世界から切り出される「私」と「今」
しゃべる、ということによって、僕らはどんな前提世界に身を置いているか。
言葉というのは、
他者から切断された「私」や、過去や未来から切断された「今」を、
虚構的に切り出す。
そうすることによって、ある長さを持った音が「ひとつの音」として同定される。
同時に、発話者がひとりの「個人」として特定される。
僕らは、ひとつの口でしかしゃべれない。
どんなに自分の中にたくさんの人格がいるように感じても、いざしゃべる時には、ひとりにまとめ上げられなければならない。
どんなに他者に影響されていて怒っていても、
穏やかな太陽と共に在ることで穏やかな気分になったとしても、
「私が」怒った。「私が」穏やか。といったように、主体として切り出される。
(私と太陽が一体となって穏やかであるということが言えるような言葉があってもよさそうだけど、僕らが太陽と共有する口を持たない以上、ひとつのこの口でしゃべる他ない)
ある音をひとつの音「節」と見なし、時間を切り出すことによって僕らはひとつの言葉を発したことになる。
こうして切り出される「今」。
どれだけ過去のことを引きずっていても、未来を先取りしていても、
この一音節、一文が「今」であると恣意的に決定される。
(この音の長さが「今」の幅なんて、誰が決めたの?)
僕らはしゃべることによって、空間や時間を世界から切り出す。
その時、仮定的に切り出されてきているだけの「自分」や「今」に、どうも重きを置きすぎてしまう。そして、「自分勝手」、「刹那的」になりがちなことがある。
近代の個人享楽主義は、まさにその代表選手だ。
他者、他存在なしに「私」は存在し得ない。そのことを確認するだけでも、「ひとりぼっち」なんてことはあり得ない、という揺るぎない安心につながることがある。
僕らが生きている生命の時間において、過去を引き継いでいない「今」や、未来を先取りしていない「今」はあり得ない。
今を生かしているこの生命に、生命が積んできた歴史や、未来予期的な機能が備わっていると感じるだけでも、なんだか心強いものである。
よく、他の人の意見は気にせず「自分の」意見を言おう、とも言われるけれど、
否応なく他者や、僕らを取り巻く環境、空気、太陽、水、等々に影響されてしまう曖昧な「私」を、もっと大切にしてあげてもよい気がする。
曖昧な自己は、それだけ多くのものと関わり、支えられている証拠だから。
同様に、過去にとらわれず、未来を心配せず、「今」だけに集中しよう、なんてことを言う人がいるけれど、否応なく過去や未来とつながってしまっているという事実の方を、もっと大事にしてあげてもよい気がする。
「今」に集中できないというそのことが、今という瞬間が他の時間によって支えられていることの証拠だから。
ということを一通り考えた後、
改めて、「今」や「自分」を見つめてみると、
過去や未来を全部引き受けた「今」に何ができるか、他存在すべてと関与する「私」に何ができるか、その「責任」ということに着目したくなった。
responsibility response 応答する ability 能力、可能性
過去、未来に対して「今」はどう応答できるか?
つながり合う諸々の存在たちに、「私」はどう応答できるか?
それを大事にしたいと改めて思った。
ぐるっと回っただけの思考かもしれないが、回ってみてよかったと思う思考だった。