体和日記 Tai-wa-nikki

茨城県つくばを拠点に、体和塾(カラダを和ませ、カラダで世界と和する塾)という活動をしています。ハートオブヨガ、甲野式身体術、哲学などから考えたこと、感じたことを、赴くままに。

「遊び相手」としての世界

最近、なんだかいろんな人と話す機会がある。

 

それも、今まで話したことがなかったようなジャンルの人、僕には想像もつかないような考えを持った人と巡り合うことが、どういうわけか多い。

 

最近出会った人たちについて、ここでどうこう語るつもりはない。

 

ひとつ言えるのは、(月並みな言葉になってしまうけれど)人は一人だけで生きていけるほど強くはできていないということだけだ。

 

彼らの人生について、僕が数個のキーワードを持って紹介するのは、どうも気が進まない。

あらゆる経験に包まれた生たちを、いくつかの言葉のみに収束させてしまうのは、失礼な気がするからだ。

 

(このことは、自分の人生についても言えることだ。自分の生をキーワードで語ってしまうと、キーワードで掬い取られなかった経験たちがかわいそう。)

 

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彼らとの出会いから、改めて気づかされること。

 

僕には、まだ目を向けられていない面がたくさんある。

勝手に限界をつくったり、特別扱いしたり、聖域をつくったり、決めつけてかかったりしていることが、まだまだたくさんある。

そして、世の中には、僕が勝手に引いている限界を、いとも簡単に乗り越えている人がたくさんいる!

そもそも、そこに線があるとすら思っていないのだろう。

 

生きていく中で、いろいろな人々と出会うことの醍醐味のひとつは、あらゆる縛りで自分を不自由にしているという事実に気づくことができることだろう。

 

ある人は、哲学を「経験を動かすこと」と「問いを立てつづけること」だと定義した。

 

自分と異なる考えを持った人と出会うことは、否応なく自分の世界観の見直しを迫ってくる。

海外に行ったりせずとも、その辺に異文化が溢れている。

 

経験が動く。

「なんだこれは?」「どういうことだ?」問いが湧き立つ。

 

小さなことだけれど、例えば、メガネをかけたり、化粧をしたり、ピアスをしたりするだけでも、見える世界はだいぶ違うのだろう。(と、書きながら僕はブルーライト用のメガネをかけている。)

 

こんなことを考えているからか、最近はいろいろな人と話すのが楽しい。

自分が勝手につくっている思い込みを、ほどいていく。その作業を、ある人は哲学と呼び、ある人はヨガと呼ぶのだろう。

 

世界に対して閉じていると、周りの人たちは敵に見えてくる。

逆に、世界に対して開いていれば、周りの人たちはみんな「遊び相手」で、環境中にあるものはすべて「遊び道具」になる。

(と言いつつ、気に入らない遊びもあるのだけれど。) 

 

しかも、常に変わっているという特典つき!

(だから、毎瞬間「はじめまして、世界!」であり、毎瞬間「さようなら、世界!」なわけだ。)

 

 

そんなこんなで、最近は結構ポジティブなのです。

それでも、「個」としてあるという不思議。

前回

「個」なんてものはない?

「私」なんてものはない?

 

という話をした。

 

色即是空! みたいな感じかな。

 

でもでも、

 

この後に続く言葉を忘れちゃいかん。

 

空即是色!

 

あれだけ不確かで、確固たるものがないと言った(よかったら前回を読んでください)にも関わらず、

なぜだか僕たちは、「個」として在る!

 

細菌たちの上に住み着き、常に入れ替わり、生まれては崩壊していくものの塊にすぎない僕らが、

なぜか今この瞬間、バラバラになるのではなく、このように在り、幸せか不幸せか、食べ物がおいしいかまずいか、人と話して楽しいか楽しくないか、その他諸々のことを感じたり、考えたりできている。

 

それってすごく不思議!!

 

Feel so good be alive baby!

(みんな、生きてるってすごいね!)

 

Infinit Waters という動画より。(2.33頃)

 

 

 

って、何を当たり前なことを。。。

 

まあ本当に当たり前なことなんだけど、なぜだかこのような実感が湧き、このような言葉が溢れてきた。

 

数か月後に見返したら、「なんだこりゃ」と思うかもしれない。

 

でも、そう思ってしまったのだから仕方ない。

 

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今日は、ふたりの人と長い時間喋った。

不定形で、不安定で、流動体である2個の人間が、なぜだか、巡り合い、話して、何かを考えている。

そして、その心持ちそのままに、僕がこうやって文章を書いている。

 

それもまた、不思議だね。

 

言葉という、人間が手に入れた便利なツールのおかげで、

その場に生まれた奇跡を、こうして綴り、(これまた不完全ながら)保存することができる。

 

書くこともまた、僕の生であり、運動であり、エネルギーの発現だ。

 

その記録として、とりあえず残しておこう。

置かれた自分、媒体としての自分

 

「あなたはありのままでいいんだよ」などと言われた時、抱きがちな疑問。

 

「じゃあ、なんにもしなくていいの?」と。

 

いやいや。

それは「自分」というものをとらえ違えている。

 

真空のような場所に、交流も変動もまったくしない、なんにもしないものを「ありのままの自己」として想定していないか?

 

そうではなく、僕らは世界の中にまず投げ出され、訳も分からず何かをし始め、生き始めてしまっているのである。

まずカラダがあって、それが変動したり世界と交流したりするのではなく、

変動や交流が起こる「場」こそがカラダなのである!

世界あっての自分であり、世界との交流あっての自分であり、変動あっての自分なのである。

 

だから、「何もしない」「どこにも置かれていない」ような「ありのままの自己」などというのは、単なる想像の産物であり、この世界のどこにも存在しない。

いくら「内なる平和」を目指そうと、外界との交流を絶つことなどできない。

(たとえ出家し、世間とかかわりを絶ったとしても!)

 

実際、カラダを緻密に見ていけば分かる。完璧な実体としてのカラダがあって、それが世界と交流しているのではない。

食べる物、飲むもの、吸う空気、腸内細菌などとの交流が常に起きており、それらなしでは一瞬たりとも存在できないのである!

人間の細胞の数より、人間の中にいる細菌の数の方が多いらしい。

ということは、「人間の中に細菌たちが住んでいる」のではなく、「細菌たちの上に人間が住み着いている」のである!

(では、「私が考える」というとき、一体「何」が考えているのか?)

 

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今日、ヨガのクラスでマントラ(お経のようなもの)を唱えていたときのこと。

 

最初の方は、「いかに自分のカラダをうまく使い、声をうまく出すか」ということに苦心していた。

 

だが、続けていくにつれ、だんだんと「自分が唱えている」という意識が薄らいできた。

世界が何かを表現したがっていて、その媒体としてたまたま僕のカラダが選ばれている、というような感覚だ。

 

そこにもはや、技法は必要ない。その時僕がやっていたのは、ただ世界に流れているエネルギーを、邪魔しないようにすることだけだ。

 

それでも、否応なく、僕のカラダを通して「個性」が顕在化する。

いわゆる「自我」がなくなっても、個性が消えてしまうわけではない(ちょっと安心)。

 

「媒体」に徹することができたとき、何とも言えず心地よかった。

とはいえ、この心地よさを維持しようとするのは、野暮なことだ。

この心地よさを再生可能なものにしようと躍起になるのも、野暮なことだ。

 

それと同様に、何かうまくいかないことがあったとき、世界が表現したがっていることの媒体でしかない僕らが、何とかしようとあくせくするのも、同じくらい野暮なことなんだろう。

 

ただ、世界の中に置かれて、自分に起きる交流や変動を楽しめばいい。

 

では、結局なんにもすることはできないのではないか?

いや、安心しろ、否応なく、何かしてしまっているのだから。

 

ん?じゃあ「こちらから」何かをする必要はないのかな。

 

あれれ、わりと考えが深まったと思ったのに、冒頭の問いに戻って来てしまった・・・

変動、交流、非・技法的カラダ

 

身体「技法」、身体「操法」、身体「術」・・・

これらの言葉からイメージされるのは、「いかにカラダを動かすか」に関する探究だということだ。

 

確かに、この視点からもたくさんのことを語ることができる。

ただし、これらの言葉が暗黙のうちに前提していることがある。

 

それは、「カラダがある」ということだ。

 

どういうこと?

 

もう少し言うと、「ここからここまでがカラダ」と言えるカラダがあり、効果的な運用法を「探究できる対象」としてのカラダがあり、技法を試し得る「媒体」としてのカラダがあるということだ。

 

ところが、この前提に立っているかぎり、見えてこない世界があるのではないか。

 

今日、僕が思い立って試したことは、いわば技法を失う技法であり、「カラダが適応するに任せる」ということだ。(僕にこの発想を与えてくれたのは、「アフォーダンス」という理論だ)

 

何かの技法を行使する媒体としての「カラダ」が存在すると見なすことをやめ、ただ、置かれた環境の中に佇んでみた。

言い換えれば、「環境」と「カラダ」の境目で起こる事を、成りゆくままに放っておいた。

 

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例えば、慣れない場所に飛び込み、緊張しているという状況。

こんな時「技法」的発想を持っていると、「ドキドキしているから、深呼吸して落ち着こう」などの手法を取りがちだ。(僕もそうだ)

言い換えれば、カラダと環境との間に境目を設け、主体としてのカラダにおいて「何をすべきか」考え始めてしまう。

 

しかし、僕らが何かをしようとしまいと、その場に置かれたその瞬間から、僕らのカラダは適応を始める。

梅干しを口に入れれば唾液が湧きだしてくるように、おのずとカラダは対応を始める。

まさに無常であり、一瞬たりとも同じ瞬間がない。

 

この変化を観察すればするほど、どこまでが自分のカラダか分からなくなる。

吸う空気、触るもの、口に入れるもの。

これらは僕らのカラダの内部に入り込んできて、カラダを変化させる。

というより、一体となってともに変化していく。もはやここに、主体も客体もない。

 

しかし、技法的にカラダを操作しようとすると、「固定化された状態」を想定しなければならなくなる。

「いまドキドキしているから○○しよう」と考えるまさにその時、「ドキドキしている自分」を固定化し、その上で方法論を組み立てようとしている。しかも、カラダを独立して扱おうとするので、カラダと環境の交流が絶たれる。

 

変動するカラダ、交流するカラダにとって、この働きかけは不自然だ。

「ドキドキしているから・・」と必死に考えれば考えるほど、ますます「ドキドキしたカラダ」が固定化し、しかも環境が介入し得ないものとして個別化していく。

 

カラダは、環境と相即なものであり、固定化も個別化もし得ないはずなのに。

 

 

カラダも環境も、ただ変化していくものであり、それらを無理に維持したり、いじったりするものではないのかもしれない。

そう思うと、これまで「わたし」だと思っていたカラダが急に遠くのものに見えた。

 

いや、むしろカラダも環境も、みんなが一体となって変動、交流する「わたしたち」と言ってもいいかもしれない。

そんなにぎやかさで生きるのは、たぶん結構楽しい。

ヨガで養われる柔軟さについて

今日、グループでのヨガコースを受けていて思ったこと。

 

通常、グループでヨガをすると、指導者の声に合わせて動いていく。呼吸の吸う、吐くのタイミングも、指導者の「吸って~」「吐いて~」に合わせて行われることが多い。

 画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、座ってる(複数の人)、室内

 

 

しかし、当然一人一人の呼吸の長さは異なり、日によっても異なるかもしれない。

一人一人に合ったヨガを重視するハートオブヨガのレッスンでは、一人一人が自分のペースで呼吸し、それに合わせて動くので、みんな動きがバラバラになる。

 

僕はこのマイペースさが好きだ。だから、みんなが一緒に動くグループクラスでも、勝手に自分のペースで動いていることが多い。

斜に構えているみたいで、これはこれで恥ずかしいんだけど。

 

今日の自分にとって、最も適切なアーサナを見つける。

そのためには、スティラ(安定、頑丈さ)とスッカ(快適さ、柔軟さ)を見つけることが大切だ。

それは、今日の自分に固有のものであり、他人と比べたり、昨日の自分と比べたりするものではない。

 

この考えに基づいていたため、僕は(頑なに)自分のペースを保っていた。

 

だけど、あれ・・・?

この頑なさは、「柔軟さ(スッカ)」に反していないか?

 

ヨガのアーサナの定義にもなっている「スティラとスッカ」は、アナンタヘビ(『ヨーガ・スートラ』の著者パタンジャリが人間に変身する前の姿)から来ているという。アナンタは、ヴィシュヌ神のベッドの役割をしていたため、「非常に頑丈かつ柔らか」でなければならなかった。この性質がイコール、スティラとスッカだ。

 

と、ふと今日の僕は、あえて指導者の声に合わせて呼吸をしてみた。「吸って」というインストラクションに合わせて吸い、「吐いて」に合わせて吐いた。

 

最初の方は、自分に合わない靴を履かされているようで違和感があった。

でも、同時にこんなことも思った。

 

もし「スッカ(柔軟さ)」がそこにあるなら、自分本来のペースから多少外れたところで呼吸しても、余裕を持って対応できるはずだ、と。

ここで言う「柔軟さ」とは、いわゆる開脚や前屈の柔軟性ではなく、ふかふかのベッドのような身心の柔軟さだ。どんな形のものが寝ても、優しく包み込んでしまうベッドのような柔軟さだ。

自分が守りたいペースがあっても、多少変動できる水のような柔軟さだ。 

 

実際、指導に従ってやり続けると、悪くなかった。

最初は違和感がある新品の靴も、履き慣れれば問題ないようなものだ。

 

でも、だからといって、明日も今日と同じようなできるとは限らない。

あくまで、今日の僕にとっては問題なく指導に合わせられた、ということに過ぎない。

 そしてこの記事は、今日という一日の記述にすぎない。

(こうして書いているうちに0時を回ってしまったので、もう昨日のことか)

 

“Set the boundary only right for today.”

「今日だけのために、その都度境界線をひこう。」

 

“Don’t put yourself certain form, find your sthira and sukha.”

「ある型に自分をはめるのではなく、自分のスティラとスッカを見つけよう。」

(J.ブラウン) 

 

 

明日の僕は、明日の僕によって決定されるしかない。

その楽しみは、明日にとっておくか。

 

空(くう)と虚しさと楽しさと。

ヴェーダンタ哲学とか、非二元論哲学に、幸か不幸か、出会ってしまった。

 

世界は空であり、そこに「ただ気づいている」究極の主体がいる、という。

 

例えば、何かイヤなことがあったとする。

その際、僕らはいろんなことを感じ、考える。

 

「あ、イヤだなー」

「どうやったらこれから逃れられるかな」

「でも、これとどうにか仲良くできないだろうか」

 

ちょっとスピリチュアルな探究に関心ある人だと、

「判断せずに、ただ受け止めよう」

「これに対しても、無条件の愛で接することはできないものか」

「判断しちゃダメって思うこの心も、判断してるんだよな・・・」

などなど。

 

これらを、どこまでも含み入れ、どこまでも包み込み、ただ気づき、絶大なる「肯定」を与える、究極の自己。

言わば、世界外存在であり、それ故、知覚され得ない。

(ヨガ哲学における究極の自己purushaも見る者Seerとして定義されており、現象世界prakritiと交わることなく存在する、とされる)

 

この「自己」さえ想定できてしまえば、人生はある意味で、絶対に安全なものになる。

どんなに現象として悪いことが起こっても、どこまでも含み入れて包み込んでくれる主体があるからだ。

「それも運命であり、起こるべくして起こったのだよ」、と。

 

この世界観に立つと、僕らが生きる日常世界はことごとく「空」だとされる。

どんな苦しみも、歓びもだ。

 

この考えを知ったとき、ある種の救いはあった。

どんな苦しみも、「空」だとしてしまえるからだ。

 

でも、考えれば考えるほど、「それって虚しくない?」と思うようになってきた。

(そもそも考えるものじゃない、感じるものだ、とか言われたりするんだけど)

 

感じろ、という言い分も何となく分かるから、考えるだけじゃなく、ヨガをしたり、感覚に任せきったりすることもある。

論理的な納得感はないけど、そこに気持ちよさはあるから。

でも、納得感は全然ない。(やばい、こんなんじゃ人にヨガを教えている場合じゃない!)

 

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僕が虚しさを感じるのは、以下のような描写だ。

 

僕たちが世界だと思っているのは実は幻影であり、「ほんとうの」世界はただそれに気づいている者である。

「ほんとうの世界」は、映画の映像ではなく、白いスクリーンなのである。

 

うーーーん。そう言われると、映画の中で生きるのが虚しくならないか?

映画の中でしか生きられないっていうのに。

 

だから、「映画と分かりつつそれを全力で演じる」とか言われたりするんだけど、それもしっくり来ない。

(名役者じゃあるまいし!)

「空だ」という自覚を持ちながら現象を生きることは、「どうせフィクションだよ」と冷めながら小説を読むようなものだ。どうしても、迷いがあり、逃げがあり、入り込めなさがある。そんなんじゃ、感動もできないし、それこそ何のために生まれてきたんだ?と。

(最近、個性が乏しくて悩む主人公の小説を読んだ。彼は自分のことを「色彩がない」と称したが、ここで言っている虚しさは、そのレベルのものではない。だって、白黒ですらない「空」なんだから!)

 

 

とは言え、これらの記述をする啓発的な本を非難しているわけじゃない。

これらの本にも、一種の真理が含まれていて、それに救われる人もいると思う。

 

最近つくづく思うのは、あらゆる意味で、人生の極致は、言葉で直接指し示せない、ということだ。

「直接」と言ったのは、通常の科学的事実を述べるようには述べられないということ。

 

でも、たとえフィクションの小説や、一見意味不明の詩であっても、ある人に、あるタイミングにおいて、決定的に重要な意味を持ったりする。(とは言え、ある特定の言葉にずっと頼って生きていくことはできないのである!)

 

僕がヴェーダンタ哲学や非二元論哲学の本を読んだとき、そこには確かに救いがあった。

あくまで、その時、そのタイミングにおいては。

 

このタイミングは、その人に固有のものであり、だからこそ安易に「本のおススメ」なんてできないな・・・

 

 

改めて、再確認したいこと。

「永続的に通用する言葉や方法を見つけようとするな!」

(ってことは、この言葉も永続的には使えないのか)

 

なんだか、ものすごくまとまりの文になってしまった。

しかも、出口のない思索に見える。

(ある視点からは、これらすべてを「空」と言ってのけることも可能だ)

 

もうしばらく、悩んでみよう。

でも、だからといって暗くはならない!

それすらも楽しみたい。

と、ひとまず強がってみるか。

実感なき凡庸な幸福

「幸せになる勇気」。

 

僕なりに言い換えると、「凡庸である勇気」となる。

 

何か優れたことをしないと、「よい」人生だと思えないような心。

どういうわけか、ほとんどの人に備わってしまっている。

 

幸せになるために必要なことは、この強迫観念から抜け出すことに尽きるのでは?

最近僕はそう思う。

 

確かに、何か優れたことを成し遂げようと、文字通り身を粉にして努力し、達成したとき。

この達成感は、たしかに格別だ。

(しかし、この「優れた」というのは、誰が決めたことなのだろう?)

ありありと感じられる、「実感のある幸福感」と呼びたくなる。

 

しかし、この「実感のある幸福感」を、僕らは過剰に要請しすぎかもしれない。

言い換えれば、僕らの意識が、常に「喜びたがり」、「幸せを噛みしめたが」っている。

 

この状態は、力を出そうとして思い切り力んでしまう筋肉に似ている。この過剰さは、苦しいし、ケガを引き起こすかもしれない。

ありありと筋肉の力感が感じられる、「実感のある力」は、実は拍子抜けするほど弱かったりする。

 

僕が今まで出会って来た武術の達人たちは、何の変哲もなく、ひょいとやった動きでとんでもない力を出す(イメージが湧かない人は、「火事場の馬鹿力」というものを想像してみてほしい)。

 

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「実感なき力」は、驚くほど強く、しかもそれ特有の爽快感、幸福感も付随している。

 

僕は、この幸福感に注目したい。

意識で噛みしめられるような強い幸福感ではなく、ありふれた、凡庸な、実感のない幸福感。

 

それは、普段は肌の表面をなでて通り抜けてしまうような、ある種の注意を払っていないと全くとらえられないような、しかも掴みにいこうとすると消えてしまうような、そんな幸福感だ。

 

あえて言うなら、呼吸が起きている、心臓が動いている、身体がある、といったような、ありふれた事実を改めて見つめ直すことでふと訪れるような幸福感である。(今か今か、と幸福感を待ちわびていると、たぶんなかなか訪れない。)

 

この幸福を味わうにあたって、何かが欠けている人は一人もいない。

生きていて、生命がそこにあるなら、いつでもあるものだからだ。

 

 

このありふれた幸福感が失われるとしたら、それは自分ではない何か他のものになろうとする瞬間だ。

達成感のような強い「実感のある幸福感」を追い求めてしまう時だ。

この「ありありとした実感」を求めたがる癖は、一種の麻薬のようなものだ。

 

ちなみに、ありありとした実感を求めながら、何かを達成することが難しいと感じた人がどうなるかと言うと、「痛み」という形でありありとしたものを感じようとすることに転化しがちだ。

 

なんにもないように思えるより、むしろ「痛み」としてありありと存在していた方が安心するんだろう。

我痛む、故に我あり?

 

だから、僕らが「自分をさらけ出す」という時は、痛みや傷を語りたがる。何にもないより、そっちの方がいいような気がしてきてしまう。(ポジティブなことをさらけ出すと、「自慢かよ」となってしまうし)

 

最近僕が興味を持っている、UG.クリシュナムルティという人は、こんなことを言っている。

 

もしあなたが何も問題を抱えていなかったら、あなたは問題を創り出すだろう。一つも問題がないと、生きている感じがしないからだ。

 

If you don’t have a problem, you create one. If you don’t have a problem, you don’t feel that you are living.

 

"Truth_There is no such thing as truth"

 

 

何かを達成しようとする生き方をしている限り、このサイクルにはまりがちだ。

 

 

問題がひとつもない生に対して「生きている感じがしない」と感じるのではなく、そこにおいて味わえる凡庸な幸福を大切にしたい。

そう思える勇気さえあれば、実際のところ、問題は減っていくはずなのだから。