聖なるものに関わる「秘密」について
ベイトソンが挙げている例としては、バレリーナの踊りが白鳥のように見えるという時。
単に「白鳥のようなもの」として、比喩的な役割をする時と、
本当に「白鳥そのもののような感じ」を醸し出し、聖体(サクラメント)として見なされるような時、明らかに違いがある。
私たちが回復させなければならない感性とは、
意識では捉えきれないほどの多様な変数が絡み合い、全体として「聖性」や「美」を醸し出してくるところを捉える視点である。
そこには、「秘密」がある。
どんな時に「聖性」が現れるか、どんな時に「ほんとうに」バレリーナが白鳥に見えるか、言えないという性質がある。
本人にも、観客にも、それは分からない。
それは、「思わず」起こらなければならない。
一方で、何かを実践しようとする時、それは意図的な営みであるし、一度にひとつのことしか行えないという性質がある。
「聖」なるものを呼び起こそうとする実践とは、このような矛盾を必然的に抱えるものである。
その実践が、ある言い難い状態を作り出そうとするものである、ということを実践者が知ってはならない、というジレンマがある。
知ってしまうと、もはやその「聖性」は失われてしまう。
ヨガは、このジレンマをどのように処理しているか。
『ヨーガスートラ』において、実践の結果生じてくるような恩恵や境地について、さかんに語られてしまっている。その状態は、目指すほど遠ざかってしまうようなものにも関わらず。
その点で、ヨガは「秘密」に失敗しているようにもみえる。
しかし、「秘密」とは、実践者が現に実践する際、秘密を感知しない状態を作り出せるのなら、内的に達成されるものでもあるだろう。
一度言語的にヨガの恩恵を知ってしまい、それを待ち望む心が芽生えてしまったとしても、実際にヨガをする際にはそんなことを忘れてしまえるのなら、「秘密」に成功しているといえるだろう。
そのための技法は、ヨガの中に組み込まれている。
ひとつは、実践できることとできないことを明確に区別する、ということによって。
実践できるのは、アーサナとプラーナ―ヤーマ。
瞑想や日常生活における振る舞いは、その結果として生じてくる。
この区別を明確にしたクリシュナマチャリアに、僕は深い敬意を覚える。
効果として期待されることが何であれ、私たちはただそれを実践すればよい。
ましてや、「瞑想」や「すぐれた振る舞い」を練習しようとしなくてよい。
もうひとつ、学者たちには忘れられがちなこととして、「心地よい」ということによって。
ヨガの実践のすばらしさとして、端的に「心地よい」ということがある。
心地よいということによって、実践者は、まさにその実践に浸りきることができる。その時、どんな恩恵が得られるかということなど、忘れられている。
逆に実践が不快なものであるほど、「不快なものに耐えたのだから、せめてよいことがあってほしい」と効果を期待する心が生じやすくなる。
だから実践においてするべき努力は、「効果を期待しないようにする」という禁欲的な発想ではなく、より現在を充足させ、心地よくなるためのものであるべきだろう。
これらによって、ヨガに必要な「秘密」(=ある情報に対する内的な沈黙)は保たれているように思う。
そして、こんなややこしいことを考えなくても、ただ自分にとって心地よい実践をすればよいという、心理的な負担の軽さも確保されているのだと思う。