見つめるということ
いろいろな自分がいる。
中には、認めたくないようなヤツもいる。
そんなヤツは排除して、自分にとって都合のいい部分だけ育てたくなったりする。
でも、認めたくないようなまさにその部分が、実は自分の生命を成り立たせてくれていたりする。だから、しょうがないから、認めざるを得ない。
大手を広げて歓迎することは難しいけれど、
仕方ない、そこに居てもいいよ、それもオレなんだよね、ということくらいはできる。
強がり。演出。ある場面だけで通用するような言動や振る舞いのスタイル。
「全方位に開こうとしなくてもいい。自分が楽しく生きていればいいじゃん」と言ってみたりする。
僕らの生は、肉体を持つことで不可避的に限定を受けているが、しかしそれは自らを限定的に扱っていくことを正当化するものではない。
恐れに蓋をして楽しい気分になっているのと、全面的に楽しいのは違う。
無理に苦しいことに出向かなくてもいいとは思う。だけど、勝手に遭遇する。
そんな時、隠してたものが露わになる。そもそも、最初から隠せていない。
バレている。相手が自覚していなくても、いのちのレヴェルでは、通じてしまっている。
ある一時の実践が、劇的な方法が、積んできた過去を一掃し、清算してくれるわけじゃない。
だってずっとその体で生きてきて、その思考のパターンに頼って自分を守ってきたのだから。
ある時、ガタが来る。そろそろ、そのパターンでは苦しいよ、とお知らせが来たりする。
怖いけれど、変えようとする。
変えても、変えた先に、その新しさなりの苦しみがあったりする。
変えようとしても、苦しみはなくならない。
だから、全部観ようとする。ひとまず、現状確認。
こんな醜さも、美しさも、全部ひっくるめて「わたし」。
言い換えれば、「こんなゆたかさもあったのか。知らなかったよ。ごめんね。」
そのようにして、見つめてあげることが、とりもなおさず「変える」ことだったりする。見つめてあげれば、安心して、出ていくかもしれない。
逆説的な、変化。
変えようとするでもなく、見つめることによって、おのずと変化していく。
認めたくないけれど、どうやらこんな部分も自分の中にあった。
歓迎はできないけれど、感謝することくらいはできる。
やれやれ、あなたが今までわたしを守ってくれたんだね、と。
もう少し、お世話になるかもしれない。
もう要らないから、任務完了!お疲れさま!となるかもしれない。
志向するでもなく、変えようとするでもなく、見つめるとしよう。