はかない「自分」による「自分」論
前回の記事を読んでくれた人から、質問をもらった。
前回記事「因果の中に位置づけられるヨガ」
問題となった箇所はこちら。
原因と結果の連鎖を見通し、諸々の関係において浮かび上がってくる「自分」というものについて知ること(svadhyaya 自己理解)。
そして、それらの連鎖が、個に帰するものでないことを見極め、その流れに身を委ねてゆくこと(isvarapranidana 自在神祈念)
たしかに、分かりにくい(自分で書いたくせに)。
「自分」、「個」といった言葉で指し示していることの内容が、伝わりにくい。
「自分」というものを、いかにとらえるべきか。
ニュートン的、デカルト的な近代科学・哲学の影響を色濃く受け、そこから完全に抜け出しきってはいない僕らの世界観では、いまだに「自分」が、「一貫したアイデンティティを持った、矛盾のない、安定的な個体」としてとらえられていることが多い。
まるでビリヤードの球のように、ある固定的な性質を持った、境界がはっきりとした、ある刺激に対して一定の反応を返すような、そんな主体として。
しかし、その存在を見つめるほど、そのような固定性はあやしくなってくる。
そういえば、冒頭の質問をしてくれた人(当時は生物学を専攻する大学院生だった)に、僕はこんな質問をしたことがある(された当人は覚えているかどうかわからないが)。
ひとつの細胞が死ぬのと、ひとつの生命体が死ぬのって、どう違うの?
多細胞生物である僕らは、いくつもの細胞が寄り集まってひとつの凝集体をなしている。しかし、その中身自体は常に入れ替わったり、新しく生まれたり死滅したりしている。
厳密に見ていくと、どこからが自分でどこまでが自分かなんて全く分からなくなる。
さっき食べた、まだ胃の中でうごめいているような食べ物は?
ここの空気は?
僕に強く影響を与えた、あの人のアイデアは?
やたらと不機嫌そうな、向かいの人の不快な「気分」は?
私たちが皮膚の境界をもってひとつの個体としてみなしがちなのは、皮膚の内側の細胞同士の相互作用の密度が、別の個体の細胞との相互作用に比べて大きいからである。ひとつの脳をもってひとつの心とみなしがちなのは、ひとつの脳の内側同士の相互作用の密度が大きいからである。(鈴木健『なめらかな社会とその敵』)
以上の記述が示しているように、僕らが「自分」とそうでないものの間に引いている境界は、ひとつの便利な説明原理にすぎない(その仮定的な境界をもとに、「責任」とか「人権」みたいなものが付与されるから、この境界への信仰はさらに強まる)。
しかし、「私」と呼んでいるものの中味は、ビリヤードの球のように固定的ではなく、覗けばその都度違うものが詰まっている、はかないものである。
「私」とその他を分別するその境界も、定かではない。
これをおそらく「無常」とか「無我」と呼ぶのだが、僕は「無」我とまで言う気にはなかなかなれない。
あらゆるものが網状に絡み合う諸々の関係性の中で、その都度「私」と呼ぶべき勢力範囲(閥)を持った主体が、存立してきているようにみえるからだ。
時にはものすごく孤独で、寂しい存在として。時には何か(誰か)と一体化したような気になり、「私たち」と呼べるほどのより大きな凝集体として。
(『クォンタム・セルフ』(ダナー・ゾーハー)という本は、この一瞬ごとに現れるひとつの秩序形態を「ボース=アインシュタイン凝集体」という言葉で示している。)
僕がsvadhyaya(自己理解)という言葉の文脈で「自分」という言葉を使った時、念頭に置いているのはこのような主体である。
つまり、一瞬一瞬境界を引き直しながら、諸々の関係性の上に刹那的に出立してくるような「自分」である。
なぜヨガにおいてこの「自分」を取り扱うのが可能になるかというと、変化の只中において、またあらゆるものとの関係の只中において、その都度現れてくる「自分」を観るからである。
tapas(不純物の除去、ヨガにおけるいわゆる「健康効果」)と同時に、つまり変化しつつある主体としての「私」を対象に、このsvadhyaya(自己理解)が起こる。
特に「呼吸」といった、あらゆるものとの関係性を意識せざるを得ないような状態のもと、このsvadhyayaが起きる。
ヨガにおける自己理解は、このような実践の中で起こるからこそ、近代的精神が作り出した「固定的な自己」という幻想にとらわれずに、変化の只中における「自分」を見つめることができる。
では、ヨガにおいてもう一つ同時に起こるとされる、isvarapranidanaとは何か。
通常、「自在神祈念」と訳されるこの言葉だが、特定の神を信仰していない僕としては、もう少し自然科学的に表したい。
T.K.V.デシカチャー(僕の先生の先生)は、このisvarapranidanaを
「行うすべての事に対して主人ではなくなること」("The Heart of Yoga")と訳している。
行いによってこの世に現れてくる現象は、(ニュートン的な世界観における)「個」が所有できるものでは決してない。
というより、何かを所有できたり、その責任のすべてを引き受けたりできるような、一貫した同一性を持った「個」など存在していない。
(一時的に出立する)私の行いは、地球の裏側で起こった些細な出来事からも、わずかながら(決してゼロではない)影響を受けている。そしてその行いも、すぐに世界の中に溶け込み、またあらゆるものに伝播してゆく。
そう考えると、限られた勢力範囲しか持たず、しかもその範囲さえ現れればすぐに消失してしまうはかない主体としての「私」が、何かを「所有」しようとしたり、「コントロール」しようとしたりすることを、あきらめざるを得ない。
ここにおいて、「諦念」が生じ、世界を貫いている、大きな流れに身を任せたくなる。
諸々の関係性も、絡み合う因果の連鎖も、はかなくも現れる「私」の行いも、「なるようになれ」、と。
その「大きな流れ」と言うべきものに思いを馳せた時、「神」という言葉を使いたくなるのも分からなくはない。
(こんな風にして、「不所有」、「身を委ねる」という一見倫理的お説教のような文言を、自己規律的に課すよりも、「もはやそうでしかあれないもの」として理解し直していくことが、僕の望みのひとつである。)
さて、書く前よりもさらにややこしくなってしまったような感も否めないが、いかがだろうか。
ここに記されているアイデアだって、一時的に現れてはすぐに無意味になるようなものかもしれない。
だが、少なくとも僕にとっては、「一時的にでも現れるべきもの」だったのだ。
「結局なんにもしていない」のと同じような次元で、「それをしなかったら却って不自然だ」と言えるような次元で行為できたらよいな、と思うし、この文章を書きつつも、そうであるように努めたつもりだ。