ヨーガスートラ・Googleマップ説
卒論執筆中に思いついたこと。
ひとつの例えとして有効かな、と思ったので書いてみる。
「ヨーガスートラは、Googleマップのようなもの。」
それ全てを通読し、見通し、理解することを目的に書かれたものではない。
世界地図を隈なく見尽くして、(世界そのものではなく)世界地図に詳しい人になる。そんなことをしても良いのだけれど、あまり実りあるものが得られるとは思えない。
Googleマップは、(全体を見渡すのではなく)ズームして、現在地を特定し、そこから目的地に辿り着くための道のりを示せてこそ、「私にとって」有意義な情報になる。
ヨーガスートラを読む上で、「ズーム」、「現在地特定」の機能を果たすのが、先生との関係だ。
自分が現在どこに居て、それはヨーガ実践者たちが残してきた足跡のこの部分と重なるのか。それは、自分よりも長くヨガを実践している人の話を聴くことによって明らかになる(場合が多い)。
また、「目的地はどこか?」という問いも、自身の実践と、先生との会話によって明らかになってくることが多い。
ヨーガスートラに書かれている「最終目的地(サマーディについての記述)」を参照するのも良いのだが、それは日本にいるのに「南極に着くとどんなものが見えるか」を聞かせれているようなもので、あまり実感を持って聞ける話ではない(時折、思想上の極地点を見ておくのは、それとの対比で自分の現在地を知るために有効であったりはするのだけど)。
むしろ、現在地にズームしたまま、次に自分はどんな道を歩むかの「方向性」と「直近の未来」を示してもらった方が、実践的な知識になると思うのだけど、どうだろうか。
そのような知識なら、「自分にはまだ理解できない」「まだまだ知らないことがたくさんある」といった苦しみや不足感を味わうことなく、すんなりと理解できると思うのだけど、どうだろうか。
さて、実際に地図をズームしたまま、次に進むべき道も明らかになったのなら、実際に歩む足取りとして、自分自身のプラクティスが必要になるのは言うまでもない。