的場悠人の体和 Tai-wa 日記

理論と実践を行き来するヨガ研究者。ここではヨガ以外のことも。大学時代から継続のブログ。

僕らは誤解によってしか実践を進められない

前回述べた重要なこととして、「何かと何かをつなぐ」際、実は僕らがやっているのは「つなぐ」ことではなく、「元々『1』であることを確認しているだけ」ということがある。

 

僕らは、「あれとつながりたい!」と対象をはっきり置くことによって、逆に分断をもたらしてしまうことがある。

「あれとつながりたい、そのためには…」と考えている時間は、「今はつながっていない」という前提に自分を置いて思考しているというまさにそのことによって、分断を作り出してしまうのだ。

 

僕らは、それぞれ立っている場所から、その時点で気になっていることに取り組み、そこにおいて「縫合」を起こしていく。

その都度、自分がつながりを感じたい対象が、受動的に浮かび上がってくる。

それを手掛かりに、僕らはヨガを実践することができる。

ここで起きている命の営みと、どこかですれ違ってしまうからこそ、再びその命とつながり直そうという試みが可能になる。

そしてすぐに、「命と離れたことなどなかった」と知る。

 

ということは、「何かつながりたい対象が浮かび上がってくる」というその認知は、「すべてはつながり、ひとつである」という包括的理解の立場からみれば、「誤解」に他ならないということになる。

 

その誤解こそ、僕らの実践を可能にし、つながるという感触の恍惚を可能にしてくれるものなのだ。

 

デシカチャー師による「誤解(viparyaya)」の定義が興味深い。

 

誤解とは、より好ましい状況が実際の対象の本質を明らかにするまで、正しいと受け取られる理解のことである。(Y.S.1.7)

 

この誤解は、決して否定されるべきものではなく、その瞬間における僕らのリアルとして、この上なく抱きしめてやるべき存在なのだ。

 

僕らは、生き、変化しながら、これまた変化している世界を理解しようとする。

その理解が変動するものであり、しかもその都度真実であることに、疑いようはない。

このように理解した時、クリヤーヨガ(Y.S.2.1)において、タパス(健康の向上、つまり変化)と、スヴァディヤーヤ(自己理解)が同時に起こっているという意味も理解できるだろう。