体和 Tai-wa 日記

休学中の大学生。ハートオブヨガ@つくば。ヨガ日記、読書記録、身の回りの出来事など

No Rush!

どんなに畑仕事を頑張っても、たくさん水や栄養を与えても、それで収穫が早くなるわけではない。

生が経験することを早送りで進めることはできない。

どんなに厚い本も、1ページずつ読み進めるしかない。

本の厚さを見て、まだこれしか読んでいないのか、と焦ることもある。

だが、その焦りは、目の前のページに向かうことを妨げるだけである。

 

結果が出た時は、誰かが認めてくれる。

結果が出ない時こそ、自分で自分を認めてあげるべきなのだ。

「なんにもできていないじゃん。」

そんなことを冷酷に告げてくる世間の目に、自分の目も加えなくていい。

なんにもできていないように見える一日でも、そうやって存在し続けていることに、halleluiah!

 

こんな時こそ、「できること」と「その結果として期待されること」をきっちり分けて考えることが大切だ。

実りに目が行くと、目の前の道を見失う。

目の前の景色を楽しみながら歩いていたら、いつの間にか豊饒な実りがあることもあるだろう。

それは、まさしく「生のギフト」であり、「僕自身の行いによるギフト」では全くないのだ。

 

 

私たちの行為は、肉体の動力源ではない。

ただ、農夫のように障害を取り除くものである。(Y.S. 4-3)

 

この地道さが難しいのは、「望んだ情報がすぐ手に入る」という状況に慣れ過ぎたせいかもしれない。

この道は、そんなに容易いものじゃない。

 

ゆっくり、行こう。

 

はかない「自分」による「自分」論

前回の記事を読んでくれた人から、質問をもらった。

前回記事「因果の中に位置づけられるヨガ

 

問題となった箇所はこちら。

原因と結果の連鎖を見通し、諸々の関係において浮かび上がってくる「自分」というものについて知ること(svadhyaya 自己理解)。

そして、それらの連鎖が、個に帰するものでないことを見極め、その流れに身を委ねてゆくこと(isvarapranidana 自在神祈念)

 たしかに、分かりにくい(自分で書いたくせに)。

「自分」、「個」といった言葉で指し示していることの内容が、伝わりにくい。

 

「自分」というものを、いかにとらえるべきか。

ニュートン的、デカルト的な近代科学・哲学の影響を色濃く受け、そこから完全に抜け出しきってはいない僕らの世界観では、いまだに「自分」が、「一貫したアイデンティティを持った、矛盾のない、安定的な個体」としてとらえられていることが多い。

まるでビリヤードの球のように、ある固定的な性質を持った、境界がはっきりとした、ある刺激に対して一定の反応を返すような、そんな主体として。

 

しかし、その存在を見つめるほど、そのような固定性はあやしくなってくる。

そういえば、冒頭の質問をしてくれた人(当時は生物学を専攻する大学院生だった)に、僕はこんな質問をしたことがある(された当人は覚えているかどうかわからないが)。

ひとつの細胞が死ぬのと、ひとつの生命体が死ぬのって、どう違うの?

 

多細胞生物である僕らは、いくつもの細胞が寄り集まってひとつの凝集体をなしている。しかし、その中身自体は常に入れ替わったり、新しく生まれたり死滅したりしている。

厳密に見ていくと、どこからが自分でどこまでが自分かなんて全く分からなくなる。

さっき食べた、まだ胃の中でうごめいているような食べ物は?

ここの空気は?

僕に強く影響を与えた、あの人のアイデアは?

やたらと不機嫌そうな、向かいの人の不快な「気分」は?

 

私たちが皮膚の境界をもってひとつの個体としてみなしがちなのは、皮膚の内側の細胞同士の相互作用の密度が、別の個体の細胞との相互作用に比べて大きいからである。ひとつの脳をもってひとつの心とみなしがちなのは、ひとつの脳の内側同士の相互作用の密度が大きいからである。(鈴木健なめらかな社会とその敵』)

以上の記述が示しているように、僕らが「自分」とそうでないものの間に引いている境界は、ひとつの便利な説明原理にすぎない(その仮定的な境界をもとに、「責任」とか「人権」みたいなものが付与されるから、この境界への信仰はさらに強まる)。

 

しかし、「私」と呼んでいるものの中味は、ビリヤードの球のように固定的ではなく、覗けばその都度違うものが詰まっている、はかないものである。

「私」とその他を分別するその境界も、定かではない。

これをおそらく「無常」とか「無我」と呼ぶのだが、僕は「無」我とまで言う気にはなかなかなれない。

 

あらゆるものが網状に絡み合う諸々の関係性の中で、その都度「私」と呼ぶべき勢力範囲(閥)を持った主体が、存立してきているようにみえるからだ。

時にはものすごく孤独で、寂しい存在として。時には何か(誰か)と一体化したような気になり、「私たち」と呼べるほどのより大きな凝集体として。

(『クォンタム・セルフ』(ダナー・ゾーハー)という本は、この一瞬ごとに現れるひとつの秩序形態を「ボース=アインシュタイン凝集体」という言葉で示している。)

 

僕がsvadhyaya(自己理解)という言葉の文脈で「自分」という言葉を使った時、念頭に置いているのはこのような主体である。

つまり、一瞬一瞬境界を引き直しながら、諸々の関係性の上に刹那的に出立してくるような「自分」である。

なぜヨガにおいてこの「自分」を取り扱うのが可能になるかというと、変化の只中において、またあらゆるものとの関係の只中において、その都度現れてくる「自分」を観るからである。

tapas(不純物の除去、ヨガにおけるいわゆる「健康効果」)と同時に、つまり変化しつつある主体としての「私」を対象に、このsvadhyaya(自己理解)が起こる。

特に「呼吸」といった、あらゆるものとの関係性を意識せざるを得ないような状態のもと、このsvadhyayaが起きる。

 

ヨガにおける自己理解は、このような実践の中で起こるからこそ、近代的精神が作り出した「固定的な自己」という幻想にとらわれずに、変化の只中における「自分」を見つめることができる。

 

 

では、ヨガにおいてもう一つ同時に起こるとされる、isvarapranidanaとは何か。

通常、「自在神祈念」と訳されるこの言葉だが、特定の神を信仰していない僕としては、もう少し自然科学的に表したい。

 

T.K.V.デシカチャー(僕の先生の先生)は、このisvarapranidanaを

「行うすべての事に対して主人ではなくなること」("The Heart of Yoga")と訳している。

行いによってこの世に現れてくる現象は、(ニュートン的な世界観における)「個」が所有できるものでは決してない。

というより、何かを所有できたり、その責任のすべてを引き受けたりできるような、一貫した同一性を持った「個」など存在していない。

(一時的に出立する)私の行いは、地球の裏側で起こった些細な出来事からも、わずかながら(決してゼロではない)影響を受けている。そしてその行いも、すぐに世界の中に溶け込み、またあらゆるものに伝播してゆく。

そう考えると、限られた勢力範囲しか持たず、しかもその範囲さえ現れればすぐに消失してしまうはかない主体としての「私」が、何かを「所有」しようとしたり、「コントロール」しようとしたりすることを、あきらめざるを得ない。

ここにおいて、「諦念」が生じ、世界を貫いている、大きな流れに身を任せたくなる。

諸々の関係性も、絡み合う因果の連鎖も、はかなくも現れる「私」の行いも、「なるようになれ」、と。

その「大きな流れ」と言うべきものに思いを馳せた時、「神」という言葉を使いたくなるのも分からなくはない。

 

(こんな風にして、「不所有」、「身を委ねる」という一見倫理的お説教のような文言を、自己規律的に課すよりも、「もはやそうでしかあれないもの」として理解し直していくことが、僕の望みのひとつである。)

 

さて、書く前よりもさらにややこしくなってしまったような感も否めないが、いかがだろうか。

 

ここに記されているアイデアだって、一時的に現れてはすぐに無意味になるようなものかもしれない。

だが、少なくとも僕にとっては、「一時的にでも現れるべきもの」だったのだ。

 

「結局なんにもしていない」のと同じような次元で、「それをしなかったら却って不自然だ」と言えるような次元で行為できたらよいな、と思うし、この文章を書きつつも、そうであるように努めたつもりだ。

 

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因果の中に位置づけられるヨガ

前回から引き続き、「原因と結果の究明に忙しい世」ということについて書いてみる。

 

この思考パターンに慣れ過ぎると、特定の何かを、すべてを解決するような救世主的存在として置きたくなる。

 

ヨガを伝える際も、そんな願望を持っていそうな人に出会う。

あるいは、僕自身にもそういう願望があるかもしれない(間違いなく過去にはあったし、今もその節はあるかも)。

 

ただ、「自分の人生、健康」などを好転させてゆく「きっかけ」、「原因(となるべきもの)」としてヨガを置いてしまうと、

他の健康法などとの対比で、そこまで突出したものにはならないのではないか(ヨガの健康効果は計り知れないし、強力なものには違いないが、それでも強力な手段は他にもあるということ)。

 

また、この語り方は、常に世界をかなり簡略化したものとして描いてしまう。

諸々の関係性、ネットワークによって諸事象は起こるのだという全体を見逃してしまう。

 

ここにおいて語られているヨガは、主に「tapas(身心を活性化し、不純物を取り除く作用)」という要素についてのことだ。

身心の健康を改善し、次に起こることがより好ましいものになる確率を高める。ヨガにそういう要素が含まれていることは、間違いない。

 

しかし、ヨガに含まれている要素は、「tapas」だけではない。

 

tapah svadhyaya isvarapranidanani kriya yogah. (PYS.2-1)

 

未来の自分のためによりよい「原因」を用意してやることだけが、ヨガではない。

むしろ、原因と結果の連鎖を見通し、諸々の関係において浮かび上がってくる「自分」というものについて知ること(svadhyaya 自己理解)。

そして、それらの連鎖が、個に帰するものでないことを見極め、その流れに身を委ねてゆくこと(isvarapranidana 自在神祈念)。

 

これらの要素も、併せて含まれているところが、そしてこの3つ(tapas, svadhyaya, isvarapranidana)が同時に行われるということこそが、ヨガの強力たる所以ではないだろうか。

 

ヨガをしている理由を尋ねられる時、また人にヨガのよさを説明する時、

やはり「より好ましい結果の原因」としてヨガを語ることが求められる。

その語り方もできなくはないが、それでは語り尽くせないということの方に、本当の「よさ」がありはしないだろうか。

 

過去について語るということ

以下の文章を読んだ時、ちょっと救われた気がした。

夢を語ればその動機を問われ、信念を論ずればその根拠を訊ねられる。病があれば病因を探りはじめ、事故があれば責任の所在が追及される。とかくに人の世は、結果と原因の究明に忙しい。 

しかし世界は、原因と結果の連なりに回収できるほど単純にはできていない。いかにもはっきりとした原因と結果の連鎖も、それは辿っていくうちに、複雑に絡みあう世界のネットワークの中に消散してしまい「起源への遡行」は未遂に終わる。そうしてあらためて世界が、互いに支え合う無数のものたちが縁起する、大きな網だったのだと気付く。(森田正男 http://honz.jp/23020

そう、僕らは「結果と原因の究明に忙しい」世を生きている。

 

就活などで「自己分析」を経験した人の中でも、こんな疑問を持った人はいないだろうか。

何故自分のやりたいことに対して、「何故」と問われなければならないのか?

 

「原点」、「原体験」、「きっかけ」などを探して、自分史を辿ってみたりする。

その作業を経て、何となく原点らしきものを掘り当ててみたりするが、そんな説明で自分を語り切れているとはとても思えない。

どこか、偽りの自分を差し出しているような気分になる。

 

とは言え、休学中の僕は、「個人史」を振り返るという作業をかなり入念にやった。

これからも、折りに触れて行うだろう。

 

今年の5月、自分史振り返り真っ最中だった僕の、こんな文章が残っていた。

そこでどんなことが掘り出せたかはここに記せないが、どんな心境でこの作業を行ったかは、感じられる文章になっている。

ちょっと長いが、ここに引用してみたい。

 

 自分の過去について語るということは、今まであまり乗り気にならなかった。自分が今行っていることの理由を、過去のどこかの地点に求めるのがイヤだったのだ。ある経験を「こういう経験で、今の自分にこういう意味を与えた」などと特定の言葉に捨象させてしまうのもイヤだし、今の自分を「あの経験があったから今の自分があるのだ」などと結論付けるのもスッキリしすぎてイヤだった。

 しかしながら、経験を語り直すという作業をしないと、経験(の記憶)はむしろ固定化された意味のまま残り続けることになってしまう。記憶は必ず何らかの意味を持たされ、保存されている。だからこそ、語り直さなければならない。語らないまま放っておくのではなく、(記憶されている以上、すでに何らかの仕方で語られてしまっているのだから、)語り直して、そこに流動的な意味をもたらす必要がある。その作業があってこそ、記憶が自分の中で固定されず、どんな意味にも回収し切れないものとして響き続けることができる。記憶は、語られないことによってではなく、語られ直すことによって生を吹き返すのだ。(中略)

 生きているうちに、改めて過去を検討する必要が生じてきた場合のみ、過去について固定的に行ってしまっている意味付けをやり直す必要が出てきた場合のみ、過去に取り組めばよいのだと思う。そしてその取り組みは、今問題になっている以上、結局今の生に取り組むことなのだ。たまたま僕にとっては、今がそのタイミングなのかもしれない。

 

 原因と結果によって語る思考に慣れてしまうと、世界をずいぶん単純なものとして取り扱ってしまうだろう。

「よい結果」が得られたときに、特定の何か(「自分のあの行動」など)が原因になっているという、思い上がりも招きかねない。

だからこそ、特定の説明方法で自分の過去を固定してしまわないよう、時に語り直すことは必要なのかもしれない。ただし、語り直すということの目的は、「(今度こそ)真の説明」を見つけ出すことではなく、「どんな意味にも置き換えられない不定性」としての過去を再認識することに他ならない。

 

振り返る際の自分の状態によっても、過去にどんな意味づけがなされるかが変わるだろう。その時の気分によって、他者からの声かけに対する反応が異なってしまうように。

そういう意味では、「過去の自分を振り返る」という作業は、過去の自分との関係において現れてくる「今の自分」について知る作業でもある

 

原因と結果の連鎖について、例によってヨガの観点から語りたくなったが、長くなりそうだし、専門用語を多発してしまいそうなので、また別の記事で(書けました)。

 

 

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いまや懐かしい、フィジーでの食事

 

 

ぐちゃぐちゃのままで

できる限り、すべての人、もっと言うとすべての生命体を射程に入れて思索したい。

それらを貫く共通の次元に目を向けることも可能なような気がする(例えば、「生命」、「存在」などを思索することによって)。

 

だが、同時に僕らは生きている一個の有機体であり、有限な勢力範囲を持つ。

原理的に、「すべての生命体の〈存在〉に肯定の目を向ける」ことは可能であっても、「僕らが生きつつある」という次元と同時に考えようとすると、大変だ。

 

早い話が、依然として「イヤ」なことはあるし、「嫌いな人」もいる、ということだ。どんなに「生命そのものに直接触れた」気になっても、「存在しているというそのことが神秘だ」と言っても。

 

普遍的なものが、間違いなく僕らを貫いていて、しかもそれは「ここ」にも「そこ」にもあるということ(=特権的な場所などなく、すべての場所が「聖なるもの」とも言い得るということ)。

一方で、僕らは「ここ」をより重視すべく生きている限られた閥を持つ有機体であるということ(あいつよりも「自分」を優先してしまう業深い動物であること)。

 

この二つの次元を混同してしまうことは、おそらく、G.ベイトソンが「論理階型」という言葉を以て明確化しようとしたことに近い。

 

言語は、有限な生きている有機体が扱うには、柔軟すぎる。

だから、「個」という勢力範囲を大きく超えたところまで、思索できてしまう。

言語のこんな性質が、僕ら人類を悩ませてもいるのだろう。

 

例えば、

A「快適に生きたい」

B「快適に生きるために、必要な情報を素早く得たい」

C「快適に生きるために、必要な情報を素早く得るために、WiFiを街に張り巡らせたい」

D「快適に生きるために、必要な情報を素早く得るために、Wifiを街に張り巡らせるために、配線工事の許可を早くもらいたい」・・・

 

こんな感じで、無限に入れ子構造を作って思索できてしまう。

Aでは、自らの生を直接味わい、そこにおいての極めて個人的な次元だったにも関わらず、Dくらいになると、もはや「生きている私」の感触はそこにない。

「許可をもらう」という行為を実行するためのマシーンと化す。

 

だから、視線を「生」という地点に向け直す営み(例えば、ヨガ)が重要なのは明らかだ。

 

だが、なのだが、

ヨガのような経験を積んでも、哲学的思索によって「存在」に触れても、依然として、僕らは有限な閥を持った存在として生き続ける。

 

有機体として生きるとは、最適値を持ち、それを超えたら生きていけないような最大値と最小値を持つ変数が、体中にあるということである。

エントロピーが増大する世界の中で、それらを維持し続けるということが、生きるということに他ならない。

腹が減れば自己中心的にもなるだろう。

僕らの道徳に罪があるのではなく、生きるとは原理的にそんな状況と折り合いをつけ続けることなのではないか。

 

そうなると??

(続く)

 

 

2018年11月の予定

*ハートオブヨガプライベートレッスン(2人まで。日程、費用、場所は応相談)

ハートオブヨガの原則と、自宅練習の方法をお伝えします。 

 

*ヨガスタジオ「Psyche/プシュケ」(茨城県つくば市

ハートオブヨガ定期クラス

火曜(6,13,20,27日)18:45~20:15 「ヨガで遊ぶ」

金曜(2,9,16,23,30日)10:30~12:00 「ただのヨガクラス」

日曜(4,11,25日 ※18日休講)10:30~12:00 「ヨガをデザインする」

https://airrsv.net/psyche/calendar

 

*暮SHIFT 「ハートオブヨガ入門」(茨城県つくば市

第1・第3土曜(3,17日)10:00~11:30

 https://www.facebook.com/events/570947349956335/

 

みらい平コミュニティーセンター(茨城県つくばみらい市

・「ハートオブヨガ 強さと柔らかさを養うハタヨガ」

3日(日)、21日(水)ともに19:30~20:30

・「イスを使ったリラックスヨガ(高齢者向け)」

16日(金)14:00~15:00

 http://community-center.tsukubamirai.org/

 

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フランスからの心優しいYogi、Fredericさんと。

 

ハロウィンへのお誘い、的な意味で。

「あなたの中で起こっている、呼吸というパーティーは終わらない」

by マーク・ウィットウェル 

 

現にあなたが生きている、という燦然たる事実がある。

その事実に、どう取り合うか、僕らには自由が与えられている。

 

それを賛美することもできるし、そんなことあまり重要じゃないことにして、何かが足りないかのように、何かを追い求め続ける人生を歩むこともできる。

 

あなたが全く意に介さなくても、あなたの中に、あなたとして、そこにいのちは存在している。

ヨガは、この事実を賛美しませんか、と呼び掛ける。

これは、頑張って到達するような境地ではなく、むしろライフスタイルの選択に近い。

 

今年のハロウィン、どうしようかな、ということに似ている。

ハロウィンなんてないことにして過ごすこともできるし、それに加わって楽しむこともできる。

あなたが参加しなくても、ハロウィンは存在している。

もし、参加したいなら、「参加する」と心に決めるだけでよい。

ハロウィンに参加するに相応しい自分になろう、とか、ハロウィンのことを絶対に忘れないようにしよう、なんていう努力は必要なく、ただ「そう思う」だけでよい。

 

僕らが、「いのち」ということにどう向き合うかも、これに似ている。

それは、いつもここに存在しているが故、その気になれば、いつでも賛美しうる。

賛美の仕方を絶対に忘れないようにしよう、とか、この味を覚えておいて、いつでも再現できるようにしよう、などという計らいなしに。

自分を固定したアイデンティティとして扱い、そこによさげな属性をくっつけようと躍起になるような苦しみなしに。

 

この事実を、少なくとも論理的に理解しておくことはできる。

生の神秘、それはすでに与えられているのに、いつか、どこかで、あんな体験をすれば、あの仕事に就ければ、ついに辿り着く、なんていうまやかしに騙されっぱなしでいる必要はない。

 

ただ、物事を分かるにも、いろいろなレベルの分かり方がある

僕なんかは、このことを知的に理解しておくだけでなく、全身を使ってそういう風に生きてみたくなる。

だから、わざわざハタ・ヨーガをするのだと思う。

 

生の神秘に全身が参与した時、知的に分かる、ということとはまた違った分かり方がある

ああ、これでいいんだな、と全身が納得する。

 

だから、ヨガを始めるのに、何かしらのハードルを感じてしまう人は、こう思ってほしい。

「あなたの中で起こっている呼吸というパーティーは、すでに始まっているし、あなたがそれに参加しようと思うなら、いつでも開かれている」

(しかも、ハロウィンパーティーに参加するより、ずっとハードルが低いはず。仮装なんてせずに、そのままの姿で!)

 

 

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(以下、補足。煩わしい方は読み飛ばしてください。)

この文章全体を通して、「生きていること」、「いのち」を「在る」ということとほぼ同義で使った。

厳密に言えば、両者には明確な違いがある。

「在る」は単なる存在で、

「生きていること」、「いのち」は、存在の様式(内容)だ。

 

この両者を明確に区別して論じるべきだ、という見方もあるだろう。

そして、僕らがいつでも賛美しうるのは、むしろ「在る」ということの方なのだ、と。

 

しかし、論理的に必然的なつながりがなくても、現実的に恒常的なつながりがある、というケースもある。

僕らが「在る」ということは、「いのち(身体を持ったり、呼吸をしたりすること)」と論理的に必然的なつながりはないのだけれど、(そうじゃない「在り方」も想定可能なわけだけれど、)

しかし現実には、僕らが「在る」ということと「いのちである」ことはほぼイコールだ

ハタ・ヨーガは、現実的で実践的なツールであり、しかも人間を対象にしている。(カフカの『変身』の主人公のような主体を想定はしていないということ)

 

だから、「在る」というどんな感覚にも置き換えられない形而上的(メタ・フィジカルな)主題を、「生きていることの(フィジカルな)感触」と結びつけてしまうことも、便宜的には許されるのではないか、と思う。

 

そういう仕方で理解した時、「在る」ということと「生きる」ということを別個に論じる方が、むしろ不自然な気がしてくるのだ。