ウソをつかない方がよい、ひとつの理由
ウソや隠し事は、「バレなければいい」では全然ない。
人間が行為する際には、たとえその行為が他の誰にも、何にも影響を与えていないようにみえたとしても、「学習」という作用が避けがたく起こってしまう。
つまり、その行為によって内的に変化が起こり、それは深いところで僕らの「人間性」を司り、次の行為や次の次の行為まで、根深く影響を及ぼしてしまう。
ビリヤード球は、「壁にぶつかる」ということによって学習し、次の衝撃を嫌がったりはしないが、僕ら動物はひとつの行為によって必ず内的な変化も被る。
「バレなければ大丈夫」と思っているのは、そういう意味で、自分を力と衝撃のみが支配する非生命(プレローマ)にすぎないものとみなす誤解を冒しているといえる。
それは、生命世界(クレアトゥーラ)の複雑さをナメている、ともいえる。
さて、ウソをつくとどうなるかというと、それを隠そうとする。
つまり、自分の内面に潜めていることと、外的な表出を一致させないような振る舞いを学習しようとする。
自分の内部での情報伝達における歪みを生産してしまうようになる。
つまり、嘘をつくと、それが誰にバレなくても、つまり外的には何も影響を与えていないにしても、僕らの内面を蝕むことになる。
その歪みは、その後に行う行為にも確実に影響を及ぼしてしまう。
この悪行(あえて悪行と呼ぼう)をぬぐい去るには、さらに多くの善行が必要とされるだろう。
インド人なら、これをカルマと呼ぶのかもしれない。行為はカルマを産み、人はそれに縛られ続ける。
このような話を信じる信じないに関わらず、自分の内面で考えていることと、外的に表出することの乖離を進めてしまうような習慣は、少ない方がよいと僕は思う。
satya-pratysthayam kriya-phala-asrayatvam
サティア(真実を話すこと)が確立すると、行為と発言が一致する。
(ヨーガスートラ2.36)
ヨガの練習(=現実そのものに直接寄り添おうとする営み)をしていると、 外的に起こっていることが、自分の内面と一致しないのが徐々に心地悪くなってくる。
すると、このような態度もおのずと確立してくるのかもしれない。