人が変わるということ
「私、変わったの!」などと宣言することは、
変わる以前の自分にとらわれ続けていること(あるいはまったく変わっていないこと)の、強すぎる証明である。
変わろうとするその言動が、過去の自分をかき消そうとする消しゴムの動きをしている限り、その動きは全く自由ではない。しかも、消しゴムは、消しゴムである限り、引かれていた鉛筆(=変わろうとするときに否定をする過去の自分)と同じ動きをするのである!
「なろうとしたってなれないけれど、気がついたら自然となっている」という種類のものが、何か課されたもののような言葉になって僕らを苦しめることって、すごく多い。
『ヨーガ・スートラ』で描写されている倫理的、あるいは超自然的な境地も、ほとんどがそうなのだろう。
そう考えると、僕らが能動的になし得ることは何もないのか、となる。
何かをやろう、あるいはある状態になろうと意志してしまうことが、今はそうでないことの強すぎる証明になってしまうのだとしたら、僕らにできることは何なのだろうか?
マーク・ウィットウェル曰く、ヨガの8支則の中で、意識的に実践できるのは、アーサナとプラーナヤーマだけだ、と。
確かに。。
さらに、このふたつすらも「意志せずとも」行えるようになってこそ、ヨギと呼べるのかもしれない(そうなれば、「私はヨガをしてます」と言うことすら、無意味が言い過ぎなら不要ということになる)。
何か他のものになろうとしなくても、あなたはそのままで素晴らしい。
この言葉にも、大きな真実味があるのだが、なかなか言えたものではないし、そう思おうとしたって思えるものではない。
ただ、あえてこのことを「言ってみる」ことにも、価値がないわけではない。
揺さぶられ、自己の見直しを図られるような人、状況があり得ることも確かだ。
万人にばらまかれるものとしてではなく、その時その人に届くからこそ、言葉には力が宿る。
何かの拍子で人が変わる、という体験をすることはとても貴重なことだし、それに至るさまざまな要因が、言葉となり、かたちとなり、この世に溢れているのは、不思議だし面白い。