「いろんな経験をしろ」が、なんとなくイヤな理由
「いろいろな経験をするのが大事」。
よく人から言われるし、自分に言い聞かせる言葉としても、これに近い表現をすることがある。
特に若いうちは、いろいろな世界を知らないと・・・なんてね。
別に間違いではないし、「いろいろな経験をすることは大切」だと、僕も思う。
が、「いろいろな経験をしよう」と思って何かをするのは、何だかおかしいと思うのだ。
なぜかと言うと、そう思って積む経験が、「道具的」、「手段的」になってしまうから。
ちょっと意地悪な見方をすると、後になって「私はこんなに多彩な経験をしてきました」と言うための手段にすぎないものとして、その瞬間を生きるようなものになってしまうのだ。
そこにある経験は、一回きりで、もしかしたら人生最後の日かもしれないのに。
「思いがけず、ハッと目を見開かれるような経験」や、「今までの自分を覆され、世界の見方が変わるような体験」は、別にそういう経験を得ようと思って得られる類いのものではない。
だとしたら、「いろいろな経験をしよう」などというあからさまな心構えは、別に要らないのだと思う(小説を読んだり、美術館に行ったりする時、僕はこれをやりがちなのだが)。
まあ、あえて撲滅しに行くような類いのものでもないから、「いろいろな経験をしよう」という言明に対して、強く反発したいわけでもないのだが…
何となく存在していた違和感の正体は、明らかにしておきたかった。
ある友達が言っていた言葉。
「統一感は別に要らんけど、一貫性は要るよなぁ」
自分の心が向くものに従った結果、きれいに統一感のある経験が揃ったり、「ほんとにこれが一人の人の経験なの?」と思うほど雑多なラインナップになったりすることがある。
その統一感の有無は、別にどっちでもいい。
あえて統一感を出そうとする必要はない。
「雑多」な方が面白く見えたりするのかもしれないが、あえて「雑多さ」を目指す必要もない。
自分以外の、何者にもなれないのだから。
ただし、その一回一回の経験において、その都度自分に対して真実であったか、心の導くところに従えたか、いのちにとって自然であったか。
その一貫性は、あった方がよいと思う。
"Yoga is to go in your chosen direction with continuity."
「あなたの選んだ方向に、継続的に向かうこと」。
この時選ばれる方向性は、ことさらに「私が」選ぶというより、気づいたら選ばれてしまっている何かがある、というような感覚だ。
いつの間にか何かを、誰かを好きになっている時のように。
そのようにして選ばれた対象の数々が、後から振り返った時に「統一感がある」か、「雑多な経験が積まれている」かなんて、確かにどっちでもいいのだろう。
それより、その都度の選択において、真実でありたい。
私の生命によって、その都度何が選ばれるのか。私にさえ予期できないというところに、生命の特徴があるのではないか。
予想し切れない人生で、本当によかった!
そのおかげで、生きるのに飽きずに済む。