的場悠人の体和 Tai-wa 日記

理論と実践を行き来するヨガ研究者。ここではヨガ以外のことも。大学時代から継続のブログ。

人が変わるということ

「私、変わったの!」などと宣言することは、

変わる以前の自分にとらわれ続けていること(あるいはまったく変わっていないこと)の、強すぎる証明である。

 

変わろうとするその言動が、過去の自分をかき消そうとする消しゴムの動きをしている限り、その動きは全く自由ではない。しかも、消しゴムは、消しゴムである限り、引かれていた鉛筆(=変わろうとするときに否定をする過去の自分)と同じ動きをするのである!

 

「なろうとしたってなれないけれど、気がついたら自然となっている」という種類のものが、何か課されたもののような言葉になって僕らを苦しめることって、すごく多い。

 

『ヨーガ・スートラ』で描写されている倫理的、あるいは超自然的な境地も、ほとんどがそうなのだろう。

 

そう考えると、僕らが能動的になし得ることは何もないのか、となる。

何かをやろう、あるいはある状態になろうと意志してしまうことが、今はそうでないことの強すぎる証明になってしまうのだとしたら、僕らにできることは何なのだろうか?

 

マーク・ウィットウェル曰く、ヨガの8支則の中で、意識的に実践できるのは、アーサナとプラーナヤーマだけだ、と。

確かに。。

さらに、このふたつすらも「意志せずとも」行えるようになってこそ、ヨギと呼べるのかもしれない(そうなれば、「私はヨガをしてます」と言うことすら、無意味が言い過ぎなら不要ということになる)。

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何か他のものになろうとしなくても、あなたはそのままで素晴らしい。

この言葉にも、大きな真実味があるのだが、なかなか言えたものではないし、そう思おうとしたって思えるものではない。

 

ただ、あえてこのことを「言ってみる」ことにも、価値がないわけではない。

揺さぶられ、自己の見直しを図られるような人、状況があり得ることも確かだ。

 

万人にばらまかれるものとしてではなく、その時その人に届くからこそ、言葉には力が宿る。

 

何かの拍子で人が変わる、という体験をすることはとても貴重なことだし、それに至るさまざまな要因が、言葉となり、かたちとなり、この世に溢れているのは、不思議だし面白い。