に抱えるものである。

その実践が、ある言い難い状態を作り出そうとするものである、ということを実践者が知ってはならない、というジレンマがある。

知ってしまうと、もはやその「聖性」は失われてしまう。

 

ヨガは、このジレンマをどのように処理しているか。

『ヨーガスートラ』において、実践の結果生じてくるような恩恵や境地について、さかんに語られてしまっている。その状態は、目指すほど遠ざかってしまうようなものにも関わらず。

その点で、ヨガは「秘密」に失敗しているようにもみえる。

 

しかし、「秘密」とは、実践者が現に実践する際、秘密を感知しない状態を作り出せるのなら、内的に達成されるものでもあるだろう。

一度言語的にヨガの恩恵を知ってしまい、それを待ち望む心が芽生えてしまったとしても、実際にヨガをする際にはそんなことを忘れてしまえるのなら、「秘密」に成功しているといえるだろう。

そのための技法は、ヨガの中に組み込まれている。

 

ひとつは、実践できることとできないことを明確に区別する、ということによって。

実践できるのは、アーサナとプラーナ―ヤーマ。

瞑想や日常生活における振る舞いは、その結果として生じてくる。

この区別を明確にしたクリシュナマチャリアに、僕は深い敬意を覚える。

効果として期待されることが何であれ、私たちはただそれを実践すればよい。

ましてや、「瞑想」や「すぐれた振る舞い」を練習しようとしなくてよい。

 

もうひとつ、学者たちには忘れられがちなこととして、「心地よい」ということによって。

ヨガの実践のすばらしさとして、端的に「心地よい」ということがある。

心地よいということによって、実践者は、まさにその実践に浸りきることができる。その時、どんな恩恵が得られるかということなど、忘れられている。

逆に実践が不快なものであるほど、「不快なものに耐えたのだから、せめてよいことがあってほしい」と効果を期待する心が生じやすくなる。

 

だから実践においてするべき努力は、「効果を期待しないようにする」という禁欲的な発想ではなく、より現在を充足させ、心地よくなるためのものであるべきだろう。

 

これらによって、ヨガに必要な「秘密」(=ある情報に対する内的な沈黙)は保たれているように思う。

 

そして、こんなややこしいことを考えなくても、ただ自分にとって心地よい実践をすればよいという、心理的な負担の軽さも確保されているのだと思う。