体和日記 Tai-wa-nikki

つくばを拠点に、体和塾(カラダを和ませ、カラダで世界と和する塾)という活動をしています。主な着想元は、ハートオブヨガと武術的な身体術。

変動、交流、非・技法的カラダ

 

身体「技法」、身体「操法」、身体「術」・・・

これらの言葉からイメージされるのは、「いかにカラダを動かすか」に関する探究だということだ。

 

確かに、この視点からもたくさんのことを語ることができる。

ただし、これらの言葉が暗黙のうちに前提していることがある。

 

それは、「カラダがある」ということだ。

 

どういうこと?

 

もう少し言うと、「ここからここまでがカラダ」と言えるカラダがあり、効果的な運用法を「探究できる対象」としてのカラダがあり、技法を試し得る「媒体」としてのカラダがあるということだ。

 

ところが、この前提に立っているかぎり、見えてこない世界があるのではないか。

 

今日、僕が思い立って試したことは、いわば技法を失う技法であり、「カラダが適応するに任せる」ということだ。(僕にこの発想を与えてくれたのは、「アフォーダンス」という理論だ)

 

何かの技法を行使する媒体としての「カラダ」が存在すると見なすことをやめ、ただ、置かれた環境の中に佇んでみた。

言い換えれば、「環境」と「カラダ」の境目で起こる事を、成りゆくままに放っておいた。

 

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例えば、慣れない場所に飛び込み、緊張しているという状況。

こんな時「技法」的発想を持っていると、「ドキドキしているから、深呼吸して落ち着こう」などの手法を取りがちだ。(僕もそうだ)

言い換えれば、カラダと環境との間に境目を設け、主体としてのカラダにおいて「何をすべきか」考え始めてしまう。

 

しかし、僕らが何かをしようとしまいと、その場に置かれたその瞬間から、僕らのカラダは適応を始める。

梅干しを口に入れれば唾液が湧きだしてくるように、おのずとカラダは対応を始める。

まさに無常であり、一瞬たりとも同じ瞬間がない。

 

この変化を観察すればするほど、どこまでが自分のカラダか分からなくなる。

吸う空気、触るもの、口に入れるもの。

これらは僕らのカラダの内部に入り込んできて、カラダを変化させる。

というより、一体となってともに変化していく。もはやここに、主体も客体もない。

 

しかし、技法的にカラダを操作しようとすると、「固定化された状態」を想定しなければならなくなる。

「いまドキドキしているから○○しよう」と考えるまさにその時、「ドキドキしている自分」を固定化し、その上で方法論を組み立てようとしている。しかも、カラダを独立して扱おうとするので、カラダと環境の交流が絶たれる。

 

変動するカラダ、交流するカラダにとって、この働きかけは不自然だ。

「ドキドキしているから・・」と必死に考えれば考えるほど、ますます「ドキドキしたカラダ」が固定化し、しかも環境が介入し得ないものとして個別化していく。

 

カラダは、環境と相即なものであり、固定化も個別化もし得ないはずなのに。

 

 

カラダも環境も、ただ変化していくものであり、それらを無理に維持したり、いじったりするものではないのかもしれない。

そう思うと、これまで「わたし」だと思っていたカラダが急に遠くのものに見えた。

 

いや、むしろカラダも環境も、みんなが一体となって変動、交流する「わたしたち」と言ってもいいかもしれない。

そんなにぎやかさで生きるのは、たぶん結構楽しい。

ヨガで養われる柔軟さについて

今日、グループでのヨガコースを受けていて思ったこと。

 

通常、グループでヨガをすると、指導者の声に合わせて動いていく。呼吸の吸う、吐くのタイミングも、指導者の「吸って~」「吐いて~」に合わせて行われることが多い。

 画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、座ってる(複数の人)、室内

 

 

しかし、当然一人一人の呼吸の長さは異なり、日によっても異なるかもしれない。

一人一人に合ったヨガを重視するハートオブヨガのレッスンでは、一人一人が自分のペースで呼吸し、それに合わせて動くので、みんな動きがバラバラになる。

 

僕はこのマイペースさが好きだ。だから、みんなが一緒に動くグループクラスでも、勝手に自分のペースで動いていることが多い。

斜に構えているみたいで、これはこれで恥ずかしいんだけど。

 

今日の自分にとって、最も適切なアーサナを見つける。

そのためには、スティラ(安定、頑丈さ)とスッカ(快適さ、柔軟さ)を見つけることが大切だ。

それは、今日の自分に固有のものであり、他人と比べたり、昨日の自分と比べたりするものではない。

 

この考えに基づいていたため、僕は(頑なに)自分のペースを保っていた。

 

だけど、あれ・・・?

この頑なさは、「柔軟さ(スッカ)」に反していないか?

 

ヨガのアーサナの定義にもなっている「スティラとスッカ」は、アナンタヘビ(『ヨーガ・スートラ』の著者パタンジャリが人間に変身する前の姿)から来ているという。アナンタは、ヴィシュヌ神のベッドの役割をしていたため、「非常に頑丈かつ柔らか」でなければならなかった。この性質がイコール、スティラとスッカだ。

 

と、ふと今日の僕は、あえて指導者の声に合わせて呼吸をしてみた。「吸って」というインストラクションに合わせて吸い、「吐いて」に合わせて吐いた。

 

最初の方は、自分に合わない靴を履かされているようで違和感があった。

でも、同時にこんなことも思った。

 

もし「スッカ(柔軟さ)」がそこにあるなら、自分本来のペースから多少外れたところで呼吸しても、余裕を持って対応できるはずだ、と。

ここで言う「柔軟さ」とは、いわゆる開脚や前屈の柔軟性ではなく、ふかふかのベッドのような身心の柔軟さだ。どんな形のものが寝ても、優しく包み込んでしまうベッドのような柔軟さだ。

自分が守りたいペースがあっても、多少変動できる水のような柔軟さだ。 

 

実際、指導に従ってやり続けると、悪くなかった。

最初は違和感がある新品の靴も、履き慣れれば問題ないようなものだ。

 

でも、だからといって、明日も今日と同じようなできるとは限らない。

あくまで、今日の僕にとっては問題なく指導に合わせられた、ということに過ぎない。

 そしてこの記事は、今日という一日の記述にすぎない。

(こうして書いているうちに0時を回ってしまったので、もう昨日のことか)

 

“Set the boundary only right for today.”

「今日だけのために、その都度境界線をひこう。」

 

“Don’t put yourself certain form, find your sthira and sukha.”

「ある型に自分をはめるのではなく、自分のスティラとスッカを見つけよう。」

(J.ブラウン) 

 

 

明日の僕は、明日の僕によって決定されるしかない。

その楽しみは、明日にとっておくか。

 

空(くう)と虚しさと楽しさと。

ヴェーダンタ哲学とか、非二元論哲学に、幸か不幸か、出会ってしまった。

 

世界は空であり、そこに「ただ気づいている」究極の主体がいる、という。

 

例えば、何かイヤなことがあったとする。

その際、僕らはいろんなことを感じ、考える。

 

「あ、イヤだなー」

「どうやったらこれから逃れられるかな」

「でも、これとどうにか仲良くできないだろうか」

 

ちょっとスピリチュアルな探究に関心ある人だと、

「判断せずに、ただ受け止めよう」

「これに対しても、無条件の愛で接することはできないものか」

「判断しちゃダメって思うこの心も、判断してるんだよな・・・」

などなど。

 

これらを、どこまでも含み入れ、どこまでも包み込み、ただ気づき、絶大なる「肯定」を与える、究極の自己。

言わば、世界外存在であり、それ故、知覚され得ない。

(ヨガ哲学における究極の自己purushaも見る者Seerとして定義されており、現象世界prakritiと交わることなく存在する、とされる)

 

この「自己」さえ想定できてしまえば、人生はある意味で、絶対に安全なものになる。

どんなに現象として悪いことが起こっても、どこまでも含み入れて包み込んでくれる主体があるからだ。

「それも運命であり、起こるべくして起こったのだよ」、と。

 

この世界観に立つと、僕らが生きる日常世界はことごとく「空」だとされる。

どんな苦しみも、歓びもだ。

 

この考えを知ったとき、ある種の救いはあった。

どんな苦しみも、「空」だとしてしまえるからだ。

 

でも、考えれば考えるほど、「それって虚しくない?」と思うようになってきた。

(そもそも考えるものじゃない、感じるものだ、とか言われたりするんだけど)

 

感じろ、という言い分も何となく分かるから、考えるだけじゃなく、ヨガをしたり、感覚に任せきったりすることもある。

論理的な納得感はないけど、そこに気持ちよさはあるから。

でも、納得感は全然ない。(やばい、こんなんじゃ人にヨガを教えている場合じゃない!)

 

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僕が虚しさを感じるのは、以下のような描写だ。

 

僕たちが世界だと思っているのは実は幻影であり、「ほんとうの」世界はただそれに気づいている者である。

「ほんとうの世界」は、映画の映像ではなく、白いスクリーンなのである。

 

うーーーん。そう言われると、映画の中で生きるのが虚しくならないか?

映画の中でしか生きられないっていうのに。

 

だから、「映画と分かりつつそれを全力で演じる」とか言われたりするんだけど、それもしっくり来ない。

(名役者じゃあるまいし!)

「空だ」という自覚を持ちながら現象を生きることは、「どうせフィクションだよ」と冷めながら小説を読むようなものだ。どうしても、迷いがあり、逃げがあり、入り込めなさがある。そんなんじゃ、感動もできないし、それこそ何のために生まれてきたんだ?と。

(最近、個性が乏しくて悩む主人公の小説を読んだ。彼は自分のことを「色彩がない」と称したが、ここで言っている虚しさは、そのレベルのものではない。だって、白黒ですらない「空」なんだから!)

 

 

とは言え、これらの記述をする啓発的な本を非難しているわけじゃない。

これらの本にも、一種の真理が含まれていて、それに救われる人もいると思う。

 

最近つくづく思うのは、あらゆる意味で、人生の極致は、言葉で直接指し示せない、ということだ。

「直接」と言ったのは、通常の科学的事実を述べるようには述べられないということ。

 

でも、たとえフィクションの小説や、一見意味不明の詩であっても、ある人に、あるタイミングにおいて、決定的に重要な意味を持ったりする。(とは言え、ある特定の言葉にずっと頼って生きていくことはできないのである!)

 

僕がヴェーダンタ哲学や非二元論哲学の本を読んだとき、そこには確かに救いがあった。

あくまで、その時、そのタイミングにおいては。

 

このタイミングは、その人に固有のものであり、だからこそ安易に「本のおススメ」なんてできないな・・・

 

 

改めて、再確認したいこと。

「永続的に通用する言葉や方法を見つけようとするな!」

(ってことは、この言葉も永続的には使えないのか)

 

なんだか、ものすごくまとまりの文になってしまった。

しかも、出口のない思索に見える。

(ある視点からは、これらすべてを「空」と言ってのけることも可能だ)

 

もうしばらく、悩んでみよう。

でも、だからといって暗くはならない!

それすらも楽しみたい。

と、ひとまず強がってみるか。

実感なき凡庸な幸福

「幸せになる勇気」。

 

僕なりに言い換えると、「凡庸である勇気」となる。

 

何か優れたことをしないと、「よい」人生だと思えないような心。

どういうわけか、ほとんどの人に備わってしまっている。

 

幸せになるために必要なことは、この強迫観念から抜け出すことに尽きるのでは?

最近僕はそう思う。

 

確かに、何か優れたことを成し遂げようと、文字通り身を粉にして努力し、達成したとき。

この達成感は、たしかに格別だ。

(しかし、この「優れた」というのは、誰が決めたことなのだろう?)

ありありと感じられる、「実感のある幸福感」と呼びたくなる。

 

しかし、この「実感のある幸福感」を、僕らは過剰に要請しすぎかもしれない。

言い換えれば、僕らの意識が、常に「喜びたがり」、「幸せを噛みしめたが」っている。

 

この状態は、力を出そうとして思い切り力んでしまう筋肉に似ている。この過剰さは、苦しいし、ケガを引き起こすかもしれない。

ありありと筋肉の力感が感じられる、「実感のある力」は、実は拍子抜けするほど弱かったりする。

 

僕が今まで出会って来た武術の達人たちは、何の変哲もなく、ひょいとやった動きでとんでもない力を出す(イメージが湧かない人は、「火事場の馬鹿力」というものを想像してみてほしい)。

 

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「実感なき力」は、驚くほど強く、しかもそれ特有の爽快感、幸福感も付随している。

 

僕は、この幸福感に注目したい。

意識で噛みしめられるような強い幸福感ではなく、ありふれた、凡庸な、実感のない幸福感。

 

それは、普段は肌の表面をなでて通り抜けてしまうような、ある種の注意を払っていないと全くとらえられないような、しかも掴みにいこうとすると消えてしまうような、そんな幸福感だ。

 

あえて言うなら、呼吸が起きている、心臓が動いている、身体がある、といったような、ありふれた事実を改めて見つめ直すことでふと訪れるような幸福感である。(今か今か、と幸福感を待ちわびていると、たぶんなかなか訪れない。)

 

この幸福を味わうにあたって、何かが欠けている人は一人もいない。

生きていて、生命がそこにあるなら、いつでもあるものだからだ。

 

 

このありふれた幸福感が失われるとしたら、それは自分ではない何か他のものになろうとする瞬間だ。

達成感のような強い「実感のある幸福感」を追い求めてしまう時だ。

この「ありありとした実感」を求めたがる癖は、一種の麻薬のようなものだ。

 

ちなみに、ありありとした実感を求めながら、何かを達成することが難しいと感じた人がどうなるかと言うと、「痛み」という形でありありとしたものを感じようとすることに転化しがちだ。

 

なんにもないように思えるより、むしろ「痛み」としてありありと存在していた方が安心するんだろう。

我痛む、故に我あり?

 

だから、僕らが「自分をさらけ出す」という時は、痛みや傷を語りたがる。何にもないより、そっちの方がいいような気がしてきてしまう。(ポジティブなことをさらけ出すと、「自慢かよ」となってしまうし)

 

最近僕が興味を持っている、UG.クリシュナムルティという人は、こんなことを言っている。

 

もしあなたが何も問題を抱えていなかったら、あなたは問題を創り出すだろう。一つも問題がないと、生きている感じがしないからだ。

 

If you don’t have a problem, you create one. If you don’t have a problem, you don’t feel that you are living.

 

"Truth_There is no such thing as truth"

 

 

何かを達成しようとする生き方をしている限り、このサイクルにはまりがちだ。

 

 

問題がひとつもない生に対して「生きている感じがしない」と感じるのではなく、そこにおいて味わえる凡庸な幸福を大切にしたい。

そう思える勇気さえあれば、実際のところ、問題は減っていくはずなのだから。

何はともあれ、楽しく生きたい。

陣痛ー新しい思想が生まれる際の。

(これはウィトゲンシュタインの言葉をちょっといじった。)

 

何かが大きく変わろうとしているとき、文字通り身体的な「痛み」に似た感覚を味わうことがある。

それに耐えうるだけの、心身の柔軟さが必要だ。

心のマタニティヨガ、とでも言うべきか。

(うまいこと言っているようで言えていない感じが恥ずかしいけど、なぜかこの比喩が浮かんできたのだから、しょうがない。)

 

残念ながら、僕は間違っていた。

そう思うとき、今まで自分が頼っていた補助輪、あるいは吸っていた空気、立っていた地表。

それらに、もはや頼ることも、吸うことも、立つこともできないと知ったとき、何とも言えず苦しい。

 

でも、そこで「苦しみたがる」自分がいるのは、まだその古いものにすがろうとしている証拠だ。

苦しみに浸ろうとするのは、たいていの場合、そうしたいからであり、まだ古い自分にすがりたいからであり、生まれ変わる潔さが持てないからだ。

 

苦しんでいること、悩んでいることがなんだか格好良く見えるという、変に屈折した価値観を、僕らは持っている。

それ自体は別に悪いことではないけど、このことに浸りすぎると、自傷癖に似た厄介な性格が顔を出してくる。よくよく考えれば大したことでもないのに、それに悩んだようなしぐさをするのは、リストカットにも近い行為だ。

 

間違っていたかに思える過去も、結局のところ頑張って生きた自分の生の結果に過ぎないのだ。

とりあえず「イイね」を押して、また前に進もう。

 

 

楽しく生きるためには、練習も、反省もいらない。というより、不可能だ。

その都度やりたいことに対して正直になることで十分であり、それ以外にできることはない。

 

その「楽しさ」は、自分だけが知っていればそれでよいのであり、他に何も意味付けはいらない。

 

文章を書いているこの瞬間にも、僕の生は流れている。

その僕の生命が喜ばないなら、こうして僕が書くことに何の意味があるだろうか。

 

たった今の僕にとって書くことは、生きることとイコールであり、何か他の生のために書いているのではない。

生きている僕の命の総体が、いま、書くという行為を通して発現している。

 

ある時は ヨガという行為を通して発現し、またある時は人と話すということで発現する。

 

こうして表れる「生」は、ダンスであり、進む方向がない。

このダンスが楽しそうに見える人は、一緒に踊ってください。

 

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この記事を書いた今夜は、なぜか眠れなかった。

こういう夜が、最近たまにある。

 

思考が泳ぎたがっているというか、なかなかじっとしてくれないような感じだ。

そんな時は、思う存分泳がせてあげると、ちゃんと疲れて、安心して眠れる。

だから、深夜にこうして書いている。

 

明日は午前からヨガの仕事があるけど、こればっかりは仕方ない。

 

むしろ、自分に正直であることを伝えたいのに、たったいまの自分が自分に対して不誠実だったら、自己矛盾も甚だしい。

 

 

正直に生きようとすることが、時に人と衝突し、傷つけることもあると痛感した。

これからも、人に迷惑をかけることは避けられないのかもしれない。

 

でも、何かをイヤだと思うことはあっても、心から憎むことはない。

今日イヤだと言ったことでも、一緒に笑える日がいつか来るかもしれない。

そんな僕と出会ってくれてありがとう。

 

ハートオブヨガトレーニング名言集

今年3月に受けた、ハートオブヨガのティーチャートレーニング。

1か月半くらい経過した今、改めてノートを振り返り、心に響く言葉たちを書き連ねてみました。

 

いろいろコメントしたいところですが、今回はひとまず羅列するだけにしてみます。

発言者は、だいたいが講師のJ.ブラウン先生。

 

英語は急いでメモしたものなので、多少不正確かもしれません。

 

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「自分がヨガに感動し続けないと、ヨガは伝わらない。」

 

“Do philosophy by your breath.”

「あなたの呼吸で、哲学しよう。」

 

“Yoga happens in mutual affection.”

「ヨガは相互の愛情の中に起こる。」

 

“Set the boundary only right for today.”

「今日だけのために、その都度境界線をひこう。」

 

“It is much more important to smile even if you fall than to stand with your one leg.”

「片足で立てることより、転んでも笑えることの方がずっと大事。」

 

“I have many struggles, I can do hand stand though.”

「僕は人生でいっぱい問題を抱えている。ハンドスタンドはできるけれど。」

 

Swami “How do you feel?” 「どんな風に感じる?」

J “I don’t know at all!” 「全然わかんないよ!」

Swami “Good.” 「それでいい。」

 

“Give yourself permission, You make your own rule.”

「自分自身を許そう。自分だけのルールを作ればいい。」

 

“We don’t need enlightenment any more. We need intimacy.”

「悟りはもういらない。親密さが必要だ。」

 

“Stop thinking that we do physical exercise. I don’t need anything but Arm Flow, do I ?”

「肉体的なエクササイズをしているという考えをやめよう。アームフロー以外、もう何もいらないんじゃない?」

 

“Don’t sit like a yogi, sit like a normal person.”

「ヨギみたいに座らないで、普通の人みたいに座ろう。」

 

“Yoga Sutra of Patanjali is not prescription but a description.”

「ヨガ・スートラに書かれていることは、課された処方箋ではなく、単なる描写である。」

 

“Yoga is practice of intimacy.”

「ヨガは、親密さの練習だ。」

 

“Breath cannot be controlled. We can only regulate it.”

「呼吸は決して「コントロール」されない。私たちができるのは、それに関わることだけである。」

 

“You can try as long as you can enjoy it.” 

「それを楽しめる範囲なら、チャレンジしてみよう。」

 

“Do we make a horse open the legs? We must be natural as we are.”

 「馬に開脚させるか?私たちは、自分にとって自然であるべきだ。」

 

“Right alignment doesn’t exist. Right Down Dog doesn’t. Only ‘your’ Down Dog does.”

「正しいアライメントは存在しない。正しいダウンドッグも存在しない。ただ、『あなたのダウンドッグ』があるだけである。」

 

Undoing of dysfunction is result of yoga practice.

「プラクティスの結果として、あらゆる機能不全がほどかれていく。」

 

“Yoga is methodless method.”

「ヨガは、方法論なき方法だ。」(J.クリシュナムルティ

 

“We cannot do meditation, we only create the condition.”

 「瞑想そのものは練習できない。条件を整えることができるだけである。」

 

“Body knows you more than your mind.”

「カラダは心よりもあなたのことをよく知っている。」

 

“Too much science may lose magic.”

「科学のしすぎは魔法を失わせるかもしれない。」

 

“Don’t put yourself certain form, find your sthira and sukha.”

「ある型に自分をはめるのではなく、自分のスティラとスッカを見つけよう。」

 

“Be honest to what you desire. Be selfish, and feel free.”

「自分の求めるものに対して正直でいよう。自分勝手に、自由に。」

 

“Tell people around you ‘isn’t it cool?’ with passion. We don’t need to persuade.”

「情熱を持って、周りの人に、『これってすごくない?』って言ってみよう。説得する必要はない。」

 

“Non-obsessive! Just inhale from above, and exhale from below!”

「神経質になりすぎないで!ただ上から吸って、下から吐けばいい!」

 

“Do your practice. See what happens.”

「あなたのプラクティスをして、何が起こるか見てみよう。」

 

“Heart of yoga is participation in wonder of Life.”

「ハートオブヨガのプラクティスは、生命の神秘に参与することだ。」

 

境界としてのヨガマットの機能

 

現代にヨガをする人にとって、欠かせないアイテムとなりつつあるヨガマット。

 

しかし、それが一般的になったのは、いつ頃なんだろう。

 

伝統的なインドの行者たちが僕らのようなゴム製のマットを使っているとは考えにくい・・

 

いろいろ調べたけど、正確な時期は特定できなかった。

 

おそらく、起源としては、多彩なポーズをとる際に、足が滑りにくい、座ったとき、寝そべったときに気持ちいい、などの役割があったんだろう。

 

それに加えて、意図的かどうかに関わらず、以下のような機能も付加されているようにも思える。

 

ヨガとそうでないものの境界

社会生活を送りながらヨガをする多くの現代人にとって、ヨガマットは、「ヨガとそうでないものの境界」として機能している。

 

ちょっと大げさにいうと、ヨガマットの上は、「聖なる空間」。

ヨガマットを広げ、その上に乗った瞬間、普段の雑多な世間からいったん離れる。

「マットの上の私=ヨガモード」いう人も多いんじゃないか。

 

自然と一体化しようとする営みであるヨガにおいて、人工物であるヨガマットが介入していることは不純と言えば不純だ。

できれば、まるっきり人工物ではなく、土に還るような環境にやさしい素材を使ったマットを使いたい。

(つい最近、ふたりの方からこのことを指摘された。恥ずかしながら、僕自身がマットを購入した際は、このことを考えられていなかった。)

 

とは言え、人工物であることのメリットもある。

 

ヨガマットは、人工物であるがゆえに、(少なくともマクロの視点では、)昨日も今日も明日も、変わらずにそこに存在していてくれる。

一方で日常を生きる「私」は、一時たりとも同じではない、自然物。

時には、マットに立つ際に、気持ちがすさんでいることもある。

 

そんな時に、いつも変わらずに存在してくれているマットのおかげで、いつもと同じ場所に還ってくるような気分になる。

アリストテレスの言葉を使うなら、「不動の動者」。いつも変わらず、僕を導いてくれる存在。

 

ちなみに僕のマットには、ハートオブヨガのシニアティーチャーであるJ先生のサインとメッセージが書いてある。マットに立つたび、新鮮に、ヨガの力を思い出させてくれる、貴重なリマインダーとして僕は利用している。

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 自己と他者の境界

「境界線」としての役割は、「私」と「私でない人」の間にも働いている。

 

このことが特に顕著なのが、大人数でのヨガクラス。

 

花見でシートを敷き、自分の場所を確保するように、ヨガのクラスでも、マットを敷いて「自分の居場所」を確保しようとする。

 

この「境界」を、自分ではそんなに意識していなくても、他人が敷いたマット(=他人の居場所)に立ち入るのは、気が引けるはず。

 

無意識的に、ヨガのクラスの空間に、いくつも境界線が引かれていく。

 

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もしかしたら、ヨガマットの色やデザインによって、「個性」を発揮しようとする人もいるかもしれない。それもひとつの機能だ。 

 

達成され得ないOneness

 

ところで、もともとヨガは「結合」を意味する単語だ。

 

ヨガの目的には、「ヨガとそうでない(と思っている)もの」の結合、「自己と他者」の結合も含まれているはずだ。

 

ならば、究極的には、無意識のうちに引いているあらゆる境界を取り去りたい。

 

結合、Union、Oneness・・・

 

これらの言葉を用いて表現される世界観が、真に現実のものとなるならば、それはヨガマットがいらなくなった時、とすら言えるかもしれない。

 

「今はヨガの時間」、「今はヨガじゃない時間」。

「ここは私の場所」、「そこはあの人の場所」。

 

そんな区別が問題にならないくらい、「ヨガ」が実践できたらいいんだけど、なかなかそうもいかない。

 

現実問題として、これらの区別を設けないと、実践が進まない。

 

とは言え、ヨガマットを使うという手段、もっと言うならあらゆるポーズや呼吸法のテクニックなど、、

これらに頼っているかぎりは、常に境界線を引き続けている行為になる。

 

だから、手放しでは喜べないんだよね。

いつかは捨てる、補助輪をつけながら走っているような感じ。

 

ウィトゲンシュタインはこう言った。

 

登り切ったハシゴは、投げ捨てなければいけない。

 

ヨガマットも、ポーズも、呼吸法も、すべて投げ捨ててしまえる日が、僕に来るだろうか。

来たら来たでよし。

来なくても、諸々の手段に頼る中で、常にその手段から離れようとする運動のなかで、そこにヨガが生じている。