補助輪との友好な関係
頼りにはなっても、全面的には頼り切れないと悟った時から、自立が始まる。
まだ支えが必要な人に、「補助輪なんかに頼ってないで、早く自立しろ」と言うのは、ちょっと的外れだ。
補助輪の「補助輪性(いつかは取り外し、自らの足で歩む覚悟をしつつ付き合わなければならないという属性)」を思い出させるという意味では効果のある言動だが、
自立への恐怖、補助輪を使っていることへの罪悪感、引け目を駆り立てるだけになることも多い。
その補助輪に頼って歩むことが、今の自分の生を全うすることなら、引け目など感じずにとことんやればいいと思う。
それが、その時にできる最大限の努力だろう。
あらゆる支えから全面的に自立した人などいない。
この世に存在し、人「間」である限り、僕らはいろいろなものにお世話になる。
立派に建っているあのビルは、隣の小さな店を見下しているようにも見えるけれど、
どちらも同じくらい不安定で、儚く、ゆらぎのある大地の上に立っている。
どんなに偉そうなことを言っても、新鮮な空気、という一要素を奪ってしまうだけで、僕らの活動は簡単に停止してしまう。
僕らは世界の中に存在し、支えつ支えられつつで生きている。
あらゆるものに、一面的には頼り続ける。
肉体的にも、感情的にも、思想的にも。
そう思うと、確固たる「わたし」なんてないように思えて、
生に拠り所がなくなって、不安になるような気もする。
でも、それでも「ここ」に存立している存在がある(「わたし」と呼ぶならそう呼ぼう)。
(他のどこでもない「ここ」という)場所、存立する時に依拠する質料性としての肉体、その肉体がまとった形状、性質、性格、知覚の仕方・・
そこに、「唯一性(uniqueness)」があるように思える。
この唯一性が、ある特定の補助輪(本来的にこの「わたし」の生とは無関係にこの世に存在しているもの)に全面的に頼り続けることを不可能にする。
自分の唯一性を自覚した途端、あらゆる支えとの差異が、ズレが、明らかになる。
逆かもしれない。
頼りにしていた支え(他人、教え、方法論など)とのズレを認知した時、自分の「唯一性」が露わになる。
それは何か。
この人生で果たすべき使命のようなものか。
変えられない運命のようなものか。
移りゆく世界の中で、唯一動かない北極星のようなものか。