カルマについて、インドで考えてみたこと
何兆分の1でしかない、という寛大さ
インド人の思想に深く浸透している考えのひとつに、「カルマ(業)」というものがあります。日本にも、「自業自得」という言葉があり、英語にも”Reap what you sow”(自分で蒔いた種は自分で刈り取る)という表現がありますが、インド人にとっては、より根深く染みついた考えであるようです。
そのことを実感したのは、アーサナのクラスでハンドスタンド(逆立ち)の練習をしていたときのこと。ある生徒が、硬いブロックをすぐそばに置いたまま逆立ちをしているのを見て、先生が一言。
「頭を打たないように、ブロックは遠ざけなさい」
ここまでは至って普通ですが、そのあとに冗談っぽく小声でつぶやいた言葉が、予想以上に深いものでした。
「まあ、頭ぶつけるかどうかは、彼のカルマ次第だから、私が何か言ったところで運命は変わらないんだけどね」
つまり、彼が今まで(前世も含めて)積んできたカルマ(業)が彼に訪れる現象を決定するということ。
この考え方は、非常に無関心で現実を軽視した考えにも映る一方、「何兆回もの生まれ変わりをする中で、目先のことでクヨクヨしてもしょうがない」という非常に寛大で楽天的な思想に裏付けられたものでもあります。
もちろん、インド人みんながこういう考え方というわけでもなく、輪廻や現実世界についての論はインド哲学の中でも主張が分かれるところではあります。
しかし、少なくとも、一笑に付すような考えでないことは明らかです。西洋的な考えに染まった僕たちの多くは、目の前の現実で起きていることがすべてであると考え、今生きている命を保存することに躍起になっています。そんな中で、「今生きているのは何兆分の一でしかない」という思想は、僕の頭の中に新鮮な風を吹かせてくれました。
ある先生は、僕がこうやってインドに来られたのは、よいカルマのおかげだとも言ってくれました。
運命はカルマによって決められている?
ところで、僕の武術探究のきっかけである甲野善紀氏が、21歳の時に確信したという運命論はこちら。
「運命とは、完璧に決まっていて、同時に自由である」
つまり、「頭をぶつけるかは今まで積んできたカルマ次第だけど、ぶつけないようにブロックを遠ざけるという行動をとる自由もある」という考えです。
今のところ、僕がしっくりくるのはこの甲野氏の考え方です。でも、まだまだ考える余地がありそうです。
いずれにせよ、インドで人生観を揺さぶられた、という話でした。
インド到着後に書いたこと。
このカテゴリーは、2016年8月28日から9月25日にかけて、インドのリシケシュにてヨガプログラムを受講したときのレポートです。
せっかくなので、インド到着後すぐに書いていた文章を、そのまま公開します。
200時間のティーチャートレーニング
いきなりですが、この度インドにやって来ています。目的地はヨガ発祥の地リシケシュ。ヨガのアーシュラム(修行所のようなところ)に約1か月滞在します。ヨガのアーサナ(ポーズ)だけでなく、プラーナヤーマ(呼吸法)、浄化法、瞑想、解剖学、インド哲学、指導法と、総合的なスキルを学べる計200時間のプログラムに参加しています。無事修了すれば、ヨガインストラクター(全米ヨガアライアンス200)の資格を取得できます。
僕のことを知っている人は、ヨガをやっているというイメージはあまりないでしょう。それもそのはず、僕がヨガを始めたのはわずか今年に入ってからです。それも、ヨガ教室に通ったりすることはなく、書籍やビデオなどの教材を使って独学で学んでいるだけです。
そんな全くのヨガ初心者である僕がなぜ、いきなり聖地リシケシュに行って本格的なトレーニングを受けるという選択をしたか。
インド渡航6つの理由
- 先入観のない状態で良質なヨガ教育を受ける
- アーシュラム(修行所)で1か月生活する
- リシケシュに集まる世界各国からのヨガ愛好家たちとの交流
- 英語力向上
- 資格取得
- 直観
とまあ、理由を挙げるとこんな感じです。
まず「先入観のない状態で良質なヨガ教育を受ける」についてです。現在日本には多数のヨガ教室があり、情報も氾濫しています。インドの伝統的なスタイルに基づいたものもあれば、現代人のニーズに合わせて進化したものも多くあります。正直、多様すぎて何を信じたらいいのか分からない、というのが僕の印象です。
それならば、まっさらな状態で本場のヨガを学びにいけば、先入観にとらわれることなく本物のヨガを体験できるのではないか。ヨガには、長い歴史があり、裏付けとなる哲学があり、実践や指導の方法論もあります。武術などを通して身体運動の人間が生きることの関係を探究していた僕にとって、身体運動(アーサナ)と生き方そのものがセットになって体系づけられているヨガは、とても魅力的な題材であると考えました。だからこそ、誤った理解をしないよう、良質なヨガ教育を受けたいと思ったのです。
一か月海外で単身生活をすることも大きな目的のひとつです。人生で一度しか来ない大学2年の夏休みをいかに有効に使うか、と考えたとき「誰も自分のことを知らない地に行って過ごす」ということは自分を成長させてくれると考えました。
しかも、その場所が「修行所」アーシュラムであるということは、この上ない環境です。日本にいると物質的、精神的に誘惑が多いので、つい楽な方に傾いてしまいがちです。1日8時間近く勉強と実践をし、食事はベジタリアンフードとまさに修行のための場所であるアーシュラムに一か月滞在すれば、集中して自分に向き合えるのではないかと考えました。
また、「聖地」リシケシュには、世界各国から多くのヨガ愛好家たちが集まります。大学で比較文化を学ぶ僕にとって、多様な価値観に触れることは極めて重要です。しかも、ヨガという共通の目的を持って集まる人同士なら、自然と仲良くなれるのでは、と考えたのです。
同時に、英語力の向上にもつながると考えました。ヨガのクラスはすべて英語で行われますし、他の参加者とのコミュニケーションも当然英語になります。アーサナ(ポーズ)だけでなく、座学の哲学や解剖学も英語なので、それなりの英語力は必要です。英語「を」勉強するのではなく、英語をツールにして勉強することで、前回述べたような「上達への必然性」が引き出され、僕の英語力を伸ばしてくれるのではないかと考えました。
このような素晴らしい環境に加え、世界中どこでも使える資格を取得できるという点も、少なからず魅力です。父にこの留学を相談したときには、「1か月で取得できるような資格を頼りに生きていくつもりじゃないだろうね」と釘を刺されましたが。僕が魅力的に思うのは、資格そのものではなく資格に伴って身につく能力です。ヨガの総合的な知識と実践に加えて、「指導する」ということも学べることはとても魅力的な要素です。
いろいろ理由を並べましたが、正直後付けの理由も多いです。何が決め手かというと、直観です。身体技法に興味があったとはいえ、独学で3か月しか学んでいないヨガを、聖地リシケシュでいきなり学ぶ、しかも資格取得を目指すなんて、冷静に考えると無謀な選択です。英語に関しても不安はありました。
それでも、直感的に「ここに行きたい!」と思い、実際に来てしまいました。許可してくれた両親と、少しの勇気のおかげで行動に移すことができました。
この1か月で最大限のことを吸収し、この直観が間違ってなかったと言えるようにしたいと思います。
今日死んでしまっても満足できるヨガを。
柔らかくなれば自信がつくのか?
ヨガのアーサナでさまざまなポーズをとっていると、自分のカラダの硬さに気がつきます。たまにはできないポーズも登場したりして、そんな時はちょっと気分が落ち込みます。ヨガクラスの中でみんなができるのに自分だけできなかったりしたら、自信を失うこともあるでしょう。
だから、もっとカラダを柔軟にしたい!と思うわけなのですが、はたしてそれはヨガなのでしょうか。
もし今よりもカラダが柔軟になり、多くのポーズをとれるようになれば、僕はより自信を得るのでしょうか。
否、たとえそれで自信を得たとしても、その自信は相対的なものでしかありません。他人との比較、もしくは過去の自分との比較においてより柔軟になったことに自信を得ていたとしても、もっと柔軟な人に出会えばすぐにその自信は揺らぎます。もっと難しいポーズに出会えばすぐにその自信は揺らぎます。
相対的な自信なんて、そんなものです。
だから、他人と比較したときに自分が上回るための努力をするよりも、他人と比較した時に自分が劣っていたとしても自信が揺らがないための努力をするほうがはるかに有益なのです。
ヨガ本来の目的は、こっちにあるはずなのです。カラダをより柔軟にすることでも、強くすることでもなく、硬いままでも、弱いままでも肯定できる心を手に入れていくこと。
二重の幸せ増幅装置
言い換えれば、「今の自分」において幸せになるためのアプローチであるということです。極端な話、「もっと柔らかくなりたい!」という気持ちでヨガをしていて、十分に柔らかくなる前に死んでしまったとしたら、その人は幸せを味わいきれずに一生を終えてしまうことになります。「今の自分を幸せにするためにヨガをする」という気持ちでいれば、毎日の実践の中で幸せを味わうことができますから、たとえその日死んでしまったとしても、味わえるだけの幸せは味わい切っているはずなのです。
これは刹那的な快楽を得ることとは違います。刹那的な幸せは、他の時間を犠牲にしてまで「今だけの」幸せを得ようとする行為です。
ヨガは、そうではなく、現在において幸せをかみしめることと、健康な心身をつくることでその後の幸せにもなるという、いわば二重の幸せ増幅装置なのです。
この二重の意味において、特に前者を忘れないようにしたいですね。
仕事を分け合うカラダ
「カラダ全体を使う」ということ。
カラダをひとつの会社とし、カラダの各部位を大勢の社員、頭を上司に例えてみる。
カラダの全体をうまく使えず、カラダの一部だけが頑張ってしまう状態というのは、社員の一部だけが酷使されている状態。例えば重い荷物を持つとき、腕ばかりが頑張っているようだったら、それは腕という社員だけが仕事をし、あとの社員はさぼっている、といえる。
ここで、より重い物を持てるようになるための解決策として、「腕を鍛える」という発想がある。しかしこれは、さぼっているほかの社員はそのままにして、すでに働いている腕をさらに働かせることになる。
なんだかおかしい。だから、腕をさらに鍛えるのではなく、さぼっている他の社員にも仕事を分け与え、みんなで協力して仕事をしよう、という発想が武術的な発想になる。
誰かが過剰に仕事をしていたら、みんなでサポートしてやる。誰か仕事をしていない人がいたら、仕事を分配してみんなで働く。このような会社では、社員のみんなは協調性に溢れ、心地よい雰囲気に包まれそう。
これはカラダも同じで、カラダの各部位が協調して働くことができるということは、カラダの中に優しい社員を「雇う」ようなもの。
社員一人ひとりが協調性に溢れていればその会社が心地よい雰囲気に包まれるように、カラダの各部位が協調して働けるカラダであれば、その人自身が纏う性格にも当然影響する。
逆に言えば、カラダの各部位を鍛えるという発想は、「俺が俺が」と仕事を欲しがる社員をカラダの中に飼うようなもの。
カラダの各部分がケンカしていれば、当然晴れやかにはなりにくい。
カラダの各部位が協調し合い、仕事を分け合える関係であること。上司は、でしゃばる社員だけではなく、全員に仕事を分け与えること。どちらかを目指すなら、僕は迷うことなく「全員が働く会社」のようなカラダを目指したいと思う。
武術というと野蛮というイメージがつきまとうけれど、実はカラダ全体をうまく使うことによって、「心地よいカラダ」を目指すことでもあるのだろう。