ポーズをとるのは誰か。
そういえば、インドでこんなことを言われた気がする。
「ポーズをとっているのは、わたしではない」
この時は、えらくスピリチュアルな言葉に聞こえた。
実際、この言葉の発言者は、おそらくヒンドゥー教徒で、「わたしではなく、シヴァがわたしにポーズをとらせている」とのことを言っていた。
でも、別に神を想定しなくても、たしかに「ポーズをとっているのは、わたしではない」なぁ、と感じることがある。
呼吸に導かれて、動く。
だから、動き(ポーズに至るカラダの動き)を始めるのは、わたしの意識的な努力ではない。
では、呼吸は「誰」が始めているというのか?
「わたしが」というよりは、「いのちが」と言った方がしっくりくる。
いのちという力によって、僕らは、否応なく呼吸させられている。
(ということは、僕らは存立の時点で、空気などの外的事物に依存せざるを得ない存在の仕方をしているわけだ。)
試しに息を止めてみると、数秒で無理がくる。
「わたし」の意志に関係なく、生きようとする欲動が突き動かしてくる。
「わたし」のすることは、とめどなく溢れるいのちの力に、明確な方向性を与えてやることだ。
そうすると、いのちは、迷いなくその力を(現世的に)発揮する。
現代のヨガクラスでは、講師の声が、その方向性になる。
だから、ある意味迷わない。
では、ヨガという実践がこの世に生まれた、原初的な段階においてはどうだったのか。
予め想定される「○○のポーズ」などがない実践において、人々はどんな形をとったのか。
別にスピリチュアルっぽく言わないにしても、
「わたし」という個人を越えた、大文字の「いのち」というような力に突き動かされるような感覚を、見出さざるを得ないのではないか。