学び、別人になり、そして忘れよ
何か夢中になっている本があったり、刺激的な学びがあった直後のこと。
人と話す時に、ついそのことばっかり話してしまうことがある。
でも、その時、その「本や学んだことの内容を」話すことに夢中になってしまい、「その人と」話すことがおろそかになってしまうことが多い。
自己満足的に語った後、「うーーーん‥‥」という顔をしている相手を見ると、なんだかこちらも気分がよくない。
そこで、初めて気づく。「ここにいる」ということを忘れてしまっていた、と。
特定の過去、特に直近に経験したことに、特別大きな影響を受けている状態は、どうも自由ではない。
辛いものを食べた後に甘いものを食べたくなる、という時は、「辛いものを食べた」という特定の過去に強く依拠した動機であり、決して「自由に」振る舞い、甘いものを欲したというわけではない。
特定の過去が、「面白い本を読んだ」といった一見好ましいことであっても、取り立ててひとつの過去に強く影響を受けている状態は、やはり自由とは言えない。
勉強熱心であるほど、この傾向にはまってしまうことがあると思う。
では、どうすればよいのか。
最近、(こういう話の入り方をすると、いかにも最近の出来事に縛られているようだが、この場合は文脈に応じて適切な例を引き出しているだけなので、大目に見ていただきたい)「シュタイナー教育」についてのビデオを観た。
https://www.youtube.com/watch?v=0KCcV16uE6o&t=4s
彼らの授業の様子は、とても興味深いものだった。
例えば5桁くらいの大きな数を「4で割る」という計算をする時、いきなり計算に取り掛かることはしない。まずは4の段の九九を、身体全体でリズムを取りながら暗唱して復習する。それから、割られる数をじっくり見、おおよその予想を立てる(例えば一の位が「1」だったら、4で割ると必ず「余り」が出る、など)。それから、途中の計算過程もすべて声に出しながら、計算していく。
そこには、計算を機械的にできるだけ速く行おうとする姿はなく、むしろ身体全体で数にどっぷりと浸ろうとする試みに見えた。
さて、これだけ数という抽象概念に没入すると、日常生活や身体を使った作業に戻った後も、グルグルと頭の中で考えをめぐらす、ということになりかねない。
数の研究に没頭し続ける道を選ぶならこれでもよいのだが、しかし、僕らには身体があり、生活があり、生きている環境との関わりがある。そんな時、頭がさっき学んだことで一杯では、状況に対して遅れをとるし、そこで起きている美や素晴らしい体験を逃してしまうことにもなりかねない。
そこで、こんな工夫が施されていた。
授業の終わりに生徒たちは、こんな詩を暗唱する。
初めの行いは終わりました
学んだものを休めましょう
私の中で芽を出して
知恵と愛と力になるように
私が地球と人間に
福をもたらしうるように
こんな風にして、授業の最後には、学んだことを「休める」もしくは「忘れる」という過程が大事にされている。
「忘れる」というと、学ぶ以前の状態に「元通り」になってしまうように聞こえるが、そうではない。
数なら数に「身体全体でどっぷり浸かる」という体験をした後の生徒たちは、紛れもなく学びの前とは「別人」になっている。これは、自転車に乗れるようになった人が、乗れる以前の状態に戻れないのと同様に、不可逆的な変化である。
こうして別人になった後、学んだことを、そして学んでいたということすら、すっかり忘れてしまう。
これは、先ほどの僕の言い方で言えば、「特定の過去に取り立てて色濃く影響を受ける不自由な状態」から解放されるということだ。
こうして生徒たちは、ついさっき学んだことから自由になり、しかしその学びをしっかりと蓄えて、今この瞬間の生を生きることができる。
学んだことが有意義であるほど、それを大事に抱えて、それに頼りながら生きていきたくなる。しかし、抱えるものが多くなるとは、自由を失うことでもある。
学び、別人となり、その新しい生をひとつの完全な生として、特定の何かに頼らなくても自由に振る舞える生として、生きてゆきたいものだ。
今僕らが目の前にしている現実も、さっき学んだことと同等に、実り豊かなものなはずだから。