ダーラナ、ディヤーナ、サマーディ
前回の考察から引き続き。
ひとまず世界の中で他から隔たれたものとして「個」を想定し、その「個」をより幸せにしようとする努力
=きわめて人間的な、誰もがやっている努力
この努力は、見られるもの(プラクリティ)の内部のことであり、この努力に躍起になるほど、「個」としての自分を強化し、改善しようとしている身体、心、生活、感情などの質を、「自分」だとみなすことになる。
つまり、「見られるもの」の世界に専心することであり、弁別知からもっとも遠ざかる?
さらにいうと、そのような限定された個(身体、心など)をよりよく(幸せに、健康に、快適に)しようとする努力は、世界の中で、力関係における勝者になろうとすることに他ならない。
生命は、その存立の時点において、戦いを制し、たくさんのものを殺し、排除した上で成り立っているのである(不殺生を徹底するジャイナ教徒であっても)。
では、そのような生命(=個、身体)を、よりよいものにしようとする努力は、ヨガにおいて正当化されるのか?
Yes、と言ってみたい。
そのヒントは、アシュタンガ(8支則)の後半3つ、ダーラナ、ディヤーナ、サマーディにある。
ダーラナ・・一点集中の心。
ディヤーナ・・専心した心が、一点から周囲に広がっていく。
サマーディ・・集中、専心する対象さえ消え、ただある、もしくはない。
そもそも、ヨガとはマインドを扱う学であり、実践体系である。
マインドは言うまでもなく、見られるものの一部であり、個であり、世界の中の力関係のせめぎ合いにおいて勝ち残ろうとするところのものである。
逆に言うと、僕らが(きわめて人間的に)生きる上で、意識的になしうる努力とは、どこまでもこのマインドの次元なのである。
というわけで、マインドは、どのように振舞えばよいか。
個としての、限られた存在としてのマインドは、のっけから、一挙に全体性を見通すことなどできない。僕らが、いくら「世界平和を!」と叫んでも、結局は地道に目の前のことを為していくしかないのと同様だ。
だから、まずは目の前のことに集中する必要がある(=ダーラナ)。
仕方なく、やむを得なく、ではなく、現実的にそれしかすることがないのだ。
集中する対象は?
パタンジャリはここに寛容だ。
あなたが好きなものならなんでもいい、と。
(でも、たいていの人は、まずは「自分」が好きなんじゃないかな。だから、まずは徹底的に自分を見つめ、幸福にしていくことが、とても大切なわけだ。)
一つへの集中が極まると、どうなるか。
ひとつの限定されたところへの集中が、徐々に広がっていく(=ディヤーナ)。
やがて、限定されていたはずのものが、限定をなくし、広がりを持ったものになっていく。
マークは言っていた。
「ヨガの先生として大切なことは3つある。まずは、自分の練習をして、自分をケアすること。それから家族や友人など、身近な存在の人と親密な関係を築き、彼らを大切にすること。最後に、社会に対して貢献していくこと。」
だから、(くどいけれど、)まずは自分を徹底的に満足させ、幸せにすることが、正当化されるどころか、積極的に奨励されることになる(それ以外に、やることがあるだろうか?)。
そして、その広がりが進めば、あらゆる限定が消え、制限が消え、分離していた「個」も消え、ただ何かがある、もしくは何もない、という世界が現れる(=サマーディ)。
ここにおいては、言葉で語れることはほとんどない。
インド人たちは、至福(アーナンダ)といった言葉で表現したりする。
しかし、幸ー不幸といった相対的な価値判断が差し込む余地はなく、ただそうであるとしか言いようがない。
(でも、たぶんそれは、極上の体験なのだ。)
すっごく気持ちいい睡眠と一緒で、あとから「あの時、すごく気持ちよかったの!」と言えるようなものではないか。
その時その場では、語る言葉を持たない。
だから、サマーディの状態を保ち続ける人がいたとしたら、彼は自らの状態を形容する言葉を持てるはずがないのだ。
ヨガとは、たぶん、「しあわせ~!」とも形容できないような極上の状態に至るための、きわめて実践的な体系なのだ。
その実践は、常に「今ここ」から開かれている。