的場悠人の体和 Tai-wa 日記

理論と実践を行き来するヨガ研究者。ここではヨガ以外のことも。大学時代から継続のブログ。

ヨーガ・スートラ解釈のメモ

【見るものと見られるもの】

 

見るもの・・実存、プルシャ、単にそこにある、そうであることを成り立たせているもの

見られるもの・・本質、プラクリティ、性質、心、身体、ストーリー、・・・

 

弁別知・・見るものと見られるものを明確に区別すること

つまり、心も身体も人生のストーリーも、見るもの(=究極の自己、自己であることを成り立たせているところのもの)ではないことを知る。(インド人たちがよく言う、”I’m not the body, I’m not even the mind.ってやつだ。)

 

見るもの(プルシャ)こそが、究極の自己なのだとしたら、それ以外のもの(見られるもの、つまり人生においてどんなストーリーを送ったとか、何に感動したとか、誰に出会ったとか、誰を愛したとか、それらすべてのこと)が、「自己」ではなく、ただ見られるもの、観照されるところのもの、ということになる。

見るものの方は、それらのストーリーや内容とは全く無関係に、ただ存在している。

 

そして、もし、「ヨガ=弁別知を確立すること」だとしたら、

 

例えば、「ヨガは人生の役に立ちますか?」という問いは、

 

「見るもの(究極の自己)と見られるもの(その他すべて)をはっきりと区別すること」(=弁別知=ヨガ)は、

「見られるものの一部である、私の人生のストーリーをよりよいものとして描き出すことに役立ちますか?」(=人生の役に立ちますか?)

 

ということになる。

 

その答えとしては、当然Noだろう。

弁別知を確立することと、見られるものとしての人生をよりよいものにすることは、根本的に無関係の話だからだ。

 

インド哲学にもいろいろな流派がある。例えばヴェーダンタ哲学は、いわゆる「人生のストーリー」、つまりほとんどの人がよいものにしようと躍起になっているまさにそれを、マーヤー(幻影)だと言ってのける。見るものこそが、唯一の実在であり、あとは全部幻だ、と。なぜこんな解釈が出てきたのだろう。たぶん、「人生は苦だ」という洞察が行き過ぎたのだろう。

人生ストーリーをすべて非実在に投げ込んで、ただ観照している自己のみがいる、という解釈は、非常に悲観的で、厭世的に思える。「お前の人生がつらかったから、そう思いたいだけだろ」と。ニーチェだったら、現世を蔑むルサンチマンだと言うことだろう。

 

ヨガ哲学の方は、もう少し温和で、二つの世界があるのだ、という。つまり、二元論的な世界解釈だ。

でも、ヨガもやはりこの二つの世界を明確に、明晰に区別することをその根幹に置いているのだとしたら、「(見られるものとしての)人生をいかによいものにするか」という現世的な問いは、二の次だということになる。

 

以上のことが、一般的なヨガ理解、つまり、二元論的にヨガを見たときに、おのずと導き出される結論だ。

 

【処世術、役立つものとしてのヨガ】

しかし、ヨガをやっている人なら誰もが思うだろうが、ヨガは実際、人生の役に立つ。

楽しく、強く、快活に生きるために、間違いなく役に立ってくれる。

 

では、実際のところ、どのようにして、ヨガは人生に役立ちうるのか。

そして、僕らがそれについて語るとしたら、どこまでそれを語ることが許されているのか。

 

いずれにせよ、「人生の役に立つ」という見られるものの側の問いは、二次的なもの、副産物的なものに過ぎないのではないか。

 

ヨガの持つ、身体的、精神的な効能が先走るあまり、このような問いがあまりに見過ごされているのではないか。弁別知を確立するものとしてのヨガと、その副産物としての効能を求めるプラクティスとしてのヨガが、あまりに混同されて論じられているのではないか。このことについて十分に論じている人や文章に、僕は出会ったことがない。

 

 

人生の役に立つということ

=個人として生きる生が、より強く、健康で、快適であることを助ける

(=世界において、力のせめぎ合いにおいて、外部から隔たれたものとしての「個」が、周囲と比べてより強く、優位であることを創出する)

→全体性の喪失、分離の強化、不均質、格差の創出

 

しかし、難しいことに、個が強者となって、自尊心を高め、自立し、(さしあたり区切られたものとしての)自己を尊重できてこそ、主体は「全体性」に目覚めることができる。

だから、ある特定の個をサポートするような言説や実践体系は、結果的に全体性への気づきに寄与する?

 

ヨガは、徹底的にマインドを扱う学なのである。

「ヨガの状態」と「ヨガ」とは、根本的に違うことを指しているのかもしれない。

 

 

以上、『ヨーガ・スートラ』を読み、ハートオブヨガを実践、指導しながらの雑考。