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体和日記 Tai-wa-nikki

カラダを和ませ、カラダで世界と和する。ヨガや身体操法を用いて人間の身心を考える大学生の日記。

色覚異常の僕が困る8のこと

 

実は僕、色覚異常なんです。

前回このことを公表し、それなりに反響がありました。

 

具体的に、どんな場面で困るか、その例を挙げていきます。

色覚異常の人がみんなそう、ってわけではありません。あくまで、僕の経験から。

 

ちなみに、僕が異常を自覚したのは、たぶん中学生くらいです。両親は僕が生まれたときから知っていたわけですし、中学生以前にも僕に教えてくれていたような気がしますが、人と見え方が違うことを僕自身がちゃんと自覚したのはたぶんそのくらい。

それまでは、「なんか違う気がするな~」くらいでした。

 

①お絵かき、ぬり絵

最も困る年代は、たぶん幼稚園から小学校低学年くらい。色鉛筆とかクレヨンで、「○色で書いてー」という要望は、大の苦手だった。というより、「なんでみんな簡単にできるんだ?」と思っていた。

 

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②植物のスケッチ

小学校でよくある「アサガオの観察」など。これ、本当に難しかった!

「ほんとうにこんな風に見えた?」って先生に聞かれたときは、「ああ、なんか間違えたんだな」と思っていた。

 

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ちゃんと、「きれいだな」とは思う。 

 

③サッカーのユニフォーム、ビブス

高校まで、人生のほとんどを捧げていたサッカーの中でも、たまにこの問題は起きた。

今でも覚えているのが、高校の時のある練習試合。

 

僕らがえんじで、相手がピンク。見分けにくい、ってことで、僕らがアウェー用の白に着替えた。

でも、僕からすると、えんじとピンクは全く別の色。そして、ピンクと白は、とっても見分けにくい。

「元に戻して!」と思ったけど、そうするとみんなが困るので、この日は我慢した。

 

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色覚異常は、「見分けの能力が低い」っていうより、「見分けの基準がズレている」んだと思う。

 

 ④焼肉

赤系と茶色系の見分けが難しい僕にとって、焼肉の焼き加減は大問題。

処世術としては、不器用なふりをして誰かに焼いてもらう。

肉だけのBBQ

「これ、もう食べていい?」何回も聞くけど、辛抱づよく教えてください。

 

⑤紅葉がきれいに見えない。

日本人としては、なかなか痛い。緑の葉っぱと赤い葉っぱの差があまりないので、紅葉のきれいさはなかなか分からない。イチョウくらい突き抜けて目立ってくれると、分かるんだけど。

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そうそう、こういうとき。ちょっと遠くの山を指して、「紅葉きれいだねー」と言う人。「どこのことをきれいだと言ってるんだろう??」となる。

 

ちなみに、桜はきれいに見えます。

 

 ⑥「緑色のお皿取って」

バイト先で言われたこと。こういう何気なさが、けっこうキツイ。特に、緑とか地味な色だとね。。

 

⑦「あのピンクの服の子がさー」

こういう会話もしかり。ごめん、そういう記憶の仕方をしないんだよ。

 

⑧女の子「私きのう髪染めたんだ~」

う、、ってなる。もう少し明るくしてくれりゃ気づくのに。

 

 

いかがでしょうか。

 

ちょっと同情する??笑

 

まあ、たまに困ります。

 

でも、日常の大方は問題ないです。信号も、ちゃんと見えます。

 

それに、悪いことばっかりでもない。次回は、ちょっと得したことについて、書きたいと思います。

僕、実は○○なんです。

 

いきなり何のカミングアウトだよ、って感じでしょうか。

 

まぁ、そんなに深刻にならずに受け止めてくださいな。

実際、そんなに深刻なことではないですから。

 

実は僕、先天的に色覚異常なんです。

 

そんなに珍しいことではありません。男性の20人に1人がそうらしいです。

以前は小学校で全員検査をしていたそうですが、2003年から廃止されてしまったようです。

だから、特に1993年以降に生まれた方は、一度チェックしてみたほうがいいかもしれません。

(参考サイトはこちら

 

緑系、青系、赤系に分かれるらしく、僕の場合は全部なんですね。

先天的な色覚異常は、隔世遺伝します。特に男の人に多く表れます。

だから、僕の孫の代に男の子が生まれたら、その子も高確率で色覚異常になるようです。

 

僕の場合はというと、祖父がふたりとも色覚異常なので、生まれた時点でもう逃れられない運命だったようです。笑

 

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 沖縄にいる祖父と、シーサーつくったとき。

 

「異常」のとらえ方

 

ごく親しい人を除いて、あまり公表していませんでしたが、今回公表する決意をしたのは、色覚異常を持って生まれてきたことを、ものすごく肯定的にとらえてくれる人に出会ったからです。

「なにそれ、面白いじゃん!」と。

 

以前の僕は、そんなに深刻な問題でもないけど、困るときは困るよなぁ、くらいの認識でした。

 

でも、よくよく考えると、僕の人間形成において、良くも悪くもかなり影響を及ぼしているのかも、と思えてきました。それに、僕から見える景色が人と違うということは、それ自体でかなり面白く、追求する価値があるんじゃないか、と思うようになってきました。

 

色覚異常であることで、困る事、逆に得すること、知ってもらいたいことなど、今後できるだけ記事にしていきたいと思います。

 

それにしても、「異常」っていう言葉になると、なんだか大変なことのように聞こえるよなあ・・・

 

通「常」とは「異」なるって言えば、そんなに大したことじゃない気がするんだけど。

なぜか「いじょう」という響きになった途端、仰々しい雰囲気になる。

 

それでも、以前に使われていたという「色盲」や「色覚障害」よりはマシだ。

(少なくとも、「盲」ではない!色は見えている。色の識別が、通常とはちょっと違う、っていうだけです。)

 

ところで、20人にひとりだからしょっちゅう出会ってもおかしくないはずなのに、「私は色覚異常です」っていう人に僕は出会ったことがない。

隠しているのか、自分でも気づいていないのか、そんなに大した問題じゃない、と思っているのか。

 

この際なので、もし心当たりがある方がいらっしゃったら、こっそり教えてくれると嬉しいです。

 

概念を楽しんでいる? 英語でYoga。

何を楽しんでいるのか?

 

Are you enjoying by the pose itself? Or by “doing” the pose?

 

あなたはポーズそのものによって歓びを得ているか?

それとも、ポーズを「すること」によってか?

 

 

ハートオブヨガのティーチャートレーニングにて、ちょっと哲学チックなこんな問いかけ。

通訳さんも、訳すの大変だっただろうな。

 

何気ない一言だったけど、僕の中で引っかかっていた。

このことで何を言おうとしていたのか?

 

ヨガの練習において、ポーズをとる。

 

例えば、チャトランガというポーズがある。

腕立て伏せに似た、多少腕力に負荷がかかるポーズだ。

 

ジェイは繰り返し言った。

 

Even if it is challenging for you, you can try as long as you can enjoy it.

負荷がかかるものでも、それを楽しめる限りチャレンジしていいよ。

 

 

でも、このenjoyが、何によるenjoyなのか。

僕らは、ここを問う必要があるのではないか。

 

その「楽しんでる」は・・

 

多少の負荷なら、筋肉にも心地よい。

でも、「頑張ること」がクセとして身についている僕らは、ついつい無理をしがちだ。

チャトランガで、明らかに苦しそうなのに腕の筋肉を頑張らせ続けてしまう人もいる。

 

だが、それすらも「楽しんでるよ!」と言えてしまう人がいるのだ。

 

その「楽しんでいる」は、本当に「チャトランガそのもの」を楽しんでいるのか?

 

例えば、腕に負荷をかけ、「負荷に耐える自分」を楽しんでいたり、「頑張れる自分」を(自他へ)アピールすることを楽しんでいたり、「このポーズによってこんな効果が得られる!」という効果に酔っていたり。

 

つまり、ポーズそれ自体を楽しんでいるのではなく、ポーズを「すること」によっていろいろ付いてくる副産物を楽しんでいる。言い換えれば、「ポーズをとっている」のではなく、むしろポーズに付随する概念を遂行しているに過ぎない。

 

別に、それらが悪いわけじゃない。

前にも書いたけど、不純な動機が混じっていても、楽しめるならそれでいいのだ。

 

概念に傾くと、カラダから離れる

ただ、注意しておきたいこともある。

 

ポーズそのものではなく、それに付随する概念を楽しんでいるとき、今ここにあるカラダと向き合っているようで、実は向き合っていない、ということが起きてくる。

 

「ポーズに付随する効果」に酔いながらポーズをとっているとき、(しかもそれを「楽しんでいる」とき、)注意はどこに向いているか。「効果を得た自分」という架空の存在に向いていたりするのだ。

 

そのまま練習していると、ちょっと危ない。今ここにあるカラダが、向き合う対象ではなく、「効果を得る」というストーリーを遂行するための道具になってしまう。リアルタイムで訴えかけてくるカラダの声が聴けないので、ケガの危険もある。

 

というわけで、ヨガの練習においては、「何を楽しんでいるのか?」という問いが重要になる。

もし、ポーズそのものではなく、何かとってつけた「意味」や「概念」(効果やカッコよさなど)を楽しんでいるとしたら、ちょっと注意が必要だ。

 

 

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チャトランガwith 8歳の少女

もしかしたらこのときの僕は、ポーズそのものより、「子どもをくっつけてポーズをとっているという面白さ」や「撮られるであろう写真の面白さ」を楽しんでしまっていたかもしれない。事実、ちょっと腕に負担をかけすぎた気がする。

ブックレビュー『なぜ母親は、子どもにとって最高の治療家になれるのか?』

母親のような強い気持ちと、それを可能にする技術

 

ケガをした子どもに、母親がそっと手を当てる。無意識的に行うその行為にこそ、どんな治療技術にもまさる力があるのかもしれない。

 

我が子の身体の奥深いところにあるその“治る力”を信じ、<手当て>ひとつでその力を引き出すことができる「我が子を思う母親」というのは、(中略)いつの時代も変わらぬ「最高の治療家」なのです。

(「はじめに」より)

 

このことを、プロの治療家として何人もの治療に携わってきた著者が言うのだから、説得力がある。

 

「治したい!」という母親のような強い気持ちと、それを可能にする治療技術。どちらが欠けても治療は成り立たないが、どちらがより不可欠かというと、前者だろう。

まず「治したい!」という気持ちがあり、それから手段としての技術があるのであり、治療技術が先にあるのではない。

 

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とは言え、著者は決して技術をないがしろにしているわけではない。筆者はあらゆる研究分野を柔軟に取り入れ、最先端の治療技術を追求しており、本書でも具体的な治療技術の手引きは紹介されている。

 

でも、極論「治るならなんでもいい!」のだ。

ある方法を忠実になぞることは、それ自体には意味はない。

 

治療技術や健康法に限らず、あらゆる方法論で溢れる現代は、このことが忘れられがちだ。

方法論が具体化し、詳細になるほど、それをやること自体が目的化してしまう。

 

最もシンプルなものこそ効果がある

 

本書の最後で紹介される方法は、「手当て」という極めてシンプルなものである。

 

このシンプルさならば、誰もが実践に移せる。あるいは、もうすでに実践している。(頭痛のときに頭に手を当てたことがあるなら、すでに実践者だ。)

 

方法論は、実際に行われてこそ意義がある。

そういった意味で、シンプルであるということはひとつの力だ。

 

シンプルであればこそ、多くの人によって実践され、効果を挙げることができる。

 

 

 

手当てが教えてくれること

 

というわけで、この本を読んだ僕も、手当てによるセルフケアを始めてみた。

 

寝る前に、数分間自分のお腹に手を当て、呼吸を繰り返す。

 

やってみて感じるのは、手を当てることそれ自体より、自分の身体を労わる時間をつくることそのものに価値があるんじゃないか、ということだ。

もちろん、手を当てることによる効果も感じている。

 

でも、それより自分の身体に耳を澄ませ、敏感になるための時間を確保すること。

そうすることで、自分の身体が発するシグナルに敏感になることができる。

 

セルフ手当ては、それ自体にも治癒効果がありそうだが、それに加えて自分の身体との親密さを増し、自分の身体が求めているものに敏感になれるという効果もあると思われる。自分の身体の声がより聴けるようになれば、錯綜する方法論に惑わされることなく、自分にとってよい選択をすることができそうだ。

 

 

治療家による思索、誰でもできる手当て法など、気になった方はぜひ手に取ってみてください。

 

『なぜ母親は、子どもにとって最高の治療家になれるのか?』(和器出版)

「成長モデル」の落とし穴

  1. できない
  2. 意識しながら、ゆっくりとならできる
  3. 意識しなくてもできる

 

運動技能を習得する際の成長モデルとして、一般的に用いられる図式を持ち出してみました。僕の記憶では、高校の頃の保健体育の教科書にも登場した気がします。



例えば、サッカーのパスを練習する際には、足の角度は味方と水平に、味方の位置を見て、次にボールを見る、といった具合にポイントを意識しながら練習し(させられ)ます。高校時代、僕は「サッカーの基本」ともいえるこれらの要素を常に「意識しながら」練習することが大切なのだと教え込まれてきました。

 

もちろん、新しい運動を習得していく際に、意識的にポイントをおさえて繰り返し練習することは重要です。そのことでカラダが動きを覚え、自動化していく。このプロセスを踏んでいくこと自体は僕も否定しません。

 

 

 

 しかし僕はこのような常識的な成長モデルに対して、二重に疑問を感じるのです。

二重にとは、第一に、意識的に練習するということは、ある程度の段階までは有効であるものの、ある段階を超えてからはむしろ邪魔になる、ということ。

第二に、何か新しいことを習得する際にも、意識していてはダメなことがあるということです。言い換えれば、意識していては決してできず、ふと意識が外れた瞬間にできるようになる、という領域が存在するということです。

 

意識「し過ぎない」練習

 第一の理由に対して、例を挙げてみます。僕の高校時代のある日、サッカーの練習中に接触プレーで軽い鼻血が出たことがありました。この時は練習を止められる雰囲気ではなかったので、手で血を抑えながらなんとかプレーを続けたのです。ところが、この時のプレーが、自分でも驚くほど冴えていました。

 

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 この時は鼻血を止めることで必死だったので、前述した足の角度などはもちろん、その練習内容もほとんど意識できていなかったのです。鼻血に8割くらいの意識を配りながら、頭の片隅でなんとかプレーについていっていた状態でした。

 

この時の僕は、ほとんど「意識していない」状態だったのです。これは「基本」を蔑ろにしていることなのでしょうか。否、ほとんど意識に上らない状態のまま、僕はいつになく完璧に「サッカーの基本」をこなせてしまっていたのです。

 

重要であることと、意識的にやらなければならないことは必ずしも一致しません。むしろ、意識的にやることでその精度が落ちたり、逆に意識しないことでおのずと正確になったりすることがあります。

 

このことに関しては思い当たるところがある人は多いのではないでしょうか。何気なくできていたことが、意識し出した途端急にできなくなる。そんなときにすべきことは、「基本を意識し直すこと」ではなく、はじめの「何気なさに」戻ることなのかもしれません。(こう言うと基本を軽視しているように思われるかもしれませんが、そうではありません。大事だからこそ、意識の支配下に置かずに「何気なさ」に任せるべきではないか?ということです。)



 まったくの散漫であることも問題ですが、生真面目な人の場合多くは「意識しすぎ」なのが問題なのです。「意識する」という練習はさかんに行われるのに、「意識しすぎない」という練習はどういうわけかほとんど行われません。ここに、運動技能を高める教育をする際に見直すべきポイントがあるように思います。(運動技能のみに留まる話じゃないかもしれません。)

 

素人の怖い物知らず

第一の理由はわかるけど、第二の理由は分からないという方もいるでしょう。無意識にできるのはある程度練習を重ねた人だから可能なのであって、初めて行う運動は、やはりポイントを意識して行わなければうまくできないはず、という指摘があることでしょう。確かにそうですが、こんな例外もあります。

 

「素人の怖いもの知らず」という言葉があります。まったくの初心者が、その運動の難しさを知らないがゆえに、簡単だと思って行い、本当にできてしまう現象を指していいます。いや、実際には簡単だとすら思っていないかもしれません。行う運動に対して、「簡単そう・難しそう」といった予測や、「うまくやってやろう」といった恣意がまったくはたらいていないからこそ、できてしまうのです。

 

 なんとなく行うからこそ入れるこの状態は、ポイントを意識したりした時点で絶対に入れません。「意識しろ」の弊害はこんなところにもあります。



 だからこそ、僕は「なんとなく」という感覚が大事なんじゃないかな、と思います。「なんとなく」とらえているものとは、それがはっきりと言語化できないがゆえに、概念的な世界(意識できる世界)とカオス的な世界(まったく意識的には捉えられない世界)のちょうどあいだに位置するからです。

ところが、この「なんとなく」という感覚ほど信用されていないものはありません。背景にあるのは、異常なまでの意識への信頼感と、カラダへの不信感でしょう。

 

 カラダへの信頼感を取り戻すことは、人間が一動物として生きていくうえでとても大切なことだと思います。「意識する」をあまりにも重視しすぎることは、意識の支配下にカラダを置かないと信用できない、と言っているようなものです。僕は冒頭の成長モデルに対し、「もうちょっとカラダのこと信用してあげなよ」と言いたいのです。

 

有難みに気づくということ。

失ってからでは…

 

有り難さは、それを失ったときに初めて気づく。

 

何かにつけ、よく言われる言葉だ。

 

「在る(有る)」ことが当たり前だと思っているときは、それがどんなに尊いことか、なかなか気づかない。

「有り難い」という漢字が、まさにそのことを表しているよね。

 

でも、失ってからでは気づけないものもある…

 

失ってからその有難みに気づこうとしても、時すでに遅し、というものもある。

 

 

3月に受講したハートオブヨガ指導者養成講座にて、マーク・ウィットウェル、J.ブラウン両先生が言い続けたこと。

 

 You are the extreme intelligence of life.

あなたは生命のこの上ない英知である。

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マークとは、スカイプでの会話。

 

あなたは今そのままで、完璧で、奇跡である。

マークとJは、どの人を前にしても、そう繰り返した。

 

正直、人によっては受け入れがたい言葉だと思う。

僕も、完全に腑に落ちたとは言いがたい。

 

でも、こんな風に考えてみるとどうだろう? 

 

呼吸をする。心臓が鼓動を打つ。血が流れている。

何より、この世界が存在していて、その中に僕が存在していること。

 

残念ながら、それらはその性質からして、失ったときには気づけない。

だから、今まさに、ここで起きていることに気づくことこそ、その有難みを感じることだったりするのだ。

 

たかが「気づく」だけど、よく考えれば僕たちが「幸せ」と呼ぶことの多くは、「気づく」ことから生まれている。

 

「気づく」ための営み 

とは言え、そんなお説教は聞きたくない、という人も多いだろう。

 

ハートオブヨガが出す結論はシンプルだ。

 

言葉は聴かなくてもいいから、練習してみなさい。

 

呼吸をして、その呼吸とともに動く。

 

その心地よさがカラダに残るだけでいい。

 

あえて言えば、生命として存在している自分に、今まさにここで気づく。

 

そんな営みが、ヨガの中で起きている。(自覚するときもあり、しないときもある。)

 

もちろん、僕らが気づかなくとも、そこに生命はあり、マーク流に言えば、「生命のこの上ない英知」として存在している。

 

でも、それに「気づく」か否か。

小さなことのようだけど、実はそのことで、幸せが大きく左右されるのではないか。

 

それに「気づく」ための営みが、別にヨガである必要はないと思う。

僕は、好きでやっているのであり、それ以上でも以下でもない。

 

聖人ではない僕が、毎日ヨガをするために。

続けるには・・

 

継続は力なり。

 

特に、カラダに関わることは、ある程度続けないとその効果や影響は分かりにくい。

 

なぜか?

 

カラダが恒常性を持った物体だからである。

 

カラダには恒常性があるから、ちょっとのことでは変わらない。「これまで通り」を維持しようとする。

 

逆に言えば、一旦何かが習慣化してしまえば、カラダはその習慣を恒常性として維持しようとする。

 

では、続けるにはどうしたらよいか。

 

例えば、ランニングという習慣を考えてみる。

 

高校時代の僕は、「サッカーの試合で活躍したい!」という目標があり、そのために毎朝グラウンドを走っていた。

 

当然、辛いときや疲れているときに、「今日はやりたくない…」と感じることも多々あった。

でも、それでもこの習慣を継続できたのは、先に挙げた目標や、部活の仲間など、「僕を突き動かす何か」が常に存在していたからだろう。

 

ある時は、成功しているアスリートの言葉に勇気づけられ、ある時は頑張っているチームメイトに刺激を受け、ある時は目標を意識し直して・・

 

いわば、「今日走ればきっといいことがある!」という気持ちを維持できるよう、自分に魔法をかけ続けていたようなものだ。その自分に酔っているあいだのみ、僕は走ることができる。魔法が解けかかっている時は、必死になって魔法をかけ直すための材料を探し、また自分に魔法をかけた。

 

魔法が解けるとき

 

だが、高校のサッカー部を引退したその日から、僕のこの習慣はパタリと終わった。

 

目標がなくなったんだから、そりゃ当然でしょ、受験生なんだし・・・というのが一般的な見方だ。

 

でも、あれほど毎日続けられたことを、パタリとやめて何の疑問も持たないことが逆に不思議ではないだろうか?

 

要は、「走ること」は、僕にとって、それほど大事なことになってはいなかったということなのだろう。

魔法がかかっていなくても、目標がなくても、当たり前に続けるほどのものにはなっていなかったということだ。

 

「純粋さ」の希求と、それに辿り着けない葛藤

 

ところで、今年に入って僕は、ヨガのポーズを一切とらなかった日は一度もない。

飽きっぽい僕が、曲がりなりにもこの習慣を継続できているのはなぜか。

 

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自覚的に、「魔法をかけている」気はしない。

むしろ、ヨガをすることに対してあまり効果を求めていないからかもしれない。

だからこそ、淡々と続けられるのかな、と思ったり。歯磨きのように、当たり前のものとして。

そんな風に言いたくなる。。。

 

が、

よくよく考えてみると、僕のヨガだって、そんなに純粋なものではない。

効果を求めない、無欲なプラクティスができているかというと、そんなことはない。

やっぱり、どこかで無自覚に魔法をかけているのだ。

 

ある時は、ヨガの先人の言葉に奮い立たされたり、ネットで「ヨガの効果」みたいな記事を読んだり、インドでの経験を思い出してみたり。

 

そのようにして、「ヨガをしている自分」に酔わせてもらっている。

 

もし、このような魔法(動機づけといってもよいかもしれない)を一切なしにして、純粋に、無欲にプラクティスができるなら、それは素敵なことだ。

でも、そんな純粋性を、人は持てるのだろうか。(目指すべきところではあるんだろうけど。)

 

聖人ではない僕が、聖人の境地を想定しても仕方ない。

魔法をかけずとも続けられることが理想だと知りながら、やっぱり魔法をかけ続けるしかないのかもしれない。

 

長年走ることを習慣としてやり続け、毎年フルマラソンも走るという小説家の村上春樹氏は、こんなふうに言う。

 

 走り続けるための理由はほんの少ししかないけれど、走るのをやめるための理由なら大型トラックいっぱいぶんぐらいある(・・)僕らにできるのは、その「ほんの少しの理由」をひとつひとつ大事に磨き続けることだけだ。

『走ることについて語るときに僕の語ること』

 

 

残念ながら、僕にとってのヨガは、「理由」がなくても無欲にこなせるほど自然なものにはなっていない。だから、理由を求め、自分に魔法をかけ、自分に酔ってでもやろうとすることが、少なからずある。

素敵なヨガの先生に会って、「自分もああいうふうになりたい」と思ってみたり、スピリチュアルな雰囲気に酔ってみたり、ポーズの格好良さを求めてみたり。

 理由の中には、「不純な動機」と呼べなくもないようなものも混じっている。

 

でも、そうでもしていかないと、僕はすぐにさぼり出すんだろう。

 

魔法をかけなくても続けられるほど当たり前になるために、魔法をかけ続ける。なんだか変なことを僕はやっているわけだ。