体和 Tai-wa 日記

ヨガ×人文系の大学生。ヨガの講師もしています。ヨガ日記、読書記録、身の回りの出来事など

ベイトソンの学習Ⅲ、僕のヨガのこと

ベイトソンの学習理論によると、

学習Ⅰ・・個々の具体的問題を解決すること

学習Ⅱ・・学習Ⅰにおける問題のコンテクストの性質を理解し、学習Ⅰの速度を上げること、性格、パラダイムの形成

学習Ⅲ・・自分のパラダイムの恣意性を突如悟り、人格の根本的変容を伴うような学習

 

例えば、「箸を使うことを学ぶ」のは学習Ⅰである。

「箸を使う」「鉛筆を使う」「包丁を使う」などの様々な学習Ⅰが積み重なると、それらを総合した「道具を使う」という学習Ⅱに移行する。

ここでは、個別の行為を学ぶだけでなく、学習することを学習する、つまり「道具を使うとはこういうことなんだ、箸を使って食事が便利になったように、料理にも畑仕事にも手で扱える道具を発明し、使えば良いのかもしれない・・」と、道具を用いた物事の操作そのものに習熟することになる。

一般に「性格」や「パラダイム」と呼ばれるものは、この学習Ⅱの寄せ集めである。

これを一旦獲得すると、それ自体を変えることは難しくなる。

「テクノロジーを用いて世界を操作する」というパラダイムを手に入れると、たとえ操作に失敗したとしても、「操作の仕方」が悪かったということになり、「操作」そのものをやめようとはなかなか思えない。

しかし、このパラダイム自体の変更を迫るような体験があり、それを学習Ⅲと呼ぶ。

 

わかりにくいので、具体例を挙げてみたい。

僕は、ヨガの練習を知る前、「自分の意志」なるものを用いて自分の人生をよきものにしようともがいていた。その時に参照した「よきもの」の中には、一般的に言われる成功や徳だけでなく、ヨガにおける「ヤマ・ニヤマ」なども含まれていた。

例えば、「傷つけてはいけない(アヒムサー)」、「嘘をついてはいけない(サティア)」などの倫理的描写を、守るべき戒律のように、自分に課していた時期もあった。

そこで想定されていたパラダイム、つまり僕がそれまでに積み重ねてきた学習Ⅱは、「自分の意志を以って、自分の人生のありようを規律化していく」ということだった(「性格」として描写すると、「規律的な人」、「自制心の強い人」、「真面目な人」といったところか)。

規律化の内容が、ビジネス書に基づいていても、仏教に基づいていても、ヨガに基づいていても、それは同じだった。

そこで問題になるのは、「この世界観(つまり学習Ⅱ)は、端的に誤りなのではないか?」ということだ。

ベイトソンサイバネティクスをモデルにして明らかにしたことは、「精神 mindは出来事に関わる関係性全体が帯びるものである」ということだ。

「自分の人生をよくする」という出来事には、僕の「意識化された自己」だけでなく、無意識の部分や、身体的特性や、周囲の関係性、社会、地球のエコシステムといった膨大な要素が関わっている。

精神とは、このうちのどれかのみに局在するものではなく、全体に偏在するものである。これは、「部分が全体を統御することはあり得ない」ということとイコールだ。

この事実から、「精神過程のほんの一部でしかない意志の力で、全体をコントロールしようとすることなど不可能」という、一種の倫理が引き出せる。

 

ベイトソンが挙げたアルコール依存症者の例では、彼らが自らの症状を以って、一般的に流布する世界観の誤りを証明する。つまり、「強い意志を持った自己」が、その他の部分をコントロールするというやり方では、決して治癒に辿り着くことなどできないということを、「意志が負ける」ことを以って証明する。

アル中患者は、「もう自分にはどうすることもできない」という「どん底」の経験を通して、「自分+酒+無意識の自己+社会+・・・」というより大きな自己を受け入れるに至る。そして、「より大きな力が、自分を正気に戻してくれることを信じるに至る」。それが、彼らにとっての学習Ⅲであった。

 

ヨガにおいて、僕はもう少し優しいやり方でこの壁を乗り越えることができた(できつつある)と思う。

鍵になったのは、マーク・ウィットウェル先生の次の言葉だ。

生命は完璧に機能し、すべてのものに対処している。

ヨガとは最終的に、生命を心(マインド)の押し付けから解放することであり、パターンをよりよいものに修正することではない。

(中略)

私たちは、方法論のようにして意図的にポジティブなパターンを断ち切ることはできない。それでは生命が問題であり解決されるべきとの思い込みをさらに課すことになってしまう。(中略)

パターンを表面的に断ち切ることはできない。しかし、生命がこの上ない知性であるとの理解のもと練習することはできる。さまざまな言動パターンは、不適切だと感じられたり、不要だと知ったりした時に自然と脱落していく。

私たちは、すでに確立されている、制限されることのない自然、この上ない知性、平穏と力として生きていて、くつろいでいる。

ここにおいて、本物のヨガが生命の自然なエネルギーとして生じる。

生命の自然な運動と関係するものへの反応は持続していて、システムを乱してしまうような意図的な介入を必要としていない。

身体、呼吸、関係性のヨガは、自然で強迫的でない仕方で行われる。

 

 ヨガの練習は、実は自分の意志で決めることなどほとんどないのである。

一旦ヨガを始めてしまえば、自分がどこまで動くか、どのタイミングで動き始めるかは、その時々の呼吸によって決定される。アーサナとは、呼吸への参与 participation in breathであり、マークの言い方で言えば、私たちの中で呼吸しているもの which is breathing us と共にあることである。

さらに、どんなアーサナを行うかも、先人たちの信頼に基づくものであり、自分の意志で決めたとは言い難い。

 

つまり、ヨガのアーサナ、そしてプラーナーヤーマの練習とは、自分の意志で始めるものでありながら、結果的に自分より大きな力に身を委ねていくことである。その時、その「より大きな力」こそ、「自分」だと感じられるようになるかもしれない。

 

マーク・ウィットウェル、そしてJ.ブラウン両先生は、

You are the power of cosmos. あなたはこの宇宙の力だ。

You are the extreme inteligence of Life. あなたは生命のこの上ない知性だ。

You are not who is searching for the truth but you are the truth. あなたは真実を探し求める人なのではなく、あなたが真実だ。

 といった言葉によって、僕にこれを気づかせてくれた。

 

ここに、「学習Ⅲ」が導かれる可能性がある。僕の場合は、この練習によって、「自分の意志なんかで自分の生き方を操作しようとするのはやめよう」と思うようになってきた。そしてそれはただ単に放棄、放縦というわけではなく、「自らの意志を以って、正しい位置に自分を置こう」という決意でもあった。

 

 どのタイミングで、どんな言葉によって、この変容が起き得るか。それは定式化できるものではない。しかし、ヨガの練習が、「自己の意志を以って自分や世界を制御しようとする」という、我々に染み付いたパラダイムを打ち破るひとつの手法であることは、提示可能な事実であると思われる。

 

 とはいえ、習慣として積み上げてきた「学習Ⅱ」は、そう簡単になくならない。これは個人単位で積み上げてきたものでもあるし、西洋文明を中心にした僕らの近現代的な価値観が積み上げてきたものでもある。

 だからこそ、絶え間ない練習が必要だし、「より大きなもの」との関係で、自分を適切な位置に置く、という調整が必要なのだと思う。