一筆書きの動き
「和の動き」に見るもの
僕が「和の動き」と聞いてイメージするもの。
茶道、能、舞踊、武術など。
よどみのない、なめらかな動きであるように僕は思う。(僕はこれらのいずれもきちんとやったことはない。)
この、一本の流れでつないだような動きを、僕は「一筆書きの動き」と呼んでみようと思う。
僕たちは、「動」物であり、常に動き続けている存在。
マクロ的に止まって見えても、ミクロなレベルでは必ず動きがある。だから、意識的に動いていく時も、本来「動き続けている」ということを忘れず、その延長で動くことが大切なんだと思う。
「動」物をやめるとき
しかし、僕らが意識的に動こうとするとき、この「動き続けているカラダ」を自ら止めてしまうことがしばしば起こる。
例えば、重い物を持とうとするとき。ちょっとその時の身体イメージを呼び起こしてみると・・
低い位置にある物を持って、足を踏ん張り、「ふんっ」と持ち上げるイメージ。
この「ふんっ」という瞬間、無意識のうちに息を止め、踏ん張ることでカラダ全体の動きも止まる。
これが、「よどみ」であり、「なめらかさ」が途切れる瞬間であり、武術的に言うと「居着き」なのかもしれない。
大袈裟に言うと、「動」物であることをやめた瞬間と言ってもいいかも。
この「よどみ」をできるだけなくしてみたい。
例えば、椅子から立ち上がるとき。「よっこらせ」と立ち上がるときには、「頭を前に倒す」→「膝に手を着く」→「足を踏ん張る」→「腰を浮かす」→「膝を伸ばす」と言ったように、いくつも分節があり、よどみだらけの動きになってしまう。
動きの要所要所に表れるこの「よどみ」は、不思議なことに、精神的にも「よどみ」となることがある。
試しに「よっこらせ」と立ち上がってみると、「けだるさ」のようなものが胸のあたりに残る気がする。「ふぅー」とため息をつきたくなるような、なんとなくネガティブな身体感。
この動きを、「一筆書きの動き」に変えてみる。
顔の前に片手を上げて、その手を斜め上に伸ばしていく。そのまま伸ばし続けていくと、いつの間にか立ち上がる。(あくまで一例。)
この時の動きには、分節がなく、はじめから終わりまで「一筆書き」で書かれた線のような、よどみのなさがある。
そして、この動きの後に残る身体感は、なぜだか、実にさわやかな感じがする。
なめらかな動きは、身体的によどみがないがゆえ、精神的にも「けだるさ」のようなものを残さない、ということか。
動作の積み重ねが、その人である
些細な違いだけど、日常で無意識に動作を繰り返している僕らにとって、この違いは意外と大きいのかもしれない。
動作ひとつによって、人はだるくもなれるし、さわやかにもなれる??
なんてこと、あるかもしれない。